今日は木々の姿も少しもやいで見えます。もう夏の深い緑に変わっている葉の、一枚一枚に光沢が感じられないのです。その上、枝の重なりが、その下に、ぼんやりとした闇さえ作っているようなのです。
今日一日、こんな天気が続くのでしょうか。風景が動きを止めてしまうと、聴覚がやけに鋭くなってしまいます。鳥の声がひときわ高く聞こえてきます。人の気配はあまりしません。
人というのは、本当に面白いものです。そして、人の「情」というのも、面白い。当事者でなく、第三者として眺めていても、面白い。興味深いものです。
だから、人は人とつながりを求め、社会を構築していくのでしょう。その社会の中で生まれる「欲」というのも、面白い。「欲」はあるときは、人を力づけ、発展させ、栄光の地位に就けたりもするけれども、その反対に、人を堕落させ、奈落の底へ突き落としたりもする。
大晦日に「除夜の鐘」を聞きながら、日本人は何を考えているのでしょうか。毎年のように、年の終わりに「煩悩」を捨て去り、そして、新たな年の初めには「家族が、皆、幸せになりますように」とか、「大学に合格させてください」とか、それぞれの「欲」を神仏に祈る。
この「矛盾」の繰り返しが、いわゆる、「正統な」日本人なのかもしれません。実際のところ、はっきりと「神仏」を信じていると言い切れる人は、あまりいないのではないかと思います。けれど、全く信じていない人は、もっと少ないと思います。この赤でも黒でも、白でもない「緩やかな」世界。右でも左でもなく、正でも邪でもない「主義」に浸りきっている世界。
これを「偽善」とか「虚偽」とかいう言葉で、一つに括っていいものでしょうか。私はこういう世界で、生きることが出来るのを幸せに思っているのですが。判断を下さない「世界」で、生きていくのは、ある意味で、「子供」にはできないことなのです。
勿論、社会のルールがありますから、それに背けば、この社会から放逐されるでしょう。
私は、この緩やかな「まやかしの世界」がとても好きなのです。けれども、未熟な人間ですから、時折、辛くなることもあります。右か左に決めてほしくなるし、「嫌だ」と叫びたくなりもする。けれども、叫ぶとしたら、そのときは、「本気で」です。上の人に嫌われるとか、ひどい目に遭うとか、そういうことは、考えません。考えなくても、生活に支障はないのです、この「世界」では。
例えば、市役所の職員が、私のことを嫌いだとする。それで、私に必要な書類を届けてくれなかったりする、ようなことがあるでしょうか、この日本で。日常の活動は、何の問題もなく進んでいきます。なぜなら、「私」と「公」を分けて考えなければいけないと、「侍」の時代から、明確に、定められているからです。それを守らなければ、お巡りさんのお世話になってしまいますし、他の人から軽蔑されます。
日本の社会のことを、「『虚偽』の人間関係に満ちている」という人がいますが、その人の国の方が、よっぽど「生きにくく、偽善に満ちている」と思います。
だれが、自分が作ったまずい料理を、「いいや、まずくない。おいしいよ」と言って、一生懸命食べてくれる人を責めることができるでしょう。それで、得をする人間なんて一人もいないのです。「まずいと言ったら、その人が気に病むかもしれない。悲しいと思うかもしれない」。ただそれだけの思いで、そうする人を、だれが「偽善者」と言うことが出来るでしょう。
日本社会の、こんな緩やかな、いたわりの「絆」が、「異文化を持つ」人が増えることによって、誤ったこととされ、薄らいでいくとしたら、私は、とても悲しいことだと思います。
日々是好日
今日一日、こんな天気が続くのでしょうか。風景が動きを止めてしまうと、聴覚がやけに鋭くなってしまいます。鳥の声がひときわ高く聞こえてきます。人の気配はあまりしません。
人というのは、本当に面白いものです。そして、人の「情」というのも、面白い。当事者でなく、第三者として眺めていても、面白い。興味深いものです。
だから、人は人とつながりを求め、社会を構築していくのでしょう。その社会の中で生まれる「欲」というのも、面白い。「欲」はあるときは、人を力づけ、発展させ、栄光の地位に就けたりもするけれども、その反対に、人を堕落させ、奈落の底へ突き落としたりもする。
大晦日に「除夜の鐘」を聞きながら、日本人は何を考えているのでしょうか。毎年のように、年の終わりに「煩悩」を捨て去り、そして、新たな年の初めには「家族が、皆、幸せになりますように」とか、「大学に合格させてください」とか、それぞれの「欲」を神仏に祈る。
この「矛盾」の繰り返しが、いわゆる、「正統な」日本人なのかもしれません。実際のところ、はっきりと「神仏」を信じていると言い切れる人は、あまりいないのではないかと思います。けれど、全く信じていない人は、もっと少ないと思います。この赤でも黒でも、白でもない「緩やかな」世界。右でも左でもなく、正でも邪でもない「主義」に浸りきっている世界。
これを「偽善」とか「虚偽」とかいう言葉で、一つに括っていいものでしょうか。私はこういう世界で、生きることが出来るのを幸せに思っているのですが。判断を下さない「世界」で、生きていくのは、ある意味で、「子供」にはできないことなのです。
勿論、社会のルールがありますから、それに背けば、この社会から放逐されるでしょう。
私は、この緩やかな「まやかしの世界」がとても好きなのです。けれども、未熟な人間ですから、時折、辛くなることもあります。右か左に決めてほしくなるし、「嫌だ」と叫びたくなりもする。けれども、叫ぶとしたら、そのときは、「本気で」です。上の人に嫌われるとか、ひどい目に遭うとか、そういうことは、考えません。考えなくても、生活に支障はないのです、この「世界」では。
例えば、市役所の職員が、私のことを嫌いだとする。それで、私に必要な書類を届けてくれなかったりする、ようなことがあるでしょうか、この日本で。日常の活動は、何の問題もなく進んでいきます。なぜなら、「私」と「公」を分けて考えなければいけないと、「侍」の時代から、明確に、定められているからです。それを守らなければ、お巡りさんのお世話になってしまいますし、他の人から軽蔑されます。
日本の社会のことを、「『虚偽』の人間関係に満ちている」という人がいますが、その人の国の方が、よっぽど「生きにくく、偽善に満ちている」と思います。
だれが、自分が作ったまずい料理を、「いいや、まずくない。おいしいよ」と言って、一生懸命食べてくれる人を責めることができるでしょう。それで、得をする人間なんて一人もいないのです。「まずいと言ったら、その人が気に病むかもしれない。悲しいと思うかもしれない」。ただそれだけの思いで、そうする人を、だれが「偽善者」と言うことが出来るでしょう。
日本社会の、こんな緩やかな、いたわりの「絆」が、「異文化を持つ」人が増えることによって、誤ったこととされ、薄らいでいくとしたら、私は、とても悲しいことだと思います。
日々是好日