電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

元生徒が恩師と話すとき~藤沢周平の場合

2006年05月19日 22時25分18秒 | -藤沢周平
文春文庫で、『藤沢周平のすべて』を読んでいる。
藤沢周平は、山形師範学校を卒業後、郷里に近い湯田川中学で二年間教鞭を取った。御本人は、さまざまな対談や随筆の中で、教え子たちとの交流を語っている。最初こそ、意気ごみが空回りして悩んだ時期もあったようだが、やがて教師としての自信のようなものも生まれ、生徒たちと年齢の近い若い先生は、学校の中でずいぶん慕われたようだ。

だが、結核の発病により、療養所生活を送る。ようやく病癒えて社会に復帰しようとしたとき、自ら天職と感じ人生の目標とした教職に戻ることはできなかった。業界紙に就職し、取材して原稿を書くかたわら、湯田川中学の卒業生の一人である最初の妻との生活をつつましく送っていたが、28歳の若さで妻を失う。この時期の鬱屈を小説の形で発表するようになるが、東京で送った不遇な時代を、多くの教え子たちは知らず、無名時代の作品に接することもなかったに違いない。やがて、直木賞受賞作家・藤沢周平が、途中で姿を消した自分たちの小菅先生であることを知ったときの驚きはいかばかりか。郷里である鶴岡市で開かれた講演会の際に、生徒の一人が発した「先生、今までどこへ行ってたのよぉ~」という言葉は、正直な気持ちだったろう。

その後、毎年東京で開かれるようになった同級会も、教え子が四十代に近くなってからは、生徒だったときとはことなり、近況報告も恩師との会話もずっと内容豊富になっていただろう。ずっと不幸続きだった教え子が、「先生に会いたくて出てきた」とポロポロ泣くと、小菅先生も「苦労したねぇ、でもよくがんばった」と手を取り合って一緒に泣く。それをほかの子が見て、「何やってんだ先生、いつまでも」と焼きもちをやく。インタビューで、作家はそんな情景を語っている。

小菅先生として、年に一度の教え子との交流を大切にしていた作家・藤沢周平は、自分のそれまでの作品の救いようのない「暗さ」を、どう感じただろうか。かつての教え子の一人一人を、顔の見える読者として意識したとき、『用心棒シリーズ』などに表れる明るさやユーモアへの転機は自然なことと思える。

文春文庫『早春』に収録された『碑が建つ話』を読むとき、人生経験を積んだ元生徒が優れた作家である恩師と話す会話が、互いに限りなく影響しあうことが少なかったとは思えない。
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