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誰でもなんらかの体験を持っており、個人的な批評がしやすい分野では、たくさんの批評が生まれるのだろうと思います。でも、ふつうあまり体験することのない分野、たとえば骨董については、誰でも所有しているというわけではないので、相対的に批評の数は少ないだろうと思います。つまり、批評の数は、ごくおおざっぱにいえば、経験を持つ人々の数を反映しているものと思われます。
また、有名人による批評は、大きな影響力を持つことが多いわけですが、それはたぶん、マスメディア等に載ることが多いためでしょう。彼らがミニコミ紙誌に書いた場合は、それほどの影響力は持たないのではないかと思います。これも、母集団の数が、基本になっています。
いっぽう、多い少ないという、数でははかれないものもあるかもしれません。当事者が、不本意な批評を見て頭に来ることはよくあることでしょう。これは数ではなくて、相手がたった一人であっても、悪意を持った言葉の刃に傷つくことはあります。
ブログやウェブの普及で、有名無名の個人が批評を発表することは自由になりました。それだけに、受け止める側の冷静さが必要だと言えるでしょう。多数の人が好意的に受け止てくれめたときは、全体として良好と判断して良いのではないでしょうか。
逆に、もし一人乃至ごく少数の人だけが悪意で受け止めたなら、それは何か別の要素があるのかもしれないと考えるべきなのではないか。その人だけが欠点を認識できた可能性がないではないが、もしかすると単に、昨日ふられた彼女の彼氏の意見と共通だったからとか、気にくわない上司と同じ名前だからとか、そんなような理由なのかもしれないではないか。そんなふうに考えると、少しは冷静でいられるように思います。
いや、それを考えると、作品発表とともに批評にさらされる、作家や音楽家の方々の辛抱というのは、たいへんなものですね。まったく無反応、というよりは良いのかもしれませんが。
また、有名人による批評は、大きな影響力を持つことが多いわけですが、それはたぶん、マスメディア等に載ることが多いためでしょう。彼らがミニコミ紙誌に書いた場合は、それほどの影響力は持たないのではないかと思います。これも、母集団の数が、基本になっています。
いっぽう、多い少ないという、数でははかれないものもあるかもしれません。当事者が、不本意な批評を見て頭に来ることはよくあることでしょう。これは数ではなくて、相手がたった一人であっても、悪意を持った言葉の刃に傷つくことはあります。
ブログやウェブの普及で、有名無名の個人が批評を発表することは自由になりました。それだけに、受け止める側の冷静さが必要だと言えるでしょう。多数の人が好意的に受け止てくれめたときは、全体として良好と判断して良いのではないでしょうか。
逆に、もし一人乃至ごく少数の人だけが悪意で受け止めたなら、それは何か別の要素があるのかもしれないと考えるべきなのではないか。その人だけが欠点を認識できた可能性がないではないが、もしかすると単に、昨日ふられた彼女の彼氏の意見と共通だったからとか、気にくわない上司と同じ名前だからとか、そんなような理由なのかもしれないではないか。そんなふうに考えると、少しは冷静でいられるように思います。
いや、それを考えると、作品発表とともに批評にさらされる、作家や音楽家の方々の辛抱というのは、たいへんなものですね。まったく無反応、というよりは良いのかもしれませんが。
たしかに、批判をされる、批評をされるのは、避けられないことがあります。ただ、批評をしてくる相手を良く見る必要があります。批評する資格のない相手の批評は、褒められようがけなされようが、ほとんど意味がありません。本当の意味で批評をする能力のある人かどうか、これを、できたら、確かめてから、対応するのが一番です。スタートが悪意で、けなしてくる相手も結構いますし、そういうのは頭にくるかもしれませんが、笑って過ごすのが、まあ、スジでしょう。私も、あるブログで、執筆者の体調を心配して一文を書いたら、全く意味不明のこき下ろしに遭い、びっくりして退散したことがあります。ただ、だんだんと判ってきたのは、そのブログが、そういうところ(レベル)だ、ということでした。書くに値しない、ということで、だとするとそういうことで立腹するのはそれだけで損、ということです。それがわかってからは、実に快適です。
それに対して、作家や音楽家の場合は、ある程度批評にさらされる覚悟ができているのかもしれませんね。
世に問うたほうに責任の一端はある、まさにそのとおりだと思います。
肯定的否定的に係わらず、ためになる批評というのは誰にとっても価値があるのですが、的外れな批評はどちらの場合も意味を持たないでしょう。
勿論、的外れな批評を怒る人はありますが、明らかに外れているならば気にする必要などないのです。意識していなかったことに気付かされて動揺していたり、反対に褒められて迷惑至極ということもあるでしょう。
どのような場合も世に問うた方に責任の一片はあるに違いありません。