日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

ペラペラしゃべれるからといって、日本語のレベルが高いとは限りません。

2018-08-24 08:59:50 | 日本語学校
小雨。

時折、渦を巻くような感じで雨が降ってきます。台風のせいと言えば、そうなのでしょうけれども、この辺りはそれほどのことはなく、ちょっと気が抜けた…くらいのものです。

朝、起きた時には、雨も全く降っておらず、拍子抜けして、キョトン。それが1時間ほども経った頃でしょうか、パラパラと降り出したので、「さては今頃やって来たか」と緊張…したけれども、ものの10分も保たず、また止んで…。

出た時は、小糠雨程度でした。それで、自転車にしようと家を出たのですが、皆、考えることは同じと見えます。いつもに比べ、自転車が多かったような気がしたのは、あながち、「気がした」だけではないのでしょう。

とはいえ、風は生暖かく、まるで春一番のよう。台風が送り込んでいるこの熱風も、海水温が高止まりしているからなのでしょう。母体は海水温と言えるかもしれません。

満潮時に台風に出くわしてしまった港は大変です。海が膨張して見えます。遊歩道も海の中、車道を呑み込まんばかり。「津波」に限らず、「高潮」も怖い。

「海辺に住んでいる人間が一番海のことを知っている」とは、よく言われることですけれども、最近は海辺に住んでいても、海と関係のない仕事をする人が多く、それ故に、災害が大きくなりがちなのかもしれません。

海、山に住んでいても、海、山と関わりのない生活をしていれば、「海の民、山の民」とは言えないのでしょう。

さて、学校です。

同じインド圏(日本人から見れば)の人達とは言え、スリランカ人学生とネパール人学生とは本当に違います。

その一つが、長期休暇後の日本語レベルにうかがえるのも面白い。

スリランカ人学生の長所は「聞く・話す」ですから、休みが長かろうが短かろうが、関係ありません。休み明けでも(日本語)レベルに変化はなく、却って上手になっているくらいです。如何に学校での勉強に向いていないかがわかります。

働いたり、遊んだりで覚えていくようで、漢字を覚えたり、難しい文法を覚えたりといった、ある程度「努力」が必要なことは、大してする習慣がありませんから、学校が開いていても開いていなくても関係ないのでしょう。

聞いて覚え、ペラペラしゃべれるようになるといっても、ほとんどが生活に直結していることばかりですから、そのまま日本の普通の会社に勤めたりしますと、かなり大変なことになってきます。相手(日本人)の言っていることが判らないでしょうから。とはいえ、対策はあるようで、「相手に話させないで、一方的にまくし立てる」。これに尽きるようです。相手が何かしゃべれば、それに答えなければなりませんから、自分が判っていないのがバレてしまう。それは困る。とにかく、「しゃべったれ」というところなのでしょう。

学校に通っている間は、(日本語教師はそれをさせませんから)いやでも自分が判っていないのを、鼻先に突きつけられて、指摘されてしまう(プライドが傷つきますね)。でも、こうやって指導するしかないのです。判っていないのを誤魔化そうとする手合いが多すぎるのです。彼等同士がやっているように、それを見過ごしてしまうと、結局、困るのは自分たち。スリランカ人同士のように、なあなあとやってくれて、しかも、業績のいい会社というのは、あまりないと思いますから。

そういうところに入れたとしても、日本の会社はそれほど親切ではありませんから、いくらペラペラしゃべってみせても、何かの拍子にバレたりしますと、「こいつ、やっぱり、(意味が)わかっとらんのかい」と肚でせせら笑われてしまう。

「判らない」と、正直に言う人には、親切に応対する人はいても、誤魔化してやり過ごそうという人には、だれも親切になぞしてくれません。

大変ですね。そうではない人もいましたけれども、そういう人にしても、こういうスリランカ人の「性格」は嫌だと言いますね。

その反対に見えるのが、ネパール人。

長期休暇中でも、寮費を払いに来たり、宿題のチェックを受けに来たり、進学の相談に来たりとするのですが、見事に(日本語)レベルが落ちていきます。こういうのはベトナム人と同じ。

この人達は、勉強は学校だけでするものと思っているのだなと、それが本当によく判ります。これはこれで困ったことですけれども、素直な人達が多いので、なぜ休み中も勉強しなければならないかと、その理屈を丁寧に説明してやると、中にはハッと気づいて、勉強し出す人も出てくるので、叱り甲斐、説明し甲斐があります。

ただ、山国で、閉鎖的なところに育ったからか、それ故に情報も少なかったからか、本当に知らないことが多い。学校の勉強では、最初、それが問題になってくるのですが、もとより、これは彼等だけのことではありません。「知らない」と言うか、あるいは知ったかぶりをして誤魔化そうとするかだけの違いにすぎませんから。

「知らない」と言ってもらうと、こちらもスマホで見させたり、DVDを探したりして、教えることができるのですが、それがないと、こちらも素通りしてしまいます。そして、判らないというのを、単語や文法の問題として捉えてしまうことになります。却って、ソンなんですけれどもね。。

もっとも、日本に住んでいても、そういうことが必要になってくるような社会に入らなければ関係ないことなのでしょうけれども。

日々是好日
コメント
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