電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

疾風と勁草と松林

2015年03月19日 06時01分17秒 | Weblog
古い中国の言葉に、疾風と勁草についての言葉があります。たしか、疾風が吹くと弱い草はみななぎ倒されて、勁(つよ)い草だけが残る、というような意味だったと記憶しています。光武帝が不運の時代、したがっていた家臣がみな離反してしまい、忠実な者がわずかに残ったという場面ではなかったかと思います。そこから運良く復活するドラマは、たしかに魅力的です。強さに憧れる若い時代、自分もそういう勁い草でありたいと願うような素朴な感性がありました。しかし、年月が過ぎ経験もできると、いささか異なる見方をするようになりました。

勁い草も、土壌の養分がなくては育つことさえできません。土壌の養分は元々は何だったのかと問えば、それは間違いなく疾風になぎ倒された弱い草でしょう。多くの弱い草が、好天の日々に営々と光合成を行っていたからこそ、勁草は育つことができたのであって、やせた荒地にポツンと一本だけで成長することはできないだろうと思います。

庄内砂丘には、松の防風・防砂林が広がっていますが、これらは酒田の本間光丘をはじめとする代々の篤志家が植林を行っていた成果であることが伝えられています。その技術的なポイントは、松の苗木だけを植えたのではダメになってしまうけれど、松の苗木の根元に、砂の飛散を防ぐマントの役目をする草も一緒に植えてやるということだったように記憶しています。これもまた、強いスーパーな一本の松が孤独に成長するのとは違っていて、マントの役割を果たす植物とペアを組む多数の松の集団が一定の面積で広がって、はじめて砂丘に定着できることを表しています。下草を根こそぎ奪われた一本松は、弱いのです。

疾風があきらかにする勁草は、実はその地域における弱い草たちの日々の営為により成長することができたのであり、下草を根こそぎ奪われた一本松が弱いように、多くの弱さの中にあって、はじめて強さが生まれるように思います。


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