曇り。早朝雨が降っていたようです。
例年ですと、梅雨の終わりには集中豪雨と決まっていたような。ところが、今年は雨がかなり少なかったようで、それで、雨の量云々というよりも降ったか降らなかったかが話題
となっています。
時折見かけるテレビの天気図には、最初のころは熊本地方にかかる雨雲が気にかかっていましたが、最近では北海道にかかっている雨雲が気になっています。…確か、北海道には梅雨がない…なかったはずなのだけれども、という目で見てしまうからなのでしょう。
さて、学校です。
「Cクラス」には、一年生と二年生が同居しているのですが、一年生(今年の4月に来た人たち)が二年生を見て、「ああ、こんなものでいいのか。じゃあ、自分もこれで良い」と思うようになるのか、あるいはこうなってはならぬと決意を新たにするのかは、難しいところでしょうね。
少なくとも、五月末頃までは、このレベルでいいのだ…みたいな雰囲気が見て取れましたので、(二年生には気の毒ですけれども)注意を促していました。が、六月には、アルバイト疲れから来る(多分)気の緩みとも相俟って、中弛み現象が起きていました。
やっと七月に入ってから、正常(多分)に近づいて来た…と思ったら、夏休みです。この期間、クラスに一人でも、学校で勉強するという人が現れると、雰囲気が違ってくるのですが。そうでないと、夏休みを境に大きくぶれてしまう人が出てきてしまいます。
スリランカ勢は、「話す・聞く」で生きていますから、アルバイト先はだいたい、レストランです。それで学校で勉強していたときよりも、(夏休みが終わると)随分と話せるようになって出現という人が出てきます。で、自分は日本語が上手だと誤解してしまうことになる。人は「幸せな勘違い」が大好きで、ややもすると、楽な方、楽な方へと靡いてしまいます。その危険性に気づく人は、この国の人の中では、特に稀だと感じられるのですが。
もっとも、「話す・聞く」だけですから、下手をすると、漢字どころか、いや、カタカナどころか、ひらがなだって危なくなって学校に戻ってくる…ことだってありなのです。
一方、ベトナム勢は、漢字を書き、文法を覚えしても、「聞く・話す」が、だめですから、簡単な日常会話すら聞き取れぬようになって(学校に)戻ってくる。
これから考えると、ベトナムの人にとって、毎日、学校に来て、日本人教師の話す日本語を聞くという簡単な作業だけでも、彼らが思っている以上に大きな意味を持っていることにあるのでしょう。
聞き取れさえすれば、ベトナム人の中には非常に努力する人もいるので、どれだけ楽になるだろうと思われるのですが、なかなかうまくいきません。覚えようと練習すればするほど別の音になってしまい、一週間後二週間後には、こちらが首をかしげざるを得ないような単語になっていたりするのです。
ベトナム人学生は、とにかく工場から離れること。できるだけ早く、アルバイト先をレストランなり、コンビニなり、日本人との話が普通にできる場所に替えること(もちろん、日本語を学びに来た。そのために頑張れる人は…ですが)。これが大切であると痛感しています。学校だけではだめなのです。せっかく日本に来ているのですから。日本人との会話が、一度頭にしまい込まずとも、直でできるようになるためには、現場が大切なのです。生活の中で日本語を使うという作業が大切になるのです。
もっとも、ヒアリングがいいと言われているスリランカ人でも、その話の意味を改めて聞いてみると、適当に答えていたのがバレて、意味がわかっていないことが露呈してしまいますから、「えばれない」はずなのですが。
もちろん、どちらにも頑張れる人もできる人もいます。そうではない人が多いと、教える方としても、大変。大半が、国に帰らずに進学したいと言いますから。
日々是好日