日差しが戻ってきました。昨日までは、粘りけのある空気の中を、右往左往しているだけだったのですが、今日は違います。久しぶりに気持ちよく過ごしています。
随分前のことになりますが、若い頃、合宿で海の家に泊まったことがあります。生まれた家も、まあ海の近くと言えなくはない所だったので、当時住んでいた山間の小さな町から出てくると、一種解放されたような、広々とした気分になったものです。
昼のうちは、ただ楽しく過ごしていたのですが、夜になると、何かしら追い詰められたような気分になってきました。みんなが寝静まると、聞こえてくるのは「潮騒」ではなく、「海鳴り」の響きだけです。「存在しているけれども見えない自分、自分の中の大地と繋がっている部分」と「現実の自分」が、どこかでせめぎ合いを始めます。
それからは、海に行くことは止めにしました。海は怖い。特に夜の海は怖い。人を追い詰めます。「自分」に戻ることを強要するのです。否応なく、大地の力を見せつけてきます。「自分に戻る」のは疲れます。「自分を感じる」のも、だめなのでしょう。「自分を感じる時間」、「自分の心の奥底へ沈み込む時間」が必要になりますから。その上で、「回復する時間」が無ければ、「今」を生きることは出来ません。
昨日は「川村学園女子大学」の、学生さん達による模擬授業の日でした。我が校の女性達が「生徒さん」の役をするのです。みんなが出ていった後、残されたのは、男性陣と午後に用事のある女性達だけです。
前日の授業の時に、「名詞(な)+んです」が、スムーズに出てこなかったので、今日は、その復習をするつもりでした。まず、26課からの動詞を扱います。間違えるたびに、肩をすくめたり、照れたりするので、だれが間違えたのかすぐ解ってしまいます。みんな正直ですね。発音や拍数の部分で引っかかる人があっちからもこっちからも。教室が広く見えるようになった分、目も届きます。
可能形の復習が終わって、「短文作り」で少々遊ぼうとしたところ、早速「どれくらい泳げますか」で、学生達につかまってしまいました。
一人の学生が、「ここから駅まで泳げます」で、みんな一斉に「オー」。隠れ「金槌」さんがたくさんいたのです。「私は『川で泳ぎました』、『川に飛び込みました』、『それは深い川でした』で、この学生が育ったふるさとの自然が、目に浮かんで来ました。型どりの単語ではなく、自分のことを表そうと身振り手振りで、説明してくれます。私はそれにふさわしいであろう言葉や文を押し込んでいけばいいだけですから、楽な役割です。
それにしても、羨ましいですね。川で泳ぎを覚えたなんて。普段、女性陣が強いですから、男性はなかなか主張することができません。授業中、茶々を入れようとすると、「勉強」と眼がキラッと光るのです。いつもは、押さえつけられていたのだということがよく分かりました。みんな勢い込んで色々なことを言おうとします。彼らの様子を見ていると、「今日一日(本当は1時間くらい)、手綱を放してみるか」といった大らかな気分になってきます。
「何(料理名)を作ることができますか」で、様々な動物が出てきました。料理の名前で、フィリピンの「焼きそばのようなもの」の名前が出てきたあと、「(動物名)を食べますか」と言い出した学生がいて、話がドンドン発展していきます。(「本当は『可能形』をやりたかったんだけれども」という私の気持ちを置き去りにして)
勿論、まだ初級ですから、絵を描いたりして説明します。ノートに描いた絵を高く掲げて、「これです」。「サメ」「サソリ」「ワニ」などの名前が挙がりました。「私は食べられませんが、私の国の田舎の人は、(動物名)を食べます」と言う言葉が出るたび、「オー」。
「ヘビ」が出てきた時には、その大きさと太さで、圧倒されてしまいました。「フィリピンの『ヘビ』の大きさは、これくらいです」と、両手で輪っかを作って説明するのです。「まさか、そんなに大きいことはないだろう」と言うと、インドの学生が、「もっと大きい」と言います。フィリピンの学生は、「細いのは肉がついていないので、おいしくない」とまた言います。日本の「ヘビ」の大きさを聞かれたので、これくらいと片手で(当然です)輪っかを作ると、笑われてしまいました。「それでも『ヘビ』なのか」と。
そのうちに、「イヌ」や「ネコ」が出てきます。中国の鮮族が「イヌ」を食べるというのは有名ですので、そう言うと、中国の学生は、「中国では、みんな食べます」と言います。そのうちにフィリピンの学生が「ネコも食べます」。みんな「えー!」。
「お酒をたくさん飲む人は、『イヌ』も食べます。『ネコ』も食べます。でも、私は食べません。かわいそうです」と言うので、みんなは「うん、うん」。「ネコ」が出たからでしょうか、「『ネズミ』も食べます」「え~!」「白い『ネズミ』、白い『ネズミ』です」と言うのはインドの学生。「『イヌ』程もある大きい『ネズミ』もいます」。すると、あっちからもこっちからも、「これくらい」「これくらい」と、両手で抱え上げるような仕草をします。水辺にいるのだそうですが、大きいネズミが多いんですね、南の国には。勿論「危ないです。怖いです」で、すぐ次の動物に移ります。
そうしているうちに、一人の学生が「バッタ」の絵を描いて、「これ、食べますか」。タイの学生が「おいしい」。インドの学生は「日本人は『ゴキブリ』を食べますね」と言うのには、ひっくり返るほど驚いてしまいました。
インド人はみんな、「日本人は、『イヌ』も『ネコ』も『サカナ』も『ゴキブリ』も、何でも食べると思っています」と言うのです。「サカナ」と「ゴキブリ」を、食べ物として、並べて言うのはやめてくれと言いたいところですが、どうも「韓国と中国と日本」が、ごちゃ混ぜになって、またその上から、妙なふりかけをかけたような具合になっているようです。
近いようで、遠い国同士。「仲良くしているけれども、お互いのことを、ほとんど何も知っていない」クラスメート達なのだということがよく解りました。
日々是好日
随分前のことになりますが、若い頃、合宿で海の家に泊まったことがあります。生まれた家も、まあ海の近くと言えなくはない所だったので、当時住んでいた山間の小さな町から出てくると、一種解放されたような、広々とした気分になったものです。
昼のうちは、ただ楽しく過ごしていたのですが、夜になると、何かしら追い詰められたような気分になってきました。みんなが寝静まると、聞こえてくるのは「潮騒」ではなく、「海鳴り」の響きだけです。「存在しているけれども見えない自分、自分の中の大地と繋がっている部分」と「現実の自分」が、どこかでせめぎ合いを始めます。
それからは、海に行くことは止めにしました。海は怖い。特に夜の海は怖い。人を追い詰めます。「自分」に戻ることを強要するのです。否応なく、大地の力を見せつけてきます。「自分に戻る」のは疲れます。「自分を感じる」のも、だめなのでしょう。「自分を感じる時間」、「自分の心の奥底へ沈み込む時間」が必要になりますから。その上で、「回復する時間」が無ければ、「今」を生きることは出来ません。
昨日は「川村学園女子大学」の、学生さん達による模擬授業の日でした。我が校の女性達が「生徒さん」の役をするのです。みんなが出ていった後、残されたのは、男性陣と午後に用事のある女性達だけです。
前日の授業の時に、「名詞(な)+んです」が、スムーズに出てこなかったので、今日は、その復習をするつもりでした。まず、26課からの動詞を扱います。間違えるたびに、肩をすくめたり、照れたりするので、だれが間違えたのかすぐ解ってしまいます。みんな正直ですね。発音や拍数の部分で引っかかる人があっちからもこっちからも。教室が広く見えるようになった分、目も届きます。
可能形の復習が終わって、「短文作り」で少々遊ぼうとしたところ、早速「どれくらい泳げますか」で、学生達につかまってしまいました。
一人の学生が、「ここから駅まで泳げます」で、みんな一斉に「オー」。隠れ「金槌」さんがたくさんいたのです。「私は『川で泳ぎました』、『川に飛び込みました』、『それは深い川でした』で、この学生が育ったふるさとの自然が、目に浮かんで来ました。型どりの単語ではなく、自分のことを表そうと身振り手振りで、説明してくれます。私はそれにふさわしいであろう言葉や文を押し込んでいけばいいだけですから、楽な役割です。
それにしても、羨ましいですね。川で泳ぎを覚えたなんて。普段、女性陣が強いですから、男性はなかなか主張することができません。授業中、茶々を入れようとすると、「勉強」と眼がキラッと光るのです。いつもは、押さえつけられていたのだということがよく分かりました。みんな勢い込んで色々なことを言おうとします。彼らの様子を見ていると、「今日一日(本当は1時間くらい)、手綱を放してみるか」といった大らかな気分になってきます。
「何(料理名)を作ることができますか」で、様々な動物が出てきました。料理の名前で、フィリピンの「焼きそばのようなもの」の名前が出てきたあと、「(動物名)を食べますか」と言い出した学生がいて、話がドンドン発展していきます。(「本当は『可能形』をやりたかったんだけれども」という私の気持ちを置き去りにして)
勿論、まだ初級ですから、絵を描いたりして説明します。ノートに描いた絵を高く掲げて、「これです」。「サメ」「サソリ」「ワニ」などの名前が挙がりました。「私は食べられませんが、私の国の田舎の人は、(動物名)を食べます」と言う言葉が出るたび、「オー」。
「ヘビ」が出てきた時には、その大きさと太さで、圧倒されてしまいました。「フィリピンの『ヘビ』の大きさは、これくらいです」と、両手で輪っかを作って説明するのです。「まさか、そんなに大きいことはないだろう」と言うと、インドの学生が、「もっと大きい」と言います。フィリピンの学生は、「細いのは肉がついていないので、おいしくない」とまた言います。日本の「ヘビ」の大きさを聞かれたので、これくらいと片手で(当然です)輪っかを作ると、笑われてしまいました。「それでも『ヘビ』なのか」と。
そのうちに、「イヌ」や「ネコ」が出てきます。中国の鮮族が「イヌ」を食べるというのは有名ですので、そう言うと、中国の学生は、「中国では、みんな食べます」と言います。そのうちにフィリピンの学生が「ネコも食べます」。みんな「えー!」。
「お酒をたくさん飲む人は、『イヌ』も食べます。『ネコ』も食べます。でも、私は食べません。かわいそうです」と言うので、みんなは「うん、うん」。「ネコ」が出たからでしょうか、「『ネズミ』も食べます」「え~!」「白い『ネズミ』、白い『ネズミ』です」と言うのはインドの学生。「『イヌ』程もある大きい『ネズミ』もいます」。すると、あっちからもこっちからも、「これくらい」「これくらい」と、両手で抱え上げるような仕草をします。水辺にいるのだそうですが、大きいネズミが多いんですね、南の国には。勿論「危ないです。怖いです」で、すぐ次の動物に移ります。
そうしているうちに、一人の学生が「バッタ」の絵を描いて、「これ、食べますか」。タイの学生が「おいしい」。インドの学生は「日本人は『ゴキブリ』を食べますね」と言うのには、ひっくり返るほど驚いてしまいました。
インド人はみんな、「日本人は、『イヌ』も『ネコ』も『サカナ』も『ゴキブリ』も、何でも食べると思っています」と言うのです。「サカナ」と「ゴキブリ」を、食べ物として、並べて言うのはやめてくれと言いたいところですが、どうも「韓国と中国と日本」が、ごちゃ混ぜになって、またその上から、妙なふりかけをかけたような具合になっているようです。
近いようで、遠い国同士。「仲良くしているけれども、お互いのことを、ほとんど何も知っていない」クラスメート達なのだということがよく解りました。
日々是好日