ベラルーシの部屋ブログ

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阿部正巳の著書に見るゴシケーヴィチ

2014-11-26 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 阿部正巳が書いた「歴史地理」36巻4号 凾館駐剳露國領事ゴスケウヰッチ――(下) (大正9年、1920年)にゴシケーヴィチと晴雨計と常夜灯についての記述があるのですが、その部分を調べてくださった方が画像スキャンして送ってくれました。

 本当にありがとうございます! ベラルーシに住んでいるとこういうこともなかなかできないのですが、プリントアウトして手にとって、じっくり読むことができました!
 晴雨計と常夜灯以外にもおもしろいことがいろいろ書いてあります。

 それによると、文久3年(1863年)8月京都から、攘夷親征の知らせが函館に届き、市民はもうすぐ外国人打ち払いの戦争が始まると驚いて、避難しようと家財道具を運び出したりしていたところ、ゴシケーヴィチは左右の手を広げて「戦いない。心配するな。」と叫びながら市内を回り、人々の騒ぎを鎮めた・・・そうです。

 その後間もなく幕府から攘夷を取り消したという知らせが入り、函館市民も落ち着いたそうですが、この状況を想像すると光景が目に浮かびますね。
 当然ですが、外国人であるゴシケーヴィチはすごく目立っていたと思います。
 たぶん当時の日本人と比べ身長なども高かったと思いますし、函館の人々が「もうすぐ日本人対外国人の戦いが始まる。やばい!」とあわてているところ、その外国人が「戦いない。」と言って回っているわけですから、かなり宣伝効果(?)があったと思います。

 ゴシケーヴィチが見せる態度は、常に「日本とは仲良くやりたいです。」という基本姿勢があって、調べるベラルーシの研究者からすると、気分がよいのではありますが、別の意味では弱腰外交で、黒船に乗って大砲を打ったりする欧米の帝国主義的な外交と比べると、地味(^^;)ですね。

 個人的には友好的な外交関係を結ぼうとするゴシケーヴィチに大賛成なのですが、地味なので、歴史の教科書では取り上げられません。
 だから、知名度が低いんですね。でも知名度が低い人にもスポットライトを当てて見なくては、と歴史を学ぶときによく思います。
 
 他にも前述の論文によれば、ゴシケーヴィチはロシア帝国政府からの命により、日本とロシアの国境を定めましょうと提案し、(ロシア側の提案は樺太と蝦夷の間の海峡なので、今の宗谷海峡ですね。)さらには「隣国和親の好みを永遠に持続せんと欲す(漢字の旧字体は改めました。)」とも発言しており、それを決定するために日本政府からロシアに使節団を送ってほしい、その使節団が乗る船は函館港に泊めてあるロシアの軍艦を使ってもいいですよ、とまで言っています。
 江戸幕府はこれに対して、承諾したと返事をしたのですが、その後幕末の時世の混乱の中、うやむやとなり、明治維新前夜の慶応2年に函館奉行がロシアの首都ペテルブルグに行ったのですが、話し合いは不調のまま終わったとあります。

 ロシア側からすれば、国境の制定の話がしたいのに、なんで一国の役人ではなく、函館(地方行政)の奉行を寄こしてきたのだろう、と変に思ったでしょうね。
 国境の制定ができなかったのも当然ですね。

 またこの論文には石炭採掘の話も載っています。
 当時のエネルギー資源として、日本(樺太や蝦夷地の)石炭はロシア人にとって大変な魅力(特に軍艦の燃料として)だったようで、ゴシケーヴィチが領事として日本へ趣いたときも、ロシア政府から、日本の石炭のことはよく調査するよう命令されています。

 そして、江戸時代末期には樺太に進出してきたロシア人が石炭を採掘して、売りさばいている、とアメリカ領事のライスが函館奉行所に密告。
 奉行所はどうしたらいいものかと、幕府に報告・相談。
 幕府が出した結論は、ロシア人が南樺太で石炭を掘るのは禁止しないが、第三国に売ったことで、国際問題が発生するのは心配なので、掘った石炭は全て、函館奉行所に売ること。つまり日本側が買い上げるからと通達しました。
ロシア側からしたら買い手をいちいち探さなくても、日本側が買ってくれて、現金収入(当時は銀貨)になったので、いい話だったと思います。

 次に問題になったのは、函館奉行が購入した石炭を樺太から船で運搬するのに、函館港に保管する場所の確保でした。こういうことは石炭を買うほうの日本人が解決する問題である気もするのですが、ゴシケーヴィチは海岸近くの土地を保管場所にするから、1000坪貸してほしいと函館奉行所に請求しています。
 一度は「そんな場所ない」と断った函館奉行所ですが、再請求されて、埋立地690坪を貸してもいいと、ゴシケーヴィチに提案。しかしその周囲の海が浅くて、船が停泊できないと分かるとゴシケーヴィチは、代替案として、そこから海の深いところまで伸びる波止場をロシア側の予算で建設することを提示しました。

 しかし外国人が波止場を日本国内に建設するのを好まなかった当時の日本人は、ロシア側にお金があるのなら、それで埋立地をさらに増やして、できた土地合計880坪を買い上げたらよかろうと言い出しました。
 これに対しゴシケーヴィチは条約の規定により、埋め立て費用や土地の買い上げをすることはできませんと断り、土地を貸してくださいという請求も引っ込めてしまいました。

 昔の記録を読むのって本当におもしろいですねえ。
 当たり前だけど会ったこともない昔の人のことが身近に感じられます。
 こうして見るとゴシケーヴィチ領事は相当忙しかっただろうなあ・・・

 鎖国政策のせいで、外国人の扱いに慣れていない(というかどうしたらいいのかよく分からず困惑気味の)函館奉行を相手にさまざまな交渉をしないといけないし、本国のほうにもしょっちゅう報告書を送らないといけない。
 しかも当時はパソコンもコピー機もないうえ、郵便が全部船任せで、しかも郵便物を積んだ船が沈没することもあったので、常に報告書の控えを2、3通手書きで複製しないといけなかったから、大変です。

 さらに領事館の運営、働いている人たちへも気配りしないといけないし、さらにはロシア病院、教会、ロシア語学校などの運営もしないといけない、函館に来てすぐのころは通訳の数が足りなかったので、領事自ら医者の通訳をしたり、連れてきた奥さんは結核患者で病弱(函館で死去)、血が繋がっていない息子の養育もしないといけないし、さらには日露友好のためのイベントも企画、当時の日本では珍しかった写真撮影会をしたり、クリスマスパーティーをしたりして日本人を喜ばしていますが、目の回るような忙しさです。
 
 こんなに忙しいのに、趣味の昆虫採集をやって、蝶の研究までしていたんだから、すごく能力が高い人だったと思います。

 ゴシケーヴィチは領事として友好外交路線を進んでいたのですが、日本に進出してきたロシアの軍艦、つまり軍人は政治家としての領事を当時は軽んじているところがあって、あまり領事の言うことを聞かず、自分たちのやりたいことをやろうとしていた風潮があり、こちらのほうでもゴシケーヴィチさんは手を焼いていたようです。
 ストレスたまっていただろうなあ。

 そもそもゴシケーヴィチはロシア人ではなくベラルーシ人で、それだけでロシアでは人種差別されていたようで、しかも田舎の村にある教会の司祭の息子という出自。
 勤めていたロシア帝国外務省の上司や同僚はロシア貴族だらけ、軍人もそう、という環境の中で、たぶん職場いじめ(^^;)にあってたと思います。

 それが日本語できるから、と言う理由で領事に出世したわけです。(見方を変えれば、日本なんて未知で未開の国の初代領事なんて大変すぎていやだから、なり手が他にいなかったのかも。)

 貴族とちがい、庶民感覚、聖職者感覚の人間だったゴシケーヴィチが、函館へ来て強行タカ派外交なんてするわけないですね。

 でも一生懸命建てた領事館の建物が、隣のイギリス領事館から出た火事の火がが飛び火して全焼していまうと、さすがのゴシケーヴィチも完全に落胆してしまい、長年異国の地で働きすぎて、すっかり老け込んでしまい・・・つまり、疲れて燃え尽き症候群になりかかっているので、そろそろ本国に戻りたいんですけど、次の領事決めてください、という願い書をロシア帝国外務省に出しています。

 当時の国際郵便は船便なので、手紙の片道が数ヶ月もかかり、帰国命令が来るまで大変な時間が必要でした。やっとペテルブルグへ戻るまでの間も結局、仕事漬けだったゴシケーヴィチ。

 戻った後、ようやくそれまでの業績が認められて、身分が貴族になりました。
(手柄を立てるとご褒美として身分が変わる、というのがすごい。)

 その頃ロシア学校でロシア語を勉強していた日本人の生徒たちを手助けしてペテルブルグへ留学させていたのですが、その生徒に対してゴシケーヴィチはあまり面倒をみていません。
 慢性肺炎になって体調が悪化してしまったことが理由ですが、退職を決めて、再婚した奥さんの故郷ベラルーシのマリ村へ。

 ちなみに貴族にもなり、外務省で働いていたゴシケーヴィチがもらっていた年金の額はかなり高額で、マリ村の一軒屋を買って、そこで平和なセカンドライフを始めます。

 しかし常に何かやっているゴシケーヴィチ。日本から持って帰った本のコレクションを広げて、日本語と中国語に関する本を執筆します。やっぱり学者肌なんですよねえ。

 残念ながらマリ村での穏やかな時間はそんなに長くなく、5歳の息子を残してゴシケーヴィチは死去します。

 何と言っても昔の話なので、大変な苦労がたくさんあったと思いますが、才能と努力で何とか乗り越えて、そして後世にいろいろなものを残しているので、ゴシケーヴィチはベラルーシの偉人だと思います。


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