「死刑肯定論」(森炎 著)ちくま新書 を読んだ。
死刑廃止論はよく見るけど、死刑肯定論はあまり見たことない。
それで興味をもったので読んでみた。
刑罰には復讐(犯罪予防・見せしめも含めて)と教育という2面性がある。
でも死刑には・・・
復讐しかない。
そこで死刑廃止論者は論理的にものを考え、
死刑擁護論者は感情的のものを考える。
それで話はいつも食い違う。
たまたま「死刑肯定論」という本を図書館で見て借りた。
死刑肯定論者の論理の中で特に知りたかったのは
冤罪についてと池田小事件。
裁判には冤罪は必ずある。
人がやること必ずミスはある。
でもほかの刑罰だったらそれを取り戻すことはできる。
わずかなわずかな可能性だけど本人が生きている限りそれを取り戻すことはできるのだ。
でも死刑だったら・・・
執行されたら・・・
もう絶対に取り戻すことはできないのだ。
池田小事件、
自分が死にたいためだけに、
自殺する勇気がないというだけで、
多数の小学生を殺した。
この不条理な殺人事件をどう考えるか、
それを知りたかった。
その後類似事件が多数出ている。
千葉でも秋葉原でも・・・
死刑があるために殺されなくてもいい人たちが理不尽に殺されてきた。
こんなこと、どうしたらいいのか?
死刑がなかったらこの人たちは死ななくてよかったんだよ。
この人たちの命をどう考えているの?
冤罪については利便性の問題だと書いてあった。
交通事故は必ず起きる、でもだれも車を飛行機を廃止しろとは言わない。
これと同じように死刑もたとえ冤罪があったとしてもそれ以上に必要性がある。
という理屈らしい。
でもこれは論点がずれている。
交通事故を無くすことは不可能だろう。
でも死刑は廃止することはできる。
死刑を廃止して終身刑にすればいいのだから。
自分が冤罪で死刑になる…その可能性はだれでもほんのわずかだけどある。
その想像性に欠けている。
池田小事件についてはこのような犯人は死刑にするほかないというだけの論調。
本人の希望通りに死刑にさせる・・・本人は何の反省することもなく死んでいった。
これでは何の復習にも何の見せしめにもなっていない。
光市母子殺人事件については被害者の家族の犯人を死刑にしてほしいという気持ちはよくわかる。
同じ立場だったらきっと同じことを言うだろう。
それは犯人が何の反省もしていないと思えるからだ。
きっとあの犯人、被害者の家族を逆恨みしながら死んでいくのだろう。
でももし犯人の心からの謝罪があったなら、きっとあの被害者の家族の気持ちも変わっただろう。
死刑囚は他の囚人と違って働くこともなく毎日のほほんと暮らしている。
のほほん?
毎朝死への恐怖におびえる。
突然告げられる死。
この過酷な日の連続。
でもそのいっ時を過ぎるとあとは何もすることはない。
のほほんと毎日暮らす。
これって被害者の家族は納得できるだろうか?
加害者は死んだら終わり。
でも被害者の家族にとってはそうではないだろう。
加害者には一生をかけて償わせろといいたい。
死刑をやめて終身刑にする。
そして刑務所の中で他の囚人以上に働かせてその報酬の半分を強制的に被害者に支払わせろといいたい。
この本・・・
やっぱり・・・
がっかり・・・
やたらと引用が多い。
引用って、
人の言葉で話すこと。
人の頭で考えること。
人の権威に頼ること。
もっとまともな死刑肯定論はないものだろうか?
死刑廃止論はよく見るけど、死刑肯定論はあまり見たことない。
それで興味をもったので読んでみた。
刑罰には復讐(犯罪予防・見せしめも含めて)と教育という2面性がある。
でも死刑には・・・
復讐しかない。
そこで死刑廃止論者は論理的にものを考え、
死刑擁護論者は感情的のものを考える。
それで話はいつも食い違う。
たまたま「死刑肯定論」という本を図書館で見て借りた。
死刑肯定論者の論理の中で特に知りたかったのは
冤罪についてと池田小事件。
裁判には冤罪は必ずある。
人がやること必ずミスはある。
でもほかの刑罰だったらそれを取り戻すことはできる。
わずかなわずかな可能性だけど本人が生きている限りそれを取り戻すことはできるのだ。
でも死刑だったら・・・
執行されたら・・・
もう絶対に取り戻すことはできないのだ。
池田小事件、
自分が死にたいためだけに、
自殺する勇気がないというだけで、
多数の小学生を殺した。
この不条理な殺人事件をどう考えるか、
それを知りたかった。
その後類似事件が多数出ている。
千葉でも秋葉原でも・・・
死刑があるために殺されなくてもいい人たちが理不尽に殺されてきた。
こんなこと、どうしたらいいのか?
死刑がなかったらこの人たちは死ななくてよかったんだよ。
この人たちの命をどう考えているの?
冤罪については利便性の問題だと書いてあった。
交通事故は必ず起きる、でもだれも車を飛行機を廃止しろとは言わない。
これと同じように死刑もたとえ冤罪があったとしてもそれ以上に必要性がある。
という理屈らしい。
でもこれは論点がずれている。
交通事故を無くすことは不可能だろう。
でも死刑は廃止することはできる。
死刑を廃止して終身刑にすればいいのだから。
自分が冤罪で死刑になる…その可能性はだれでもほんのわずかだけどある。
その想像性に欠けている。
池田小事件についてはこのような犯人は死刑にするほかないというだけの論調。
本人の希望通りに死刑にさせる・・・本人は何の反省することもなく死んでいった。
これでは何の復習にも何の見せしめにもなっていない。
光市母子殺人事件については被害者の家族の犯人を死刑にしてほしいという気持ちはよくわかる。
同じ立場だったらきっと同じことを言うだろう。
それは犯人が何の反省もしていないと思えるからだ。
きっとあの犯人、被害者の家族を逆恨みしながら死んでいくのだろう。
でももし犯人の心からの謝罪があったなら、きっとあの被害者の家族の気持ちも変わっただろう。
死刑囚は他の囚人と違って働くこともなく毎日のほほんと暮らしている。
のほほん?
毎朝死への恐怖におびえる。
突然告げられる死。
この過酷な日の連続。
でもそのいっ時を過ぎるとあとは何もすることはない。
のほほんと毎日暮らす。
これって被害者の家族は納得できるだろうか?
加害者は死んだら終わり。
でも被害者の家族にとってはそうではないだろう。
加害者には一生をかけて償わせろといいたい。
死刑をやめて終身刑にする。
そして刑務所の中で他の囚人以上に働かせてその報酬の半分を強制的に被害者に支払わせろといいたい。
この本・・・
やっぱり・・・
がっかり・・・
やたらと引用が多い。
引用って、
人の言葉で話すこと。
人の頭で考えること。
人の権威に頼ること。
もっとまともな死刑肯定論はないものだろうか?