写真①:筑前地之嶋の漁民から奉納された「大敷絵馬」
=山口県下関市豊浦町宇賀字川島の「川嶋神社」拝殿で、2017年4月2日午前10時50分撮影
「川嶋神社の絵馬」探訪④
筑前地之嶋の漁民から奉納された「大敷絵馬」を見学
豊浦町ツアーに参加した私たちは4月2日、「筑前地之嶋」(福岡県宗像市地島)の漁師が、山口県下関市豊浦町宇賀字川島の「川嶋神社」に豊浦町が発祥の地とされる「大敷網」(定置網の一種)漁法で大漁を得たお礼として、大正時代に奉納した絵馬=写真①=を見学しました。
絵馬の額には「筑前地之嶋大敷 沼井磯市」、「大正六丁巳年七月吉祥日 大漁叶」と書かれています。描かれた絵に題名はなく、左手に馬上で槍を突き出した豊臣秀吉家臣で「賤ケ岳七本槍」の加藤清正、福島市松(正則)の両戦国武将、その右手に新納(にいろ)武蔵、伊集院忠棟の島津氏の武将が馬上で迎え討っている構図です。上部には総大将の秀吉と金色の千成り瓢箪の背後に鎧武者の群れと林立する幟旗が描かれています。新納武蔵(武蔵守忠元)は、戦国時代の薩摩国島津家に仕えた「島津四勇将」の一人で武勇は鬼神のごとしと評された通称「鬼武蔵」で、伊集院忠棟は島津義久に仕えた筆頭家老。秀吉の九州平定での島津攻めの場面と思われます。
戦の年月、場所は絵馬に書かれていません。多々見茂平・元宇賀村長編『宇賀郷土読本』では、〈天正十五年の薩摩との戦いであろう。また、秀吉が出馬していることから九州平定の最後の総仕上げと思われる〉としています。秀吉は天正15年(1587年)、薩摩国出水(鹿児島県出水市)に侵攻していますが、絵馬に描かれた戦場は出水でしょうか。
確かに言えるのは、この絵馬は左端に描かれた加藤清正の新納忠元との戦いの逸話とされるシーンをテーマにしているようです。出水に侵攻した秀吉軍の猛将・清正は、島津家随一の武勇の「鬼武蔵」・忠元と一騎打ちとなった際、騎上から武器の棍棒を落として馬もろとも倒れた忠元を見て、勇猛で知将として聞こえた忠元をこのまま討つのはしのびないとして、「馬を乗り換え、再び戦おうぞ」と引き返したという。
忠元は、和歌や連歌を嗜む文化人で礼節を弁えた魅力的な武将です。島津藩の士風教育のため、武道を嗜み、礼儀作法を乱さず、虚言を言わず、仲間同士は合点が行くまで話し合うなどの「二才咄格式定目(にせばなしかくしきじょうもく)」を著したことでも知られています。後に同藩の伝統となった「嘘を言うな」、「負けるな」、「弱いものいじめをするな」などと先輩が後輩に教え、学ぶ青少年教育システム・「郷中教育」の元となったと評価されています。