ベラルーシの部屋ブログ

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ゴシケーヴィチ関連情報 シンケイ丸について 

2014-11-19 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 以前からこのブログ上で、今年生誕200年を迎えたゴシケーヴィチ情報を探していました。
 おかげさまで、いろいろなことが判明しました。

 そんな中で、ゴシケーヴィチが寄贈したという常夜灯とバロメータ(晴雨計)のことが気になっていたのですが、日本に住んでいないので、私自身が調べることができないままでいました。

 しかし日本に住んでいる方が代わりにちゃんと詳しく図書館で調べて下さって、教えてくださいました。本当に感謝しています!

 そもそも私は常夜灯のことはロシア側のゴシケーヴィチに関する文献や論文の「参考文献」のところに
 阿部正己著「歴史地理」(1920年発行)の141-146ページにある「函館駐剳露国領事ゴスケウィッチ」
 ・・・という文献が表記されているところから知ったのですが、ベラルーシ人のゴシケーヴィチ研究家から
「このバロメータは今でも日本のどこかにあるの? シンケイ丸って漢字でどう書くの?」
ときかれても答えられず、「函館駐剳露国領事ゴスケウィッチ」という本が読みたいなあ、でもネット上では読めないし、困ったなと思っていたのです。

 今回代わりに読んできてくださった形となったのですが、この文献にちゃんとゴシケーヴィチが常夜灯を寄贈した、と記述されていたのです。

 さらに詳しく引用された文献をご紹介すると「歴史地理」36巻4号 凾館駐剳露國領事ゴスケウヰッチ――(下) / 阿部正巳(大正9年、1920年)であり、この「凾館駐剳露國領事ゴスケウヰッチ」上中下とシリーズになっています。
 上中下はすべて36巻に書かれていて、上は2号、中は3号、下は4号に収録されていました。

 それを分かりやすく要約すると・・・
 
 アメリカ領事ライスによって水先案内が設置されたが、ゴシケーヴィチがこれは不便なので、1861年常夜灯を寄贈することを約束した。
 1862年8月常夜灯が到着したので、ゴシケーヴィチは函館奉行所に持って行った。
 それを初め陸上に設置したが、1865年8月信敬丸と言う船に取り付けて、弁天岬沖の港口に停泊させるようにした。
 同年10月23日に常夜灯に点火し、その後水先案内人は廃止した。

 ・・・上記のうち、陸上とあるのは弁天台のことですね。
 
 ちなみにこの常夜灯のことは函館市史通説編第1巻 3編5章4節にも記述があります。
 
 それによると・・・

「外国船の水先案内については、去る安政5年2月ライスからの申出により、水夫11人を常雇として昼夜遠見番所に詰めさせておいたが(案内料は5月までは7ドル、6月以降は5ドルの定め)、万延元年になってライスおよびロシア領事ゴスケウィッチから、日本の水先案内は役に立たないといって外国人を推薦してきた。
しかし奉行津田正路は常夜灯を設置中だから、それができあがれば水先案内は不必要だろうといってこれを拒絶した。
箱館港口の常夜灯は、安政3年5月弁天町の庄蔵なる者の願いにより弁天岬に設置されたが、翌4年台場建築のために移転を命じられ、文久元年新しい箇所に竣工した。」

 ・・・となっており、ゴシケーヴィチが常夜灯を寄贈した、とはっきり書いていないのです。
 
 阿部正己の著書にしろ、函館市史にしろ、こういう情報の元ネタ(^^;)は函館奉行所のが残した公文書だと思うのですが、結局どっちが正しい(あるいは詳しい)の? ということになります。
 
 次に亀田丸という船にゴシケーヴィチが寄贈した晴雨計のことは、元木省吾著「北方渡来」(1961年発行)の59-61ページに記述かあるとして、ロシア人研究者は自分の論文の参考文献に記しているのですが、これについても上記阿部正己の論文に記述があったそうです。

 それによると・・・

 1859年11月、函館奉行の竹内奉行と津田奉行は新しく製造した船、亀田丸に晴雨計を設置しようと思った。
 その購入方法をゴシケーヴィチに相談したところ、函館港に停泊していた軍艦ジキット号に設置されていた晴雨計を寄贈してくれた。

 ちなみにジキット号というのはロシア帝国の軍艦で、ゴシケーヴィチが領事として函館に赴任してきたときもこの船に乗って函館に入港しています。

 よく考えたら、自分の船でもないのに、軍人たちと交渉して、一つ晴雨計を譲ってもらい、
「晴雨計っていくらぐらいするのかなあ。高いのかなあ。」
なんて心配していた函館のお役人に
「あげますよ。これで買わなくてもいいでしょ。よかったね。日露友好!」
と言う感じでゴシケーヴィチはプレゼントしたんだろうなあと想像できます。

 こうして晴雨計は亀田丸に設置され、使用されていたはずですが、その後のこの晴雨計の行方は分かりません。

 さらに船としての信敬丸と亀田丸についても調べたことを教えていただきました。

 「函館市史」通説編1 3編5章8節-1~5によると、どちらも函館奉行所の備船で、信敬丸は君沢形というタイプの船で、亀田丸はスクーネル型という船なのだそうです。
 と言っても船に明るくない私には違いが分からないのですが、どちらも西洋タイプの船だけれど、建造されたのは日本国内という船で、亀田丸はロシアとの貿易に使われていたそうです。

 信敬丸は「函館市史」通説編2 4編7章1節5-2 - 函館市中央図書館によると、1872年小林重吉と言う人物が信敬丸の払い下げを運上所に出願し1873年3月許可を得て、修繕、改造をして虎久丸と改名したそうです。
 虎久丸は74トン、安政元(1854)年製造のもので・・・とあるので、信敬丸は1854年に建造された船だったと分かります。

 信敬丸が虎久丸に改造された時点(1873年)には、常夜灯は取り外されてしまったものと思われます。
 やはりその後の常夜灯の行方は分かりません。

 函館のどこかに常夜灯も晴雨計も保管されているかもしれませんが・・・


 ともかくこんなに詳しくゴシケーヴィチ情報が集まるとは今年の初めには思ってもいませんでした。
 天国にいるゴシケーヴィチに言いたいぐらいですよ。(^^;)

 調べてくださった方、本当にありがとうございます!
 

 

 


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