電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

浅田次郎『流人道中記(下)』を読む

2023年08月18日 06時00分29秒 | 読書
中公文庫で浅田次郎著『流人道中記(下)』を読みました。表紙カバー裏の作品紹介には、次のように書かれています。

「武士が命を懸くるは、戦場ばかりぞ」。流人・青山玄蕃と押送人・石川乙次郎は、奥州街道の終点、三厩を目指し歩みを進める。道中行き会うは、父の仇を探す侍、無実の罪を被る少年、病を得て、故郷の水が飲みたいと願う女。旅路の果てで語られる、玄蕃の抱えた罪の真実。武士の鑑である男がなぜ、恥を晒してまで生き延びたのか?

うーむ、やっぱりこれ以上の要約は無理だなあ。読み終えたあとだから感じる、この紹介文の過不足ない的確さです。



流人と押送人の二人旅という設定は新鮮で、一つ一つのエピソードは思わず息を呑み、ほろりとして、また笑えるものです。その意味では、物語として実にうまい。上下二巻、大いに楽しみました。

ただし、では作品として納得できるかと問われれば、疑問が残ります。物語の最後に明かされる流人の冤罪の真実。それは武士という存在自体に矛盾というか罪と感じてしまった自分自身もまた、その武士の一人であるということ。そこから青山玄蕃は家族や家臣たちの怒りを押し留め、実に個人的な解決を導いたわけですが、これは魯迅の『阿Q正伝』の「精神勝利法」ではないのか? 青山玄蕃一人が武士階級の矛盾を背負って無実の罪に服するというのは、概念操作で失敗を成功にすり替える万延元年の「阿Q」ではないのか。

作者がどのように考えてこうした物語を想像したのかは想像できませんが、どうも逆説好みというか、逆転の発想を好みすぎて物語の流れを作ってしまったように感じてしまいます。


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