電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

岳真也『幕末外交官~岩瀬忠震と開国の志士たち』を読む(2)

2014年10月04日 06時04分54秒 | 読書
岳真也著『幕末外交官~岩瀬忠震と開国の志士たち』の続きです。

第6章:「日米修好通商条約」。交渉の過程では、開港する港の数が問題となりますが、岩瀬は大阪を除外し横浜を開港する案を主張し、ハリスもこれを了承します。ところが、国内に問題が浮上します。朝廷に認めてもらう必要がある、というのです。帝の勅許を得るべく、堀田正睦や川路聖謨とともに京に上りますが、案に相違して勅許は得られず、将軍継嗣問題が絡んだ権力争いの様相を呈してきます。この争いは紀州派が勝利し、将軍世子は慶福に、大老は井伊直弼に決まりますが、英仏の連合軍が清に勝利した情勢に後押しされ、渋々ながら条約調印の方針やむなしと認証されます。

第7章:「安政の大獄」。将軍継嗣問題に絡む紀州派と一橋派の対立は、一橋派への粛正という形で現れます。アメリカとの条約調印に続き、日蘭、日露、日英間の条約が調印され、日仏間の交渉も先が見えた時点で、いわゆる安政の大獄が起こり、岩瀬忠震は永井尚志とともに最も重い「永蟄居」という罰を受けます。要するに、井伊直弼は決して開明派というわけではなくて、自分の気に入らんヤツは用が済んだらポイ、という処置です。

終章:「士たちの最期」。プロシアとの条約交渉の犠牲となった堀利煕、衰弱し43歳で病没する岩瀬忠震。旧態依然たる組織の中で、変革をなした幕末の外交官の姿は、たしかに開国の志士と呼ぶにふさわしいものでしょう。



高杉晋作や坂本龍馬など、幕末の志士たちの人気は大きなものがありますが、近年は『龍馬がゆく』などの作品によって高まったものでしょうし、さらに言えば明治の国定修身教科書で取り上げられることによって作られたイメージがもとになっているとのこと。日米修好通商条約が、不平等条約として不備な点があったことは確かでしょうが、幕末期の幕府側の外交交渉はかなりしたたかに、上手に行われたという印象を受けます。後の薩長藩閥政府が、すぐに武力にうったえようとする傾向があったのに比較すると、だいぶ成熟度が違うように感じてしまいます。


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