Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

笑ってしまう靴下の右左

2016-09-30 | 生活
思わず声を出して笑ってしまった。まさかと思ったからである。先週出かけるときに靴下を履こうとすると足首のところに指が掛かってそのまま穴が開いてしまった。散々使って洗濯しているから、化繊が多くてもいつかは破れる。問題は片方がまた使えることで、但し左右が指定してある靴下なので、右が破れたので左だけが残った。この靴下は二足組で安売りしていたスイスのローナーの物なので質はいいのだ。だから以前破れた片方も保存してある。但し探さなければいけない。

探す序にもう一つモンブラン山群などに履いて行って機能に不満を持った靴下もゴミ袋に発見した。機能の問題で、底は薄くなっているが街履きよりも厚めで、特に冬場には使えそうだとゴミ袋から敗者復活させた。肝心のもう一足は探す気力なく放っておいたのだが、ここは勝負と思って一寸探すと見つかった。そしてなんと反対の右側が残されていた。笑いが抑えられなかったのだ。

二年ほど前に破れた靴下であるから記憶が定かではなかったのだが、保存しておいても稀に役立つという事だ。捨てるばかりでなく先を見る目が大切だ。それでも上手く左右異なる方が破れたのは確率的にも偶然だろうか。一般的に足の使い方は変わらないので破れる方はいつも決まってはいないだろうか。通常は左右対称になっていないので気がつかないだけである。手の指で破れたのはそれとも前回も同じだったもしれない。という事は今度破くときも同じようなことになりそうである。長持ちさせる方法はあるのだろうか。兎に角、スポーツ用品は紳士ものと異なって耐久性と機能性があるので、初期投資は大きいかもしれないが、使い方によっては大変お得になるものが少なくない。最近は走るような服装でうろうろすることが増えてその点では安上がりである。

バーデン・バーデンからお知らせが届いた。そのマガジンにソコロフのピアノリサイタルが19ユーロとあったので興味を持った。2008年頃に天才指揮者キリル・ペトレンコが天才ピアニストとインタヴューで称しているのを読んでしまうと、この価格では無視できなくなった。日時も適当であり、プログラムもシューマンなので調べてみると、その価格の券は売り切れていて、29ユーロの比較的良い席が一枚だけ残っていた。散々迷ったが ― 正直チャイコフスキーコンクールの優勝者でどれだけの素晴らしい音楽家が居るかと考える ―、ネットの録音では分からないところが聞きたくなって先ずは席を確保しておいた。昨冬にはマウリツィオ・ポリーニのリサイタルが同じように25ユーロで最後の一枚が残っていたのだが、あまりにも最近の演奏会の評判が悪いので断念したのだ。少なくともそれよりは良さそうだ。調べてみるとロシアの爺さんと思っていたのだが、その見た目とは異なって50年生まれとまだまだ若い。節制をしている人ならばここ数年で売れてきてもそれほど悪くはなっていないだろうと考えた。スイスとヴィーン以外にドイツ全国ツアーである。近辺ではフランクフルト、シュトッツガルトや足代の掛からないBASFでも同じリサイタルがあるのだが ― つまりファンならば最低四回は同じプログラムを聞ける ―、しかしそこでは最低の席が40ユーロ近くと比較的高価で、ホールは改造されたと聞くがそれでも空間容積は変わらないので音響的に疑問が残る。足代で最低20ユーロ以上余分に掛かるバーデン・バーデンの狭く仕切った会場の方が音響は明らかに良いのではないかと思ったからだ。もしこのピアニストが本当に良いならば将来はバーデン・バーデンを本拠に演奏すればよいだろう。11月の鬱陶しい時期のお出かけとなる。



参照:
ハイテク製品の収集効果 2015-05-01 | テクニック
温度調整つきの環境 2013-07-15 | アウトドーア・環境
インタヴュー、時間の無駄六 2016-08-13 | 文化一般
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深圳からの直送便

2016-09-29 | 生活
一月前に発注していた商品が届いた。中共の深圳からの直送便である。HDMIのアダプターを繋ぐもので、アマゾンで2.29ユーロ支払った。現在は値下がりして2.20ユーロで買える。そして送料無料というのが凄い。チャイナポストの履歴を見ると八月の終わりには大韓航空に引き渡されていて、その後は消息不明になっていた。それでも一月掛かることは最初から分かっていて、多くの購入者が大満足している商品である。そもそもこの費用で送料まで出ているのが凄いのだ。同様商品の三分の一の価格で品質は同じである。

ざっと計算すると、製品仕入れが70セント、送料も70セントとして、包装代が20セントとすれば、まだ60セントほどは儲けが出る。最大一ユーロの儲けならばまずまずかも知れないが、中共も物価が上がっているので結構厳しい数字ではないだろうか。今や東京よりも上海の不動産の方が土地がついていなくても価値があるという時代である。

早速繋いでみると完璧である。皆が満足する筈だ。このような商品が中共から押し寄せて来るのであるから、中途半端な日本製などには世界的に競争力が無くなってきている。メードインジャパンは少なくともジャーマニーよりも高品質でなければ売れない。そのような商品など限られる。

最近は中華製品の愛用品が増えている。レノボのヨガタブレットに続いて、ベンキュのモニターは初期作動として文句無しである。ヨガの方も使用三年目に入っているが、自慢の蓄電池も殆ど性能が落ちていない。もう一年このまま動いてくれれば文句はない。同じように台湾製品の方も保証期限を超えて正常に作動してくれるようならばもはやどこの国のモニターも勝負にならないのではなかろうか。アナログ時代に購入したソニーのトリニトロンのTV受信機はまだ正常に動いているようだが、年に数時間も電気を流さないので新品同様である。このTV受信機が自身の最後の受信機となるのだともはや確信している。

公共放送の受信料のことから独第二放送局を閉鎖するという話が出た。それに対しては強い反対が寄せられたようだが、そもそも問題の多い放送局でありスキャンダル報道しかしないので閉鎖に賛成である。閉鎖しないとなると受信料を値上げするいうので、腹立たしい限りである。第一放送局をもう少し強化して地方ごとの独自性を強く出す方が理に適っていると考える。ラディオ放送と同程度に州毎の独自番組を制作するぐらいでないと駄目だろう。

国ごとに同じような番組やドラマを観て云々するような社会はおかしい。時代に合わないのである。それ故にTV放送などは一挙に意味を失った。我々世代は最初からTV中継があったので一番TV世代と呼ばれる筈なので、余計に飽きたという感じもあるのかもしれない。どうも上の世代となるとネットへの切り替えが充分でないようなので逆にTV文化にしがみ付いているようなところがある。といったところで、モニターは今後とも複数を使いこなしていくことになりそうで、冷却の問題が解決されればプロジェクターも欲しい。

タブレットと同時期に購入した炊飯器で、最も手軽な米を無洗米モードで炊くと日本風のご飯の炊き上がりになることが分かった。要するにぱさぱさせずに適当にふっくらするが粘ることが全くないのである。この可能性は面白いと思った。もう少しごはん食を試してみたい。



参照:
三つの穴を埋めた気持 2016-09-01 | テクニック
明けても暮れてもタブレット 2014-09-18 | テクニック
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碧眼に気づくとき

2016-09-28 | 
視線を絡ませたとか書いた。それがどうだろうか、なにも見ていなかったのかもしれない。そんなことがあるのだろうか?一体何を見ていたのだろう。ユリアの眼が碧眼だとは気がつかなかった。まさか着色コンタクトレンズを入れているとは思わないのだが、なんとなく茶系と思ったのは何故なのか。光の加減で若干変わるのかもしれない。

所謂虹彩の色はつまりアイリスの色は、瞳孔が開くことで目立たなくなるという事が分かった。交感神経・副交感神経が、其々瞳孔を開け、またそれを縮めることにアドレナミン作動性とコリン作動性がホルモン分泌で調整されているので、虹彩が目立たなかったり目立ったりとなるようだ。

なるほど今までは瞳孔開かれっぱなしの興奮状態で視線を絡ましていたことになるのだが、偶々その時は閉じられる方向にあったという事で、どのような神経が働いていたのかは分からない。しかし、こちらの方は開かれっぱなしだった筈だ。無意識にこのようなときは女性の警戒心のようなものを感じるのだが、最終的に相対するときには再び虹彩が目立たなかったのを記憶している。

なるほど、彼女のそぶりに以前より落ち着きのようなものがそこにあったのは事実で、関係がこれから深まっていくのかどうか、とても興味深いところである。これまでがあまりにお互いに興奮状態だったので、これは男女関係としてもあり得ない。

碧眼というのは当然寒色であるから熱気よりも冷静さを感じさせる眼の色である。今まで口説く対象となった女性を考えてみる。意外に多くはない。背後に色々な血が混ざっているとなると更に様々な色合いがあるので容易に色が特定できなこともある。寧ろマジャール系などの複雑な色の眼の方が印象に残っている。但しその色が熱を帯びていたからといってもただそれだけのことで、こちらが勝手に誤解するのに近いのだ。

そもそもドイツ女性といってもブロンド碧眼というのは北ドイツのスカンジナヴィアなどに近いところを除くとそれ程の多数ではなく、本当のブロンドも多数ではなく、この辺りでは一般的には茶色と答える。そのようなことから碧眼の印象というのも実はそれほど多くはないのである。そして今回のようになるほど印象が残っていないとはこういうことだったのかと分かった。

アングロサクソン系のスパイ小説などのベットシーンで男の碧眼のその虹彩の深さに落ちていくというような記述が良くあるが、なるほど弛緩とその時の虹彩の拡張を表現しているのである。その前後は逆に目立たないという事を語っていることにもなる。

碧眼という言葉が、比較的使われる背景には、他の複雑な色彩に比べて単純でそして普段は見落としてしまうことが多いので、そこに特別な色彩を見出すとなればそれはそれで表現になるという事のようだ。一般的には深い海だとかいう表現になるのだろう。



参照:
視線が絡むということ 2016-08-02 | 女
生への懐疑の反照 2005-11-15 | 雑感
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使えるような体幹を

2016-09-27 | アウトドーア・環境
久しぶりに良い感じで走れた。外気温は摂氏11度だったが陽射しがあって気持ちよい。乾いていて身体が軽い。軽く柔軟体操してから走り出すととても足取りが軽く感じた。自宅を出る時は疲労感もあって、なんとか峠をゆっくりと目指すだけと感じていた。時計もどちらでもよいと思ったぐらいだ。その足取りで、これは少し頑張れるかなと思った。最初のカーヴまで厳しささえ感じずに快調なテムポで走れたからだ。理由は分からないでも、こうなればこのテムポを最後まで続けるだけだ。中間地点ぐらいでも、下りの速度を想像したりで、余裕がある。そして頭の中では最近は見かけないそのコースを走っていた爺さんを思い出し、それよりは早いかなと思うぐらいだった。そして、汗もあまり掻かないぐらいで、肌寒くもない丁度良い気候を感じながら走り続ける。そして最後のカーヴをまだかまだかと思っていても知らないうちに過ぎていた。この辺りで、これならば五月以来の20分割れは達成できるという気持ちになった。それでも慌てないでテムポをキープすることだけに留意する。想定内の印象で峠に到着、降りに入る。50mほどは息が切れていたが、徐々の落ち着いてきて、降りでもしっかり走るように留意する。顎が上がるころに、向こうから登って来るライヴァルの婆さんと擦れ違う。息が上がるが、最後の長い下りまで我慢する。汗が噴き出して、そのままゴールだ。時計を見るとジャスト33分。自宅で確認すると登りも19分40秒で一月以来の記録であり、33分は記録のようだ。

勝因は何よりも気候であろうが、最初から足取りが軽く感じたのは何故なのか?準備体操が活きているのは間違いないが、正しい快適なテムポが最初から刻めたことだろうか。前日は軽く夕食を取った以外は試飲会のワインだけだから、比較的体重が軽かったこともある。それ以外には膝が若干柔軟性を帯びて来た感じがしたことが挙げられる。その他の睡眠などは通常通りで決して良くはなかった。そして通常ならば足取りが重くなって来るようなところでも呼吸を含めてスムーズに推移した感もある。手の振りも悪くはなかった。そして降り坂でのスピードトレーニングを始めた成果も出たようだ。もう少しそれが身に着くと32分台を安定して出せるようになるかもしれない。登りはもう一分短くなるので32分割れが目標となる。登りのピッチがもう少し長くはならないものだろうか。Tシャツ、短パンで走れるうちにどこまでできるだろうか?

いい記録が出た後、腹筋と腰の裏が疲れていた。もう一つ肘の上がクライミングのあとのように疲れていた。前者は体幹を使う走り方に近づいているという事かも知れない。ネット情報を見るとそれによる効果として、肢体の動きが良くなるという事なので、意識はしていなかったのだが柔軟体操の後の足取りの軽さはここから生じている可能性が出てきた。あの軽く足が出る感じが体幹を使う走りなのか?柔軟体操のやり方ももう少し改良すると同じ時間でこの体幹の動きに関与する筋肉が使い易くなるのかもしれない。どうも今やっているのではラディオ体操の応用のようなもので今一つだ。それでも習慣付いて来たので、忙しいときでもその二三分が待てるようになった。

実はクライミングの課題も同じようなところにあると思っている。今課題にしているボールダーの技術がこの辺りのトレーニング無しには出来ない。最終的にはクライミングでは天井をスパイダーマンの様に這う技術となるのだが、これがボルダーでまだ全然出来ていないのに気がついたのだ。初心者が陥り易い腕力と間違えていると体を痛めるだけなのだ。肩を痛めてより強い自覚となった。どうもこれも体幹を使う技術である訳で、山スキーにも活きる訳で、何とかものにしたいのだ。



参照:
今こそターンテーブルの時 2016-05-03 | マスメディア批評
カラカラの状態の結果 2016-01-26 | 生活
以前のものと比較する 2015-06-17 | 生活
雑食砂岩での怪我の功名 2016-09-10 | アウトドーア・環境
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12本選択するとすれば

2016-09-26 | 試飲百景
秋晴れの気持ちよい試飲日和だった。例年ならばこれほど気温は低くないので、陽射しが丁度気持ちよかった。ラインの渡しでも例年とは異なる快適さがあった。ラインガウの湿り気も感じることなく、キードリッヒへと車を進めた。車を町に向けるとグレーフェンベルクの斜面が大きく剥ぎ取られて茶色に輝いていた。植え替えである。目指すロベルト・ヴァイル醸造所だけでなく近辺の地所と一緒に土壌改良へと動いたという事だ。グランクリュの15%ほどがそこに含まれている。今までの葡萄は40年ものだったようで、まだまだ上質の土壌を準備したものではさらさらなかったであろう。それどころか十二分に化学肥料などを沁み込ませていたに違いない。そのことは話さなかったが、ビオデュナミなどの素材などの話に及んだ。要するにラインガウでもそろそろビオヴァインでなければ勝負にならなくなってきているに違いない。

先ずは、グーツリースリングを試す。予想に反してミネラル風味があって清涼感がある。逆に言うと例年の酸が表に立たずに引っ込んでいるという事である。案の定、酸と糖が8g程度と半辛口仕立てになっているのである。そして階級が上がるにしたがって辛口へとその内容量が変わって来る。同じような傾向でオルツリースリングのキードリッヒも、予想していたように暑い夏の2015年にしてみると、それほど重くはないのである。アルコール12.5%であるから丁度良いぐらいである。そして酸もミネラルも明らかになって来る。

その次が黄土層のクロスターベルクである。これは流石に粉っぽいミネラルで、リースリング好きにはまるでラインヘッセンのようで若干げんなりする。それでもそれほど悪いとも思わなかったが、繰り返して試すことはなかった。そしてお目当てのテュルムベルクである。これはグラーフェンベルクの上部にあり、勿論風通しもよく気温などの点で暑い夏には有利である。前回このリースリングが良かったのは2009年産だった。傾向は似ているかもしれない。

そしてグローセスゲヴェックスのグレーフェンベルクである。これまた想定外の柔らかさである。例年ならばもう少し硬質で二年ぐらいは寝かしておかないと飲めないものである。要するに木樽による酸化で熟れ過ぎているような印象を受ける。それ故に期待されるミネラルの強さは感じられない。今年は前予約をしていないので無理して買わなくてよかったのだが、現時点ではリースリング好きには物足りなさを感じさせた。要するに柔らか過ぎる。

今年からは試飲会は一人12本を購入して初めて無料となるので、12本を選ぶ。先ずはキードリッヒかグーツリースリングかとなるが、六本買うならば前者で決まりだ。後者は飲み頃で飲みやすいが六本も開けているうちに飽きが来るだろう。そしてしばらくすると甘さが勝ってくるかもしれない。そして価格も割高である。もう六本は最もミネラルが確りしていて、例年ならば酸が充分にこなれていないテュルムベルクでいいだろう。安くはないが、今年の一本となるならこれだろう。その証拠にお替りを貰う常連さんもこの辺りに集まる。勿論飲みやすさではグレーフェンベルクなのだが、それは味が現時点で開いているということでは決してない ― もしそのようなことなら二年後には駄目になる。

その他で印象に残ったのはやはり甘口テュルムベルクのシュペートレーゼで、これも甘口グレーフェンベルクよりも酸が効いていて良かった。その他ではシャルタを試したが、苔臭いような感じで明らかに健康に熟成した葡萄というのからは遠い感じだった。若摘みだろうか。その他は試す価値もなさそうで、常連さんの人気も全く無かった。



参照:
ヴィルヘルム・ヴァイルのワイン 2010-09-05 | 試飲百景
素晴らしい投資相応の価格 2012-09-11 | 試飲百景
ラインガウへの途上で 2015-09-27 | 試飲百景
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シーズン前に総括される

2016-09-25 | 文化一般
文化欄に先日終了したベルリンのフェストシュピールの総括が記事となっている。そもそも私にとっては同時期に開かれていたベルリナーフェストヴォヘには何度も足を運んだが、それが最近フェストシュピールに成っていることに気がついたばかりである。なにが異なるのか、なぜ名前に変更がなされたのかは分からない。2004年から名称が変わっているようだ。恐らく広範な芸術祭になっているのだろう。

その中で興味深かったのは、ベルリンのフィルハーモニカ―が指揮者アンドリス・ネルソンズの指示を無視したという事である。それによると「最後のタクトが終わってからも暫く弓を当てておけ」と指揮者は望んだようなのだが、半数はそのようにはしなかったというのである。この交響楽団のあまりにもの自意識過剰な姿勢は最近は話題になることが多いが、明らかなサボタージュをしたようだ。先日も言及したところだが、このラトヴィア人への信頼は、ボストンでのショスタコーヴィッチシリーズをライヴ録音で売り出すというように、メディア市場では大きいようだが、現場では既に足元を見られているようだ。上の指示の妥当性や芸術的な意味合いは分からないが、今や高学歴のフィルハモニカ―を納得させるほどの説得は出来なかったのだろう。管弦楽を鳴らすという事に掛けては秀でた指揮者で、その音楽的才能もトップクラスの人ではあり、バイロイトの初代音楽監督とはものが違うのだろう。それでも方々で虐められているのかもしれない。ベルリンのフィルハーモニカ―に関しても、ここ暫くも多くが語られていて、次期監督はその自意識過剰な集団を如何に手中に治められるかといういう話だった。

ミュンヘンの座付管弦楽団のアルテオパーでのツアー最終演奏会の批評記事も読んだ。興味深いのは、最初に「マイスタージンガー」序曲を持ってきたプログラムでの演奏会の感想だった。アンコールでのそれとは異なり精密でとても管弦楽団にとっては要求の多い演奏で、それでもコーダに掛けて二発三発と加速をしていて、最初のブラヴォーを待つだけとなったとある。そして二曲目の精妙さの極みの「最後の四つの歌」に、うって変わっての休憩後のチャイコフスキーに言及されている。アンコールでの可能性のある「ルスランとリュドミラ」序曲の言及はない。やはり前半と後半とのコントラストへの言及があるので、「マイスタージンガー」序曲を可成り丁寧に演奏していたのは間違いなさそうである。我々は劇場でのそれを聞いているので、どのように演奏されたかは想像がつくが、そのように弾くことはいつものお仕事なので全く訳がないことだろう。

チャイコフスキーに関してはミュンヘンでおかしな評論があった。それによると、キリル・ペトレンコは楽員をしごいていて、その交響曲のフィナーレで聞こえるのは労苦の叫びと怒りいうようなことが言いたいらしい。これに関しては「音楽家で今日より明日を更に上手に演奏しようと思わない人はいない」といういい方が最もしっくりくるのだが、そこまで追い込める音楽集団であるという自負や誇りが無い限り、日常の連夜のお勤めや連日の本番勝負などは出来る筈がない。ボーナスは出るのだろうが、それ以上の動機付けが無いことには音楽などは出来ないのはスポーツとも似ているかもしれない。そしてこうしたおかしなことを書きながら、シュトラウスではダムロウの母音が二三度落ちてティーレマン指揮のハルテロス?かはそうではなかったと本心が出て来る。どうもあの手の人たちは未だに信じたいものがあるようで拘り続けているようだ。理由は分からないが、どうもそこにはメディアの圧力ではない信仰のようなものがあるらしい。

キリル・ペトレンコのフランクフルトとの付き合いも2006年頃に後任音楽監督として歌劇場との交渉に入っていたと書いてある。結局コーミシェオパーを離れてから、その後の「ホヴァンシチーナ」、「パレストレーナ」と「トスカ」を客演するに終わっている。だからバイロイトで「指輪」を聞けた人は幸せだと書く。条件や環境はそれほど悪くは無かったと想像するが、前任地とそれほど雰囲気の変わらないこじんまりとした劇場なので、大きな跳躍板にはならないと考えたのだろうか。

ミュンヘンには、放送交響楽団以外にフィルハーモニカ―があり、音楽監督には反対運動にも拘らずプーティンの指揮者ゲルギーエフが就任している。報道によると予想通り評判が悪い。ロシアものに比べて他のレパートリーでは全然駄目だというのである。そもそもこの指揮者に何を期待したのかは分からないが、西欧の音楽先進国ではあのような音楽では通じないのは当然ではなかろうか。もう一人のマリス・ヤンソンスでさえアムステルダムのコンセルヘボーでは荷が重すぎると言われていたのである。



参照:
九月の四つの最後の響き 2016-09-23 | 音
インタヴュー、時間の無駄三 2016-07-30 | 文化一般
インタヴュー、時間の無駄二 2016-07-24 | 歴史・時事
視差を際立せる報道 2008-09-29 | マスメディア批評
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ありのままを受容する

2016-09-24 | 歴史・時事
車中の朝のラディオは、キリスト教民主同盟の中での争いが話題となっていた。メルケル首相の難民政策によって、大きく支持を失い、その支持がポピュリスト政党のAfDに移っていることを懸念してのバイエルンの姉妹政党キリスト教社会同盟からの批判を受けてのことである。当然その党首ゼーホファーにしてみれば当然の政治的な戦いなのだが、その「キリスト者優先の政策」には大きな批判が寄せられた。ラディオが伝えるように、頼みのカトリックの大司教がこうした難民への態度を反キリストと「恥を知れ」と叱ったことからその足場が崩れた。更に、メルケル首相がノーベル平和賞でも受賞することになると政治状況は一挙に変わってしまうという事のようである。そして今更ながら冷戦当時のような対抗軸しか出せないバイエルンの地方政党の将来性が問題となる。

文化・芸術・音楽など具に見ていくと、未だに頭の中が20世紀の人々は専門家筋でも少なくない。その人達が完全に20世紀人なのだから当然と言えば当然なのだが、殆ど頭の中がアルツハイマー級の呆けとなってしまっているのである。そうした政治家を戴いているようではお話にならないという事である。

新聞には、蓮舫党首の記事が載っていた。そこでは女性問題よりも国籍問題が日本の右翼筋にとっては重要案件であるという彼らの人種主義を報じていた。その記事を読んで、党首の日本名が村田とあって、初めて聞いたのだが、シナ名は書いていなかった。理由は分からない。日本国民栄誉賞の台湾人王監督のように、もともと国民党系のメインランドの人なのだろうか?

難民問題に関していえば、先日新聞に載っていた一覧表に驚いた。それによると受け入れ人数では流石に連邦共和国は多いが、それ以上にアルプスの小国オーストリアなどでは人口比では一割を簡単に超えていた。スェーデンとは比較にならないとしても、スイスでもそれほど比率は少なくないのだ。なるほど国民にとっては不安になるのは致し方ない。それらが移民志願者であるのか、只の難民であるのかでも大きく異なるが、その数字は予想以上であった。

また、新しい記事には、世論調査の結果が載っていて、政党別の意識調査が興味深かった。それによると、緑の党の支持者などは移民の比率も多いのかもしれないが、そもそもの「ドイツの国民性」などというものは「あるならばある」と多くの支持者が考えていて、予め規定されているものではないという事だ。恐らくそれは正しいのだろう。

このような状況を見ていると自分自身も完全に20世紀人で未だに構造主義的な思考態度から抜け出せないのではないかと思うようになった。三宅洋平の選挙スローガンではないが「ありのままの姿」に対応できないとなると、とても馬鹿らしいと感じる。無限に広がる水平線の彼方へと意識すらも向かわなくなるからだ。その彼方にはどれほどに豊かで広大な風景が広がっているかもしれないのである。そうした希望すら無くなってしまうようでは生きていることすら損なのである。現実のポピュリスムが勃興する世界において、それへの対抗として提示出来るものこそが、こうしたありのままを受け入れる姿勢でしかないのではなかろうか。



参照:
自分らしくあれる社会 2016-07-03 | 文学・思想
多義的ではない多様性の焦燥 2009-11-22 | 女
旨味へと関心が移る展開 2009-11-07 | 文学・思想
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九月の四つの最後の響き

2016-09-23 | 
火曜日の晩はミュンヘンからの中継に耳を傾け、そして眼をやった。私にとってはラディオ放送とヴィデオストリーミングの同時中継は初めての体験だった。いつかヴィーンのノイヤースコンツェルトでTVとの同時中継のタイムラグが話題になった。同じように覚悟していた。なによりもラディオを高音質で録音したいと思っていたので、画像は二の次だった。装備的に同時録画・録音は困難なので、決して交換サイトでは見つからないラディオ録音に集中する。それもどうしても聞きたかったリヒャルト・シュトラウス作曲「最後の四つの歌」が狙いである。これで無理して欧州ツアー最終日のアルテオパーに駆け付ける手間も時間も費用も省けた。

先ず驚いたのがど迫力の動画だった。4Kを使っているぐらいの肌の形状が掴めるような大写しが続いて、普段はピットで隠れている楽員さんを気の毒に思うほどだった ― 永久保存のアーカイヴ化する予定なのだろう。そのアングルはあまり音楽的な必然性があるかのようなズームはしておらず、ある意味では無関係、ある意味では邪魔にならないかもしれない ― 先日のベルリンからの中継のそれが楽譜に沿ってと言いながら、なぜか若いブロンド女性にズームインしていたので、楽譜のどこにそんなことが書いてあるのかと再三溢したかったのだ。なるほど座付管弦楽団には前の方にも若い奏者の顔が目立つとして話題になっていたのは事実である。

指揮者も大写しになって、先日の宣伝映像の続きのような殆どカラヤン映像のような英雄的なアングルもあって、恐らく同じ監督の映像だったのだろう。不自然さもあったが、「ロンターノ」の静けさやトレモロの美しさのようなものが綺麗に捉えられていた。三つの演奏会を比較対照すると、流石に劇場の音が混ざりあう響きの中での、乾燥したボンとはまた異なる美しい柔らかな響きだった。そしてラディオの響きも、とても細かな弓の当たる音なども捉えていて、オペラ「南極」のあの響きに匹敵する精妙さだ。

さて、お目当てのリヒャルト・シュトラウス作曲「最後の四つの歌」である。最も良い高音質条件で録音したいので、ノートブックから響くオンエアー視聴では、精妙なことは分かっても、充分には確認は出来なかった、そして画像などを見ていると些か歌が明晰過ぎるようにも感じられた。そして、リフェレンス録音のジョージ・セル指揮シュヴァルツコップのものと、フォン・カラヤン指揮グンドラ・ヤノヴォッツのLPを比較試聴してみる。前者は録音が悪いのか、客演しているベルリンの放送管弦楽団が悪いのか、とてもリズムも鈍く、なるほどこの指揮者の持ち味である楽譜のシステムが縦にきっちりと浮かび上がるような合わせ方は聞こえるのだが、クリーヴランドでの磨き抜かれたサウンドなどとは比較できない演奏である。この分野では第一人者のシュヴァルツコップの歌は、音符から音符への所謂音間の扱いをまるで装飾音のように囀っている。一方フィルハーモニカ―のそれはカラヤンサウンド以外の何ものでもないが、それはそれで当時は納得させられていたものであり、たとえ音楽的な内容が無いといわれるシュトラウスの曲においても、あまりにも厚化粧の上塗りのようなものでデリカシーに欠け、十八番であった楽劇「薔薇の騎士」のエンターティメントへとどっぷりと浸かっている ― これを指揮者ロートは風呂場の鼻歌と称した。それに合わせたのかどうか、先日ダムロウが語っていたように「それならばヴォカリーズで歌えばよい」と言う程度の歌しか聞かれない。ヤノヴィッツは1970年代ぐらいには一世を風靡したソプラノ歌手で、カラヤンとの共演も度重なるが、双方ともここでは惨憺たる結果となっている。余談だが、今回のツアーも昔通りのレコード会社だけでなく業界の力が背後に強ければ、人気プリマドンナであるミュンヘンのアンニャ・ハルテロスが同行したのだろうが、なるほど、だから余計にダムロウが語るように、今回のオファーは「受け入れるしかないまたとないプレゼント」となったのだろう。

さて、その歌唱は、歌手本人が録音で馴染みのあるシュヴァルツコップとルチア・ポップの歌唱を例にそれを歌えるだけの含蓄の有無を怪訝していたが、それらとは結果は異なる。シュヴァルツコップがマスターコースなどで教える声の発声に関してはなるほどと思わせ、声の質に関してはポップのコロラテューラにも共通するそれらが活きているとは思うが、音符の読み方が大分異なるのだ。それ以上に、ここでは評論家の誰かが表現したように織物の糸が声と共に一本一本織られていくような糸織のように管弦楽団と声が一体化して多彩な音色を織りなしている。

それと同時に、これは歌唱にも深く係わっているのだが、いつものように音符が明白に楽譜通りにハッキリと発音されていて、そこにリズムの確かさがあるので、決して音楽が弛緩することなくゆったりとした時を刻んでいる。雲雀がGGと囀るEsGesEFGGの夕焼けが美しい。ハイデルベルクの暗い谷を雲雀が飛翔する。またある評論家が書くように、この曲の伴奏を綺麗により美しく誘惑的に響かす指揮者の同僚は幾らでもいるだろう ― 作曲家は歌手のフラグスタートに書き添えた、但し超一流の指揮者と歌えと。しかしこれだけ正確に精妙な響きは他にはない。YOUTUBEを調べてみると、セルとシュヴァルツコップは名門コンセルトヘボーでも同様に演奏会を行っているようで美しい録音があるが、やはりリズムが鈍い。そしてシュヴァルツコップの歌唱技術は別にして、音価の扱い方やその進行には疑問が湧いたのも事実である。今回調べてみて知ったのだが、初演はフラグスタートとフルトヴェングラー指揮のフィルハーモニア管弦楽団だったようで、どうして、ヴァルター・レッグによる制作録音どころか、真面な音質の録音が残っていないのだろう?

チャイコフスキーの交響曲に関しては、ボンの強い印象があるので、成果には疑心暗鬼であったが、楽譜を見乍ら再生すると、あり得る音響空間の違いの相違と同時に、その明白さに新たな驚くべき細部の洗練さが確認された。対・内旋律の活かし方なども全体の構成の、音響の中で綺麗に嵌め込まれていて、なるほど指揮者が示唆するように殆どブルックナーばりの管の連符の咆哮があり、交響的な充実には目を開かされる想いがする。記憶を頼りに比較すると、残響のデットなボンのベートーヴェンハレではよりテムポの俊敏さが感じられたが、ミュンヘンの劇場ではより精妙な響きが聞こえた。

それにしても、管弦楽団としての鳴りは嘗てのカルロス・クライバーが指揮していた時の積極性を超えており、またリヒャルト・シュトラウスの曲においての響きはたとえベルリンのフィルハーモニカ―が将来弾いたとしてもこれほどの深い響きをキリル・ペトレンコの指揮が引き出せるかどうかは分からない、それほどの響きだった ― これに関して歌手は、歌に敏感に反応できるミュンヘンの座付管弦楽団は格別としている。残念ながら生放送とは異なって音質は圧縮されているが、同夜の演奏会の録音が一月ほど繰り返し聞けるようになっている。さて、その音質でどこまでこの音楽会を体験できるだろうか?



参照:
ドイツ的に耳をそばたてる 2016-09-18 | 音
伯林の薔薇への期待の相違 2015-03-29 | 音
眠りに就くとき 2006-08-07 | 女
冬の夕焼けは珍しいか? 2005-01-12 | 文学・思想
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慢性病に苦しむ図

2016-09-22 | 雑感
ラインプファルツなどではうどんこ病様のペルノスポーラという葡萄黴に病んでいる。特に、低地で湿り気があるところが酷く、上部に植えてあるミュラートュルガウに比較してショイレーベなどの品種は全滅に近いらしい。ビオヴァンなどのビオワインはドイツのワインの生産量の八パーセントとなっていて、それへの影響が大きいという。従来ならば、カリウムフォスフォナートを散布するところなのだが、それが出来ないのでホールンダーやハーブエキスや小麦粉汁に加えて頼みの綱の銅をより多く散布するしかないらしい。但し、重金属などは連邦共和国では厳しくヘクター当たり3KGに制限されている。だから、他のEU諸国並みにこれを緩和しようとする議論もあるようだ。要するにビオ農業を押し通すことで、完全に収穫を断念するか、銅で土壌を汚染するかという事だ。

このような現状から全体の65%のワインを生産するラインラントプファルツ州では特別融資などがなされる。そして来年以降は、病原菌に強い他の品種に移行することが勧められる。しかし、そのようなレ―ジェントとかヨハニターとかでは、リースリングを求めるアメリカでの市場開拓が難しいとされていて、そもそも品種の植え替えには世代に亘る大きな変革となるという。ワイン街道の我々がこれを読むと、なぜそもそもラインヘッセンの土壌では競争力の無いリースリングが話に出て来たかは分からないのだが、またまたモーゼル流域に続き、ラインヘッセンの耕地面積が三割へと減少していくのだろうか。要するに国際競争力の無い農業は存在価値も無くなるという事だ。ミクロクリマに加えて水捌けの悪いような土壌では厳しい。新聞は今年経済欄の再三にわたってこの問題を伝えている。

ファイナンス欄では、日銀の会議前の円卓の写真が出ている。初めて見た。勿論内容は、批判の強いマイナス金利への決断だが、下に乗っている日銀資料のインフレ率のグラフが興味深い。二本の折れ線が並行して示してあって、一本は生鮮食料品抜き、もう一本生鮮食料品とエネルギーコスト抜きになっている。2015年以降はエネルギーも除くとよりインフレ率は高まるのだが、それでも1%を一時的に超えているだけで、今後も下向き傾向が強い。エネルギーに関しては、幾ら原子力を控えて天然ガスや石油を使っても、原油値の低下という世界経済の波に引っ張られているようだ。日本が単独でエネルギー需要を増やせる訳ではない。単独で市場を動かせないようにである。将来的なインフレ懸念がないという状況で、目標達成が長期化するというのはどういうことなのか?二年が四年になりなんて、あれだけの大規模な政策をとっていてあり得ないことだ。そうした市場が無ければ、そもそも金利目標などを定めても、金融政策など成立するのだろうか?なにか場のないところで無理やりに、小さな渦を起こしているように見えるだけで、全体が温まることなどは決してあり得ないのは金融の専門家なら皆分かっているのではなかろうか。いつまでも騙されているのは一般国民だけなのだろう。国民にとっては購買力の上昇と社会保障の充実以外にそれ以上の判断基準は無い筈である。まるで敗戦に惰性のようにひたすら落ちていく大日本帝国軍のような日銀に見える。

先週は日曜日に雨で走れなかったので、月曜日に朝起きして峠を目指した。気温が落ちて来ると膝の具合などが悪くなる時が多い。腰や背も曲がらなかったりする。疲れが溜まるのか、奥歯の同じところがもぞもぞするのもこうした時だ。大事には至らなさそうだが、バロメーターのように感じる。アルプスに滞在した時も心配したのだが、全く違和感がなかった。どうも血液の循環などに関係しているようで、膝が痛む時とも関係しているかもしれない。



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ヘリコプターマネー事態 2016-07-18 | 歴史・時事
エコと呼ばれる遺伝子工学食品 2010-01-16 | アウトドーア・環境
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デジタル演奏会の品定め

2016-09-21 | マスメディア批評
デジタルコンサートホールお試し券を使い切った。一週間足らずで、途中三回の生中継を含んで、六十曲以上を視聴した。多くは仕事をしながらBGMとして流しておいた。繰り返して観るべきものは殆どないが、永久保存物もある。ざっと、キリル・ペトレンコ指揮の六曲に続いて、ピエール・ブレーズの自作自演やストラヴィンスキーなどを中心に、そしてクラウディオ・アバド指揮のベルク作曲作品、またブロムシュテット指揮のヒンデミットや北欧作品、フランソワ・サヴィエー・ロート指揮のデビュー演奏会などである。

そして、現音楽監督のサイモン・ラトル指揮の数々の演奏会からである。先ずは何よりもシェーンベルク作曲「グレの歌」が永久保存版だった。在任中の音楽的な頂点ではないかと思う充実した演奏会だった。シュテファン・グールトの歌唱も素晴らしい。こんなに立派な歌唱が出来る人だとは知らなかった。シェーンベルク作品は後任監督のメインレパートリーになると思うが、この初期の曲に関してはそう簡単には凌駕しないのではないか。それ以外のシェーンベルクも名演揃いだ。

充実した響きという事ではブルックナーの交響曲第九番の四楽章完成版の演奏が取り分け素晴らしかった。これほど音響的に充実した響きで鳴らされた事は嘗て今までなかったのではなかろうか。この指揮者も完全に二十世紀後半のカラヤン亜流を逃れているのが大勲章である ― 同じようにどんなに美しく立派に鳴ってもハイティンク指揮の五番では亜流を一歩も出ないのが歯痒いばかりである。前監督も同様だ。

マーラー作品は今回は二曲しか聞いていないが、ブルックナーの方が音響的に充実しているのは意外だった。その他も当代一のハイドンの演奏やシベリウスの交響楽曲、生で体験した魔笛全曲、内田光子とのモーツァルトやメシアンなどレパートリーが広い。まだマタイ受難曲は聞けていないが、ピーター・セラーズ演出シリーズの「ペレアスとメリザンド」など立派な演奏が多い。

話題のアンドリス・ネルソンズ指揮「アルペン交響曲」はなるほど立派に鳴り、流石にソヴィエトのエリート教育システムの秀才で、楽譜も完全に読み切っている。これから鳴り響く音響をしっかりと和音連結で描いているところが憎い。それだけに完璧に鳴るのだが、シュトラウスだから月並みな鳴りでそれで終わりとは限らない。少なくとも指揮者ロートが指摘したカラヤンやティーレマンの風呂場での鼻歌シュトラウス程は行かなくてもそれほど変わらないのが嘆かわしい。この人を合衆国の名門が監督にして、東ドイツの名門が監督にするのは分からないではないが、その市場がエンターティメントを一歩も出ないことになるので反動も大きいのではなかろうか。少なくともドイツではこの人への評価は今後も限定されるだろう。要するにラトヴィアからの出稼ぎでしかない。そして顔写真と違ってあの体格や腹の出方は仲違いしたティーレマン監督にそっくりである。頭脳が良く似ているのだろうか。

三回の生中継を試聴してみて、完璧に流れることはなさそうで、こちら側の問題ではないことも窺い知れた。例えばペトレンコ指揮のアンコールの時はアクセスが集中したのか中断して、明らかに容量の問題だと感じた。ミュンヘンの歌劇場もベルリンのフィルハーモニカ―も一法人なので、公共放送のそのネット設備とは比較のしようがない。有料で映画館で流す時にはそれなりの態勢を取っているのだろう。アーカーヴ化が一週間後というのは一週間券の人に再度買わす効果があるのは理解できる。

レジデント作曲家ジョン・アダムスの自作自演コンサートも観たが。あの手のキッチュさは欧州ではキッチュ以外の何ものとしても通じないであろうから、その需要の可能性は限られているだろう。競演のヴァイオリニストもなにかタイ出身のスキー選手メイのヴァイオリンを思い起こさせた。これもアジアやアメリカ市場限定なのだろうか。

音響録音の技術的には、AACなのでそれ以上は期待できない。だから日本の企業がグレードアップしようとしているとあるが、そうなると今度はマイクロフォンセッティングなどの技術が問題になる。現時点のそれでは、なるほど現監督のラトル指揮の場合は比較的上手に録っているものがあるが、音質が良くなっても耳だけで音楽を聞けるような程度では全くない。要するにこの計画の問題点である。嘗てのカラヤンやネルソンスのような単純な鳴らし方を追求しているならば録音も容易なのだが、現在の音楽的な要求に堪えようとするならば正しいマイクロフォンセッティングは全く容易ではない。

今回一月以上前から準備万端を整えて、そしてボンでのコンサートを踏まえて、ペトレンコ指揮の最後のベルリンでの演奏会を再視聴した。辛うじてホールトーンなどが識別できる条件でになって初めてその演奏会の一端が掴めた。なるほどストラヴィンスキーから始めて、二曲のルディ・シュテファン、そしてスクリャビン「恍惚の詩」のプログラムは客演として十二分に力を証明している成功例だったと確認した次第である。

サイモン・ラトル指揮のリゲティもベリオもクルターク作品の演奏実践も充実している。エリオット・カーター作品はバレンボイムが振っている。管弦楽団は充分に新しい響きを身につけていて、その色彩のパレットはロート指揮のフランス音楽プログラムでも実証されている。管弦楽団自体は将来への可能性を残しているのを確認した。そこで、このデジタルコンサートホールがエンターティメント以上のものになるかどうかは不明である。優秀な人材を自前でやるのは、経済的にも上手にやらなければ、ドイツェバンクの寄付に頼っているだけでは難しいだろう。



参照:
価値ある管弦楽演奏会 2016-09-20 | 音
銅鑼の余韻の領域限界点 2015-04-07 | 音
あれこれ存立危機事態 2015-07-14 | 歴史・時事
伯林量子化演奏会の響き 2016-08-09 | テクニック
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価値ある管弦楽演奏会

2016-09-20 | 
承前)バイエルン放送協会がベルリンのコンサートに取材を出している。やはりその開演一時間前の会場リハーサルに帯同している。その家庭交響曲の音合わせで、「ここはもう少し早く!、昨日は皆幾分眠ってしまっていた。」と指摘されると、それに抗議して最前列のビオラ奏者が「ハッキリ言って、皆ではなく、ビオラという事でしょう。」とまるで船を漕ぐようにして、ユーモアたっぷりに、快活に声を上げた。まるで、修学旅行中の生徒と引率の先生のようであると報じる。その冗談にご満悦に、「それは実は全く正しいんだ、そこは寝入らなければいけないのだが、もう一寸あとなんだよね。」とキリル・ペトレンコが続ける。まさに、最後までこうして限りなく合わせている箇所は、「シュトラウス家の子供をベットに寝かし、もう少し仕事をして、妻パウリーナとの水入らずの時間となる。」そのところであった。

指揮者は冊子にコメントして「…家庭交響曲を勉強した後で、『影の無い女』に関して沢山のことが明らかになって来た。それどころか、この作品にはその後のオペラの多くが準備されている。それ以外にもここに『サロメ』も『ばらの騎士』も聞こえます。」と語っている。

更に放送はプログラミングについても触れている。ここが最も味噌なのだ。但し明白には触れていない。バルトークに関しても指揮者はコメントを書いていて、そこでは第二協奏曲との差異として、「民族的な要素やその他の独自の作風よりも、ここでは後期ロマン風の音楽がなされている」ことに触れている。それは一面は正しく、一面ではあまり適切ではないかもしれない。実際に響く音楽をみればやはりその鳴り方は異なるのであり、紛れもないその音程が使われているという事でしかない。鳴るか鳴らないかは創作そのものである。

家庭交響曲が、ルツェルンでの批評にもあるように、最後期のリヒャルト・シュトラウスの密な書法とは異なっているのは当然なのだが、その相違こそがそのプログラムの視点であっただろう。要するに少なくとも二百年ほどの西洋音楽の歴史を同じ舞台で披露しようとすれば、それらをしっかりと一つ一つの楽曲毎に一小節毎に一拍毎に丁寧に読み解いていくしか方法はないのである。その中であり得るべきプログラム構成が完成するという事になる。その意味からもリゲティ作曲「ロンターノ」とバルトーク、そしてチャイコフスキーのコントラストは際立っていた。同様にベルリンのようにアンコールのマイスタージンガー序曲に大満足して、「流石オペラ指揮者」と書くような低級な評もあるというのだ。要は、管弦楽演奏会の一夜で、音楽劇場でのそれよりも抽象的な形で、如何に主に音響的に文化的・芸術的なブレーンストリーミングが可能となるかどうかなのである。ベルリンの聴衆は幸いに若い人が多く、定年後の爺婆とは異なって、こうした音楽体験をライフスタイルとして消化していく環境があるに違いない。まさしく、管弦楽演奏会の価値はそこにある。

如何に我々20世紀後半を生きた人間がこうした管弦楽演奏の歴史の中で特殊な時代を生きていたかが良く分かる筈だ、そうしたプログラムであり、書かれるようにベルリンのフィルハーモニカーがどのような方向に進むべきかを確認した音楽会だったのだろう。エンターティメントでしか無くなった管弦楽団演奏会が再び芸術的な意味を取り戻すための重要なステップである。

この度、フィルハーモニカ―のアーカイブを60曲近く流して、再確認するのは現監督のサイモン・ラトルの文化的な貢献であり、指揮者フルトヴェングラー以降の音楽監督として歴史的な成果を残していることである。次期監督キリル・ペトレンコが更にその地平線を超えてくれる期待は充分に高まったに違いない。

舞台裏ではフィルハーモニカ―によってビールが振る舞われたという。次期監督の指揮で演奏したことのない楽員も少なくなく、彼ら彼女らも結果として一票を投じた訳で、この演奏会にどうしても詰め掛けなければいけなかった理由でもあったようだ。そして我々にとっても今回のミュンヘンの座付管弦楽団の欧州ツアーの反響を成果を身を以て感じることになった。(終わり)



参照:
文化の「博物館化」 2004-11-13 | 文化一般
小さな新帝王誕生の可能性 2015-06-23 | 音
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つけたり、はなしたり

2016-09-19 | 雑感
バイエル社のモンサント社吸収が最終決定して一週間になる。新聞にはモンサント社長グラント氏にインタヴューした記事が載っている。グラント氏は57歳の現実家のようで、グラスゴーとエディムバラで農学を学んだスコッチである。長い交渉の中で高条件を追求したようだが、最終的にはバイエルへの身売りしか方策はなかったとしている ― 最終結果には、株主も労働者も地元も満足だろうとしている。それゆえか株価にして最初の62ドルから68ドルに上げただけで、それ以上になると見込んでいた市場を裏切ったようだ。数字からするとバイエル社が試算していた通りで、どちらにも損得は出なかったという事なのだろうか。

バイエル社の株主からすると、連邦共和国最大の買収となる事での額面の大きさもあり、1998年にクライスラー社を買収したダイムラー社の買値の1.5倍の規模となっている。百年ほどの企業のようだが、それほどの価値があるようだ。農薬部門はデュッセルドルフの上流モンハイムに集約されて、種子部門はセントルイスに残るという事である。今後の話題は、悪名高いモンサントの名前を消滅させるかどうかである ― 問題の除草剤グリフォサットの製造販売もである。バイエル社の株主筋にとっては関心ごとであり、上のグラント氏も検討課題として否定しない。但し合衆国市場でのバイエルブランドはどうなのだろうか?IGファーベン時代の悪い印象は残っていないのだろうか。

ノートブックのアーカイヴを整理した。ストレージを二倍の2TG交換したことに伴う整理である。先ずは先日からのデジタルコンサートのヴィデオを消去したいので、交換した1TGのHDに保存場所を空けるためにノートブックをバックアップしてあるフォルダを消去する。完全には消去できなかったがほぼ適って、200GBほどの場所は確保できた。その空いた領域にSACDや動画などを保存しておいて、試聴するときにノートブックに直接USB接続して、中身を見聞きすることになる。永久保存物の内容はあまりないので、一時保存のようなものが多い。それでも今後同じようにダウンロードしていくと、直ぐに場所が無くなるであろう。出来る限り不要なメディアデータは捨てるようにしたい。

ノートブックのDディレクトリーに溜まっていたメディアデータも整理する。先ずはデジタルコンサートのこの数日間に溜めた50曲以上を消去すると、140GB以上が消去されて350GBのスペースが空いた。全容量の半分以上なので優良である。この調子なら先二年ぐらいは何とかなるだろうか。但しCディレクトリーが残り20GB以下の状態が続いていて削除の可能性を今後も追い詰めていかなければいけない。今後はどちらでも良いものは出来る限り外付けにのみ一時的に保存していきたいのだが、そこも現時点で100GB以下の余裕しかないので、なんとかそこに場所を作る必要がある。

こうして初めて肝心なノートブックの自動バックアップを再起動させたので、今後は2TGのバックアップの消費量を監視していくことになる。現在のノートブックのCとDを合わせたHDの占有容量は300GBほどなので、バックアップもどれほど増えてもその範疇である。つまり、2TGの1.5TG以上を保存データーが占めることは先ずはないだろうという見込みである。

先日までストレージとして使っていた1TGの外付けHDにデフラグを回してみると、意外なことに大分時間が掛かった。ほとんどが保存データーなのだが、消去の繰り返しで、それらが保存場所等でバラバラになっていたのだろうか。

実は就寝前に新しい2TGにデーターを移していると、コトコトと音が足元で鳴っていた。今まで使っていた1TGの同機では聞こえなかったもので、調べてみると置き方で音の出方が大分変わることに気がついた。本当は横置きにすると一番機構的には安定するのだろうが、場所がないので縦てて置いたのだ。若干斜めに設置すると機械的にはあまり良くなさそうなのだが、静かになるのは間違いないので、先ずはそのようにしておこう。



参照:
モンサントがバイエルになる 2016-05-22 | アウトドーア・環境
軽重が秤に掛けられる 2016-05-21 | 雑感
2015年アルテレーベンの出来 2016-09-17 | ワイン
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ドイツ的に耳をそばたてる

2016-09-18 | 
承前)金曜日の文化欄に大きくヨーロッパツアーの記事が出ていた。新聞を開けなかったので気がつかなかった。本欄第一面の見出しには、ベルリナーフィルハーモニカ―の面々がベルリンでの公演に押し寄せて、次期の監督の音楽に耳をそばだてて、「選択は正しかったのか?」とまた馬鹿なスキャンダル紙並の安物の第一面索引の小見出しを付けている ― そもそもフランクフルターアルゲマイネ新聞の文化欄一面にコンサート風景の写真と記事が載るのは珍しい。勿論書いているのは音楽の分からないいつものおばさんである。そのおばさんは今回は追っかけを命じられたのか、全曲目を二三度聞いて、二度ほどリハーサルにも入れて貰って報告している。だからいくつかの情報は興味深い。

例えばパリ公演に際して、前夜のボンでのチャイコフスキーをキリル・ペトレンコは「ゼアーグット」と褒め称えて、更に開演直前まで服の着替え時間がないほどに同曲の細部を磨き上げたという。リゲティ作曲「ロンターノ」に関して、おばさんは演奏会場ごとに、ルクセンブルクの明晰なアコースティック、完璧なベルリンに比較して、ベートーヴェンハレでの柔らかな響きとしているのは正しいだろう。あれ程柔らかなトーンのリゲティ作品を実際に聞いたことがない。

老舗ズルヒャーツァイテュングでのルツェルン公演評は、書いた人は知らないが、ブロムシュテット指揮のゲヴァントハウス管弦楽団公演との比較で書いている。それによるとシュトラウスでの満足度が十二分ではなかったようで、その後のあったであろう「マイスタージンガー」のアンコールについても触れられていないので、実際の様子は分からない。一方、おばさんはベルリンでのアンコールについて書くことでそこを上手く逃げている。要するに音楽会全体の構成などに言及している評論家が居ない。お粗末なことである。

ボンでの「ルスランとリュドミラ」序曲のアンコールも決して口をつぶっておくべきものではないだろう。チャイコフスキーとこの曲で、嘗てのレニングラードフィルハーモニー交響楽団の生演奏やその録音などを思い起こす人はある年代以上の人には少なくない筈だ。なぜならばそれらは圧倒的な体験であって、チャイコフスキーの交響曲断ちなどを余儀なくされたからである ― 今週新聞にはアンドリス・ネルソンスが語るショスタコーヴィッチのインタヴュー記事が載っていて、ソヴィエトに生きていた人たちにとってはある程度の若い年齢層までが同じような感覚を持っているようなのが分かった。

勿論今回アンコールで聞かれたグリンカもヴァークナーも、嘗てのムラヴィンスキーの大ソヴィエトのそれでもなく、フルトヴァングラーのパトスでもないのは断るまでもない。快適なテムポでそれどころか滑稽味を添えた指揮ぶりと音楽は全く次元の違うアンコール演奏であり、この天才指揮者を以て我々は二十世紀のそれらを一挙に乗り越えたことを実感する。おばさんが書くように「管弦楽団も、指揮者が限界を踏み超えるのに、一緒についていく」という表現は正しい ― 具体的にはこの春に演奏されたメンデルスゾーンのスコットランド交響曲で、ヴィーンの座付管弦楽団が出来なかったことを、ミュンヘンのそれが出来ていることなどである。そしてスイス人はこれらをして非常にドイツ的と評した。

またまた音楽的な本質的な話にまで言及できなかったのでもう一つ付け加えておこう。今回私にとっては一曲だけ全く聞けなかったのは異なるプログラムの二曲目に演奏されたシュトラウスの「最後の四つの歌」で、歌手のディアナ・ダムロウの評判が頗る良い。本人もVIDEOで語り、指揮者も芸術上のパートナーと称しているように、今までなかったような色彩とその深みに達していると評されている。どこかの演奏が放送録音で聞けないのだろうか。この点では演奏されるフランクフルト公演の35ユーロが高価と買えなかったのを後悔している。(続く



参照:
今こそ睡魔と戦う時 2016-09-12 | 音
倭人を名乗るのは替え玉か 2016-07-04 | 歴史・時事
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2015年アルテレーベンの出来

2016-09-17 | ワイン
涼しくなった、ワインが美味くなる。今年のリースリングも夜の冷えがいい酸を出してくれるだろう。僅かなお湿りがあったが、陽は陰っても乾燥状態はあまり変わっていないようだ。中秋の名月が綺麗に浮かんでいたことでも分かる。

春に発注していたリースリングが届いた。ファン・フォルクセム醸造所の12本の詰め合わせだ。当初はグーツリースリングである「ザールリースリング」を取り寄せて、試飲してから、予約するグランクリュを吟味しようと思っていたが、直接出かけることになり、発送を遅らせていた。そしてまた一転して計画変更になって、夏の試飲会も考えたが時間的な余裕も無く、結局は「ザールリースリング」を六本から一本に減らして、「アルテレーベン」を一本から六本に増やした。これで合計金額が一定額を超えて、送料無料となった。

先ずはその「アルテレーベン」を開けてみる。なによりも苦みを感じた。明らかに2014年と比較するとミネラル風味豊かで、コクがある。そして最大の特徴は天然酵母特有のビオ臭さが無いことである。リースリングの質としては間違いなく、2015年の方が優れているだろう。但し、二年以内に飲み干してしまうと如何にも尚早だと思わせるリースリングである。また先行投資になりそうで、当面の飲み代が確保できなくて頭が痛い。とは言っても、「ザールリースリング」で満足できるのかどうかは試してみなければ分からない。恐らくその価格ならば他のより楽しいリースリングがありそうだ。

満杯になった外付けのストレージを二倍の2TGに交換した。同じ東芝製の最もベーシックなもので、二年近く使ってみてその作動は確認されていた。駆動の始動や収束など全く満足の行く製品である。価格が二倍の容量で三割強益しとなり、三倍ならば七割増しとなる。形状は厚さがほぼ二倍になっている。付属のUSB3ケーブルも太く短くなっているのが嬉しい。

先ずはアーカイヴのデータをコピーして、同じように使うことにした。もう少し内容を整理してから自動バックアップに切り替えるつもりだ。コピーは一部の移転データを除くと問題なく完了したが、あれこれ数時間内容を移動させていたことになる。マニュアルで動かしてやる必要のあるものがあったからだ。

ノートブックの容量が750GBであるから、他のデスクトップのそれを入れてもあと1TGの容量を一杯にしないようにするにはあまり観ないVIDEO類をどのように別枠するかに掛かっているだろう。それを元の1TGのHDに移していけば、それが溜まるまでは大丈夫だろうか。オペラ映像や映画などが一本約6GBほどになるので300本ぐらいは高画質もしくは使える音質のものが記録できる筈だ。

この週末でデジタルコンサートホールのアーカイヴ収集も一通り終わるので、土曜日のライヴが終わってから一通り整理してしまうつもりである。あと二三事完了すれば、冬籠りの準備も大体整いそうである。もう一つノートブックがあれば完璧なのだが、将来的にはドッキングステーションにおける複数のノートブックを上手に使う方法の構築を考えている。大きな失望はLINUXの処理速度にあって、これをなんとか克服しないことには完全LINUX化は難しいと感じているからだ。



参照:
星屑の詰め合わせを追加 2015-10-02 | ワイン
薩摩に迫る振動域 2016-04-20 | 雑感
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時の管理の響き方

2016-09-16 | 
承前)ベルリンのフィルハーモーからの中継を見た。デジタルコンサートホールの無料クーポンを使っている。ミュンヘンの座付管弦楽団のヨーロッパツアーの一つの山として開かれたものだ。ボンでの演奏会との相違は後半のチャイコフスキーの五番の代わりにシュトラウスの家庭交響曲が演奏されたという事だろう。この演奏会に関しては改めて書こうと思うが、その番組の中で通常は挟まれる指揮者のインタヴューの代わりに管弦楽団の宣伝映像と今回の演奏旅行中の映像と、そしてボンでPVのためにコンサート生中継したドイツェヴェレによるインタヴュー映像が挟まれた。

興味深かったのは中堅ヴァオラ女性奏者へのインタヴューで、この楽団の特徴を述べるところだった。それによると、「多くの古いドイツの楽団のように音出しが遅れることと、その音色が比較すると明らかに暗く、口当たりがよいぐらいだ」という事だ。最近ではポーランド人の指揮者マレク・ヤノフスキーが「そのような特徴は無くても良いこと」と溢していたようだが、彼女に言わせると「気を溜めた感じのように合わせることで音のパワーに繋がる」という事らしい。

前半二曲目のフランク・ペーター・ツィンマーマンをソリストに迎えたバルトークの協奏曲は、ボンでは会場の音響のゆえに鳴りが悪かったのだが、少なくともベルリンのマイクロフォンは上手に捉えていた。アンコールのバッハの無伴奏が示すようにこのヴァイオリニストはユリア・フィッシャーのように充分に新しい世代ではなくて、その音楽は古臭い。それ故にか余計に伴奏をという風に聞こえるのだが、それはそれなりにベルリンでは演奏回数が重なってスリリングな競演となっていた。

今回ボンでの演奏会を経験して、またベルリンでの過去のアーカイヴを繰り返して視聴して、キリル・ペトレンコが演奏会指揮者として示したその特徴は、先ずはそのプログラム構成にあって、あの運動量の多い指揮は頸椎を痛めるだけでなく一回の演奏会においてもメリハリを付けなければ不可能な行為であるという事で、管弦楽団にとっても同様に要求されるという事だろう。シュトラウスはチャイコフスキーほどでは無かったからか、バルトークでの追い込みの激しさはベルリンでは顕著で、あの後に休憩を挟んでチャイコフスキーのスリリングなそれを持ってくるのは難しく、全体のドラマトュルギーと実質的な集中力などのマネージメントが重視されたとなるか。反対に、チャイコフスキーが控えている中では前半の可能性が変わってくるという事であり、これはミュンヘンからの生中継があるのでそれで確認できるだろう。

歴史的な管弦楽演奏会の実践、少なくとも職業指揮者が出現してからのそれではそのようなプログラミングや時間配分などのマネージメントが存在していたのではないかという思いと同時に、そうした現実的な興行的な実践以上に芸術的な関心が沸き起こった。これについては期間の残っているクーポンで他の映像などを見乍ら更に考察しよう。

ボンでのコンサートで指揮者が登場するなり、隣の孫娘と一緒の婆さんが呟いた「ちっちゃ」、そして休憩後にチャイコフスキーの第一楽章が終わって「興味深い」と呟いた。私はこれらの素朴な反応を聞き逃さなかった。こうした反応の積み重なりが一同のスタンディングオヴェ―ションに繋がるのだ ― 勿論ベートーヴェンハレの平土間は椅子を並べているだけで、舞台にも起伏はないから前で立たれるとほかにどうしようもないのだが。(続く



参照:
楽譜から響く管弦楽サウンド 2015-06-24 | 文化一般
寂しき春の想いなど 2016-04-06 | 雑感
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