写真①:筑前勝浦濱の漁民から「大敷網」漁による豊漁お礼で奉納された「小楠公の絵馬」
=山口県下関市豊浦町宇賀字川島の「川嶋神社」拝殿で、2017年4月2日午前10時50分撮影
「川嶋神社の絵馬」探訪②
筑前勝浦濱の漁民から奉納された「大敷絵馬」を見学
山口県下関市豊浦町宇賀字川島の「川嶋神社」拝殿で、奉納されている多くの絵馬についてガイドしていただいたのは、野村幹夫・「宇賀地区自治会連合会」会長です。宇賀地区は、昭和30年に旧豊浦郡豊西村、黒井村、川棚村、宇賀村が合併して発足した豊浦町の北部にある漁村。豊浦町は平成17年、下関市に合併しています。
私たちが最も見学したかった旧宗像郡勝浦村(昭和30年に南に接した同郡津屋崎町に合併)にある筑前勝浦濱(現福津市勝浦)の漁民が、約60Km離れた「川嶋神社」へ大正時代に奉納した絵馬=写真①=は、拝殿の間の左手に掲げられていました。
この絵馬は、額に「筑前勝浦濱大敷 主任藤井嘉一組」と書かれ、「大正拾年酉七月吉日」に奉納。豊浦町湯玉浦が発祥地とされる「大敷網」(定置網の一種)漁により大漁がかなったお礼に、大正10年7月に寄進したと見られます。描かれた絵は「小楠公」と題されており、後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献した後、建武3年(1336年)の湊川(兵庫県神戸市)の戦いで足利尊氏の軍に敗れて自害した武将楠木正成(大楠公)の嫡男正行(まさつら=小楠公)が、正成の首級が届いてショックを受け、仏間で右手に短刀を持って死のうとしているのを母が諫めている場面です。正行は母の真情に感激して自死を思いとどまり、その後、幾度も勤皇のために戦って散華しましたが、朝廷への忠誠心と母への孝行心を全うしたことが知られています。
「大敷網」漁法が、どのようにして「筑前勝浦濱」に伝えられたのでしょうか。旧津屋崎町が平成10年に発行した同町史民俗調報告書査・『津屋崎の民俗(第四集)』によると、定置網の中で最大の「落し網」(「大敷網」ともいう)=写真②=を張る津屋崎の網漁では、ブリ、イワシ、トビウオ、アジ、サバ、サワラ、マイワシを捕獲。二隻で操業し、一隻に七、八人乗って朝方1回操業、都合によっては夕方も行っていました。〈大正末期から昭和の初期、山口県安岡(注:響灘に面した旧豊浦郡安岡町安岡浦=現下関市安岡=のことか。安岡漁港がある漁村)の船が津屋崎の海で縄大敷網を操業していた〉という。
写真②:落し網(大敷網)の図=『津屋崎の民俗』(第四集)「北の二」105頁掲載=