電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

8月10日にヒロシマに入り救援にあたった父はなぜ被爆したのか

2010年08月06日 05時31分34秒 | Weblog
先年直腸ガンの再発で亡くなった父は、血液の異常など原爆症の典型的な症状を示しておりました。昨年、広島市を訪れ、父が入市被爆した状況を垣間見ることができました(*1,2)が、そもそも入市被爆というのはどうして起こるのだろうと不思議でした。もちろん、残留放射能も多かったでしょうし、被爆する放射線の線量も半端ではなかったと思いますが、それにしても、血液障害や消化器系を中心とする発ガン率が有意に高い傾向を示すのはなぜだろうと疑問に思っておりました。今年も8月6日がめぐってきましたが、被爆二世として様々なエピソードを集めることで、入市被爆の実状を推測しております。

まず、8月9日に呉に到着した父の部隊は、救援を命じられ10日に広島市内に入りますが、そのとき現地では水道が使えたそうです。これについては、広島市の水道の歴史に記載された不断水の記録から、当時の水道局職員が、自らも被爆し火傷を負いながら浄水場に急行し、停電のため送水が停止し配水池に残った水だけで給水していましたが、予備の送水ポンプで運転・送水を再開して、市内全域での断水は避けられた(*3)ことがわかります。火災の消火にも飲料水としても、ヒロシマの惨状の中で、ライフラインの一つである水が供給され続けたということは、大きな意味があったことでしょう。

しかし、物事は一筋縄ではいきません。当座の生命をつないだ水には、たぶん放射性物質を含む死の灰が相当に混入していたことと推測されます。もちろんその水は、見た目には普通の水と変わらず、ガイガーカウンターで計測でもしない限り、放射能汚染はわからなかったことでしょう。およそ一週間、爆心地から2.2kmほどの位置にある比治山での過酷な救援作業の間、この水を飲み、食事を摂ったのではないか。それが結果的には体内被爆となり、血液の異常と40代から晩年までの消化器系の異常、すなわち胃全摘をはじめとする、小腸、大腸、直腸などの計七回の手術という結果につながったのではないかと思われます。

放射能は目に見えず、匂いもしません。飲み水や食料を通じた体内被爆という私の推測が正しければ、入市被爆と同じことは現代でも起こりうることになります。チェルノブイリの周辺などでも事情はたぶん同じだったのではないか。そんな想像をしてしまいます。

(*1):広島原爆ドームと資料館を見学し、亡父の体験を思う~「電網郊外散歩道」2009年8月
(*2):ブラームス「交響曲第4番」を聴く~2009年8月
(*3):広島市水道と原爆・不断水記録~「広島市の水道の歴史」より


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