電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

ヒルトン『心の旅路』を再読し、映画での工夫に気づく

2017年06月30日 06時02分50秒 | -外国文学
ヒルトンの『心の旅路』(昭和52年刊、角川文庫、原題"Random Harvest")が書棚から出てきましたので、久しぶりに再読しています。購入して40年が過ぎた本で、用紙はすっかり茶色に変色してしまいましたが、絶版になって久しく、古書店でもめったに見かけませんので、実は貴重なのかも。読んでいるうちに、内容にひきこまれます。



今回、特に注目したのは、第二部の終わりに、キティが置き手紙を残して出発してしまい、以後は合うこともないままに病死してしまう、というところです。原作では、こんなふうに表現されています。

それで彼は錠剤を買い、スミス広場にもどる途中に数錠服用した。そのおかげで彼は重苦しい、すっきりしない眠りにおち入り、そして正午近くになって目をさますと、ベッドのかたわらに鉛筆で書かれたキティの置き手紙があった。それは、朝早くに届けられたもので、ふたりの婚約を事実上解消、ラクソーにいる義母と落ち合うため、すぐさま出発する、としたためられていた。

この場面が、映画(*1)では賛美歌を選ぶ場面となります。放心したように音楽を聞きながら失われた記憶をたどろうとしているチャールズの心の中に、自分の居場所はないと感じたキティが、泣きながら飛び出していくという場面に変更されています。

原作では、謎めいた行動の背景を様々な想像をめぐらせながら味わうようになっているのに対し、映画ではよりわかりやすく、でも説明的にならないようにエピソードが作られていると感じます。中高年の映画ファンならば、美しい妻ポーラ(グリア・ガースン)の無償の愛に、主人公チャールズ・レイニア(ロナルド・コールマン)がいつ気づくのかに注目するところでしょうが、若い人ならば、たぶん突飛な行動をするキティ(スーザン・ピータース)の心情に「わかるワ〜」と共感するのかもしれません。

もうひとつ。原作でのラストシーンはこうです。五つの州を眺められる頂のすぐ下に小さな湖があり、一人の男が寝転んでいる。そして彼女はスロープを駆け下りていく。

彼は彼女を認めるが早いか立ち上がった。と、彼女はその数ヤード手前で立ち止まった。そしてしばらくのあいだふたりはおたがいをじっと、静かに、無言で見つめ合っていた。やがて彼が何かをささやいたが、わたしには聞こえなかった。しかし私は一瞬のうちに、ふたりのあいだのへだたりが埋められ、あてどない歳月がおわりを告げ、過去と未来が融合し合ったことを知った。彼女にもそれがわかっていた。なぜなら、叫びながら彼の腕の中へとびこんでいったからだ。「おお、スミシー! スミシー! おそすぎやしないわ!」

これに対して、映画の方はもっとわかりやすいものです。失われた過去への入り口となるはずの鍵がかちりと適合する小さな家でのクライマックス。樹木の枝ぶりさえも昔のままというのは確かにヘンですが、たぶん1942年の映画という時代背景を考えるとき、「小さな家に帰る」という行為は、戦場にあった多くの兵士と銃後の妻たちの最大の願望だったからではなかろうか。今の時代には陳腐なメロドラマに見えるけれど、「家に帰る」ことが最大の願いだった時代があったことを、しばしば忘れがちになるからなのかもしれません。

(*1):廉価DVDで購入して観ていますが、今はネットでも観られるのかもしれません。

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