日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「心の中の閉塞感」。

2011-05-25 08:55:54 | 日本語の授業
 空は晴れ渡っています。もの皆、明るく、本来ならば「今日もまた、事もなし」とでも言いたいところなのですが…。

 子供たちの大きな声が、小学校の校庭かにある「サクラ(桜)」の樹の陰から響いてきます。もうすぐ運動会。例年通り元気一杯の駆けっこやら、騎馬戦やら、玉入れやらが見られることでしょう。親御さんやおじいさんおばあさんはそれに一喜一憂し、何もかも忘れて愉しむことでしょう…、が…。

 この日本語学校の傍には、電信柱があり、それに、よく、カラスが止まっているのですが、今日もやってきました。利口なカラスのことですから、手を出すどころか、あっちへ行けみたいな目つきで見ることすら、できません。今日も、この辺りを仕切っているボスの如く、辺りを睥睨しています。小鳥たちは、息を潜めて、彼の様子を窺っているのでしょう。彼が飛び立つやいなや、わらわらと小鳥たちのさざめきが聞こえてくるのです。

 そう、昨日も一日が、当然の如く終わり、そして今日の日の、朝を迎えています。

 これら毎日の一つ一つの出来事に、胸が締め付けられるような美しさを感じてしまうのです。向かいで行われている工事の音にしても、です。

 それもこれも、皆が、心の中の不安をよく知っており、その上、知っていてもどうにもならないことを知っており、このどうにもならないことにやるせなさを感じ、日々暮らしていけることに、どこかしら「拾い物をした」ような感覚でいるからかもしれません。

 地震だけだったら、津波だけだったらと、「3.11」のあと、誰もが口にしました。日本人のみならず、日本にいた多くの外国人も口にしました。日本は地震が多いということも津波が来ることもありうるということも知っていた…けれど原発は…。去りがたい思いを抱いて、日本を後にした人も少なくはなかったと思います。

 日本人も、「大ナマズ(鯰)」の正体は突き止められなくとも、これまで、「ナマズ」の被害を受けては、立ち直りしてきました。一日を生きぬくというのは、そういうことなのです。目の前にある仕事を一つ一つ片づけていく。それが生きるということ、生業(なりわい)ということなのです。

 もちろん、悲しみは、時間が経ってもなくなることはないでしょう。けれども、もの皆に、死は訪れる。いつかは同じ世界の人間となれる。あるいは、もう生まれ変わって、地震や津波のない国で産声を上げているかもしれない。心の持ちようはあるのです、悲しみを遠ざけるための。今を生きている人間には。

 それで対処できない事態というのは、苦しい、切ない、やるせない。焦りに似てまた非なるもの。そう、確かに、これは…焦りではない…。

 こういう気持ちは、彼の地の人たちだけが持っているのではありません。250㌔以上離れて居ろうとも、同じように何かに心が蝕まれているような気がするのです。

 学生たちも、私たちも、そのような不安を心の底に潜めたまま、毎日を忙しく過ごしています。実際、とても忙しい。6月には「留学生試験」、7月には「日本語能力試験」、その間に横浜に行き、それから箱根か日光かあるいはどこかへバスで一日旅行をし、そして夏休みに入れば、全部を補講というわけにもいかないでしょうが、何人かの補講はせねばならぬでしょう。

 学生たちはアルバイトに、学校の勉強に、寮での勉強にと目が回りそうに動き回っています。

 何事によらず、目先のことをするのが一番。心の中のあらゆる物に対する不信の念は、表に出したところで、どうにもならぬことなのです。ただわかっているのは「専門家を信じ、敬う」という日本人の美徳が、この方面の専門家に対してだけは失われたということです。

 こういう気持ちは、慣れないだけに、日本人にとっては辛いのです。その道一筋にやってきている人を尊敬したい…けれども、現実がそれを裏切っていれば…。悲しいことですが。本来なら、信じていたいのですから。

日々是好日
コメント
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