日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「初夏」。「求人広告」。「目的は『進学』」。

2011-05-08 14:34:34 | 日本語の授業
 爽やかな朝。新緑が、鮮やかに広がっています。雨に打たれて、より一層瑞々しくなったからかな…と思っていましたら、日が昇るにつれ、暑く暑くなってきました。暑い!お日様が、情け容赦もなく、照りつけて来ます。お天道様の光が、とにかく、真夏張りに強いのです。
 とはいえ、部屋の中は、涼しいというか肌寒ささえ覚えるほどの冷たい風が通っていきます。建物の中にいる限り、これは、5月の風であり、真夏の風ではないことを感じます。

 昨日はあんなに寒かったというのに、今日はもう半袖ででもいいくらいです。あと一二時間もしたら25度を超えてしまうかもしれません。とはいえ、お天気がいいということは、洗濯日和だということ。ここ四日ほど、ぐずついたお天気が続いていましたし、火曜日くらいからまた雨が降るとのことですから、皆、大急ぎで洗濯に励んだのでしょう。しまい込まれた鯉のぼりの代わりに、どの家のベランダからも、洗濯物が風に翻っているのが見えます。白さが目に眩しいほどです。

 今朝、新聞を見ていますと、求人広告のビラが入っていました。こういうビラは、原子力発電所の事故の後でも、入ってはいたのですが、その仕事の大半が、日本語がまだおぼつかない学生が出来るようなものではなかったのです。しかも、土日祝日はお休み。はは~ん、これは日本人向けか、或いは日本人の配偶者がいる人向けだな、とすぐに察することができるものばかり。つまり、来日後それほどの日数が経っていない留学生が割り込む隙などなかったのです。

 原子力発電所の事故が起こった後、大部分の留学生が潮が引いていくように帰国していきました。その中には、アルバイト先に何の断りもなしに帰っていった学生も少なくなかったと聞いています。仕事に来るはずの人が、決められた時間に来ないのですから、どこも困ります。五人いなければならないレールに二人しかいなければ、工場の作業は滞ってしまいます。それで懲りたのでしょう、あれからずっと、この近くの工場でも、「留学生はね」と言われて断られていました。

 これまでは、日本語が上手になるまで、お世話になっていられた工場でも、です。そういう工場は、だいたい外国人が多かったので、だれかしら通訳をしてくれていたのです。だから日本語が下手でも大丈夫だったのですが。そういうところでも、「留学生はねえ、何も言わずに帰ってしまうから、計画が立てられないんだよ。だから今は日本人だけにしている」と言われ、今年来たばかりの学生達は随分割を食っていました。

 今度のバイトは、どうでしょう。やっと出てきたアルバイト募集。しかも日本語はそれほど必要ではなさそうです。また、学生が電話をすると、「留学生はねえ」と言われて断られてしまうかもしれませんが、月曜日になったら、早速これを見せて、「男は度胸。とにかく、電話をしてごらん」と言ってやらねばならぬ学生が何人かいます。

 学生達も、(日本語が上手になるまで)アルバイトがありますと、生活も安定します。これは経済的な意味だけではなく、生活にリズムができるのです。生活が安定してきますと、勉強に集中できるようになります。勉強に身が入りますと、当然のことながら、日本語が上手になっていきます。日本語が上手になれば、今度はもっといいアルバイトを捜すこともできるでしょうし、日本での生活が面白くなってきます。

 もちろん、これは、日本での生活の「枝の一本」に過ぎません。日本語学校で学んでいる大半の学生達の目的は「進学」なのですから。アルバイトばかりしていても、学校で学ぶような、いわゆる知識を習得するための日本語は上手になりません。これは、、忘れられがちのことなのですが。

 夏休みや春休み、冬休みのような長期休暇が続いた後、日本語での受け答えや反応が速くなる学生が、毎年のように出てきます。本人は、もちろん大得意です。学校に来なくても上手になると見得を切る学生もいます。こちらも、思わず「おっ。上手になったね」と言いたくなるのですが、これはしてはいけないこと。彼らの目的が進学である限り、言ってはいけないことなのです。

 彼らが、今現在、出来るようなアルバイトでは、そういうことは学べないのです。聞いたとしても、理解は出来ないでしょう。「中級」レベル、あるいはたとえ「上級」レベルであろうとも、まだ「外国人用の教科書」を使っている限りは。

 こういう学生でも、教室に入り、「学び」はじめると、途端にメッキが剥げてきます。教科書を読んだり、文意を掴んだりしなければならなくなると、途端に、勢いが失せてしまうのですから。まず、漢字が読めないし、文章の意味がわからない。そこで本人が「おかしい」と思い、やり方を変えればいいのですが、面白いことに、人とは、なかなかそうはならないもののようです。「話せればそれで十分だ。それ以上は必要ない」と自分で仕切ってしまうのです。その方が簡単だからでしょう。人とは、楽な方へ楽な方へと流れていくもののようですから。

 見えても目を塞いでしまう人も出てきます。いくらこちらが注意しても、大丈夫と言い張って現実を見ようとしない人もいるのです。結局、素直な人が勝つというのは、こう言うことなのでしょう。

 学ぶことなしに、単に耳からだけで得られる知識というのには限りがあります(大半の学生は、高校を卒業してから来日していますから、「耳で覚える」ことには長けています)。そういう内容を既に母国で学んでいる人や、聡明な人なら、置き換えが出来たり類推したり出来るかもしれませんが、普通の能力(何を以て「普通」というかは難しいところですが)であれば、漢字は書かねば覚えられませんし、たとえ漢字を知っていたとしても、読み方を知らなければ(聞いた言葉の)意味は掴めません。

 経験から言えば、聡明であればあるほど、人は勉強するもののようですし、また勉強すればするほど、(知識や出来ることが増えますから、勉強することが)面白くなり、学ぶことが苦にならなくなるもののようです(中には、わかっても判らなくても、がむしゃらに勉強できる人もいました。この人の場合は、時間が味方したのです。がむしゃらに、ある意味ではひたむきに、頑張っているうちに、急に結び目が解けて、いろいろな事が見えるようになった…そんなぐあいだったのです。不思議なことでしたが)。

 ただ、これも私たちがどこまで無理強いできるかと言いますと、それも難しいのです。決めなければならない頃には、みな既に二十歳は超えています。それに彼らだけで決めることが出来る場合と、彼ら一人では決められない場合(国の両親や親戚の意向)もあります。本人が既に自分の人生の設計図を書いていて、ここ(日本語学校、ないし日本)では、これだけできればいいと、そのつもりで来日している場合もあります。

 できれば、私たちは、高卒の人には、大学か、あるいは確かな技術・技能が習得出来る専門学校へ入ってもらいたいのです。それからでも人生を決めるのは遅くないと思うのです。もっとも、そういうところへは、きちんと勉強しなければ入れません。そのために、この学校で苦労してもらおうと思っているのですが。

日々是好日
コメント
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