吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2006年10月24日/〈日記〉39・「霜降」の風、肌寒く

2006-10-24 09:01:03 | 日記
写真①:上空高く舞うミヤマガラスの群れ
=福津市宮司の宮地嶽神社境内で、2006年10月22日午後1時12分撮影

 22日から24日にかけて、福岡地方は秋風が強まりました。
 
 22日午後1時すぎ、福津市宮司の宮地嶽神社境内で、冬の渡り鳥・ミヤマガラス(カラス科)51羽が鳴きながら上空を高く旋回しました=写真①=。私が、拝殿前の特設舞台で奉納される「筑紫神舞(かんまい)」を観覧していた時、鳴き声で気付きました。カラスの群れはしばらくして、神社裏の宮地岳の森に羽を休めに入ったようでした。朝鮮半島から飛来の第一陣でしょう。

 例年10月末までには朝鮮半島から福岡県内に群れをなして渡来し、翌年3月中旬には半島へ渡去します。体長47㌢で、津屋崎で見かけるカラス科の野鳥ではハシボソガラス(体長50㌢)よりやや小さく、カササギ(同44㌢)よりはやや大きい。

 今年に入り、津屋崎でのミヤマガラスの確認は、3月9日に自宅近くの的岡地区で渡去前の群れ=写真②:午前7時10分撮影=をカメラに収めて以来です。きょう24日午前7時30分にも、的岡地区の上空で宮地岳に向かって飛んで行く23羽を目撃しました。


 写真②:的岡地区の電線に止まったミヤマガラスの群れ

 23日は、二十四節気の一つの「霜降」でした。霜が降り始めるころといいますが、津屋崎の夜明けは23、24両日とも風が強く、肌寒く感じました。24日朝、在自の「新堤池」近くの上空で虹を観察しました=写真③:午前7時11分撮影=。


             写真③:「新堤池」近くの上空にかかった虹
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2006年10月23日〈津屋崎学〉009:〈神郡宗像〉と津屋崎

2006-10-23 06:59:02 | 郷土史

●写真①:400年以上も前の安土・桃山時代の天正6年(1578年)に
大宮司宗像氏貞によって再建された宗像大社辺津宮本殿(国指定重要文化財)
=宗像市田島の同大社で、2003年10月4日午前10時55分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第9回:2006.10.23
  〈神郡宗像〉と津屋崎

清 「10月1日に宗像大社=写真①=の〈みあれ祭(さい)〉を初めて見に行ったっちゃけど、なかなか迫力があったよ。叔父さんに、いっぺん見とけと言われた通り、行って良かったばい」
琢二 「宗像市田島にある宗像大社の秋季大祭は〈田島放生会〉とも呼ばれ、国家の平穏、五穀豊穣と大漁に感謝する祭りだが、〈みあれ祭〉、つまり大船団を引き連れての海上神幸(しんこう)は、圧巻だな。神幸とは、遷宮や祭礼に際し、御神体が神輿(みこし)などに乗って新殿や御旅所・祭場に渡ることを言う。毎年、秋季大祭初日の10月1日、御神体の神輿を載せた御座船=写真②=2隻と、お供の宗像7浦の漁船約400隻が、玄界灘から宗像市の神湊(こうのみなと)漁港に次々と入って来る姿は実に勇壮だ。見物客も多い」


写真②:神湊漁港に入る御座船
=2006年10月1日午前10時51分撮影

清 「漁港の岸壁は、大人から子供まで大勢の見物人でいっぱいやったね」
琢二 「〈国家鎮護〉の大文字と赤い日の丸入りの幟を立てた御座船の1隻には、神湊漁港から11㌔沖の宗像市・大島にある中津宮(なかつみや)の御神体を、もう1隻には神湊漁港から60㌔沖の同市・沖ノ島にある沖津宮(おきつみや)の御神体を載せてある。大漁旗をなびかせた大漁船団を従えて大島港から出発、玄界灘を巡行して神湊漁港入りし、上陸して同市田島の宗像大社辺津宮(へつみや)まで参道をパレードするのが祭りのハイライトだな。この3宮を総称して宗像大社と呼ばれている」

清 「ところで、〈みあれ祭〉って、どういう意味かいな」
琢二 「〈みあれ〉とは、〈御生(みあ)れ〉で、新しく霊力を戴くという意味。〈来年まで1年間の活力を授かる〉ということたい。宗像大社は、3姉妹の女神を、それぞれ玄界灘に浮かぶ沖ノ島、大島と本土・田島の3つの社に祀っている。秋季大祭はまず、沖津宮と中津宮の神迎え神事をして辺津宮に3女神が集まる様子を再現し、海の安全と豊漁に感謝する。宗像大社では、氏子である旧宗像郡民あげて祝う祭りと言い、宗像市と周辺の福津市・津屋崎漁港も含めた7漁港の漁船が御座船のお供で参加し、海上パレード=写真③=するのが習わしだ」


写真③:玄界灘をパレードして神湊漁港に近づく大漁船団
=10月1日午前10時43分撮影

清 「福津市の宮地嶽神社の祭神は、女神の神功皇后やったけど、宗像大社も3女神なんやね。宗像地方の大きな神社は、女の神様ばっかりたい」
琢二 「そうだな。辺津宮、中津宮、沖津宮の3宮からなる宗像大社の3女神は、市杵嶋姫(いちきしまひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、田心姫(たごりひめ)がそれぞれ配されている。たごり姫、たぎつ姫は、湯が沸騰する〈たぎる〉に通じ、外海の逆巻く波が岩に当たる様を表す言葉の〈たごり〉や〈たぎつ〉を名前に入れて海の神の荒ぶる性格にふさわしい。市杵嶋姫は、いつく嶋の姫の意味。いつくとは、心身の穢れを清めて神に仕えること、つまり神を祀る島で海の神に仕えていた巫女が神として祀られるようになったのだろう。沖ノ島は玄界灘の中央にある絶海の孤島だが、4世紀後半から10世紀初めにかけて営まれた古代国家祭祀跡があり、出土した奉献品の〝御宝物〟約12万点のほとんどが国宝、重要文化財に指定され〝海の正倉院〟と呼ばれるほどだ。沖津宮の御祭神を辺津宮に神迎えする神事が、中世に行われていたことからも、沖ノ島の神が海神である宗像の神の根源であり、宗像神は沖ノ島に最初に祀られたと見ていいだろうな」

清 「宗像大社3女神の謂われも、あると?」
琢二 「『日本書紀』巻一によると、日神である天照大神の吹き出す息から3女神が生まれたとし、筑紫の胸肩(宗像)君らが祀る神、と書いている。3女神は、高天原で生まれた神で格式が高い。海神を守護神とする古代宗像地方の豪族・宗像君徳善(むなかたのきみとくぜん)の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)が、天武天皇の后となり、後に太政大臣になった高市皇子(たけちのみこ)を産んだ。したがって、宗像3女神は、ヤマト政権と緊密な関係にあった。また、天皇家の祖先神である天照大神は3女神に高天原から〈海北道中(うみきたのみちなか)〉に降り、天孫を助け、また天孫によって祀られよ、と命じた。つまり、歴代の天皇を守り、歴代の天皇からも篤いお祀りを受けよと指示したことになるな。これが天照大神のみ教え、〈神勅〉というわけだ。〈海北道中〉とは、〈海の北の道の中〉の意味。古代に往来した朝鮮半島の百済や新羅へ通じる海路の安全を3女神に守るよう命令したと言える。3女神は海北道中の守護神として、道主貴(みちぬしのむち)という尊称が与えられている。宗像大社が交通安全の神様と言われる理由も、古代より道の神様として篤い信仰を集めていたからだ」
清 「なるほど。宗像3女神は、ヤマト政権と特別な関係にある神様たいね」
琢二 「そういうこと。だから、宗像大社は、社格から言っても大きな神社だ。戦前の近代社格制度では、神社の格を祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける官社と、それ以外の各地方が運営する府県社・郷社・村社・無格社の諸社とに、大きく二分した。このうち官社を天皇・皇族や朝廷にゆかりの深い神を神祇官が祀る〈官幣社〉と、各国の一宮など国造りに貢献した神を地方官が祀る〈国弊社〉に分け、それぞれに大・中・小の格を定めた。宗像大社は、明治神宮や香椎宮などと同じ官幣大社で、社殿の装飾に菊の紋章の使用が許された。3女神、すなわち宗像大神を祀る神社は全国で6千余社を数え、宗像大社はその総本宮だ。ちなみに、太宰府天満宮は官幣中社、宮地嶽神社は県から奉幣を受ける県社で、宗像大社の祭神に関係の深い神を祭る〈摂社〉とされていた」


写真④:旧官幣大社で社殿の装飾に菊の紋章使用を許された宗像大
社拝殿=03年10月4日午前10時55分撮影

清 「やっぱり、宗像大社は大した神社なんやね。津屋崎も〈神郡(しんぐん)宗像〉の町の1つ、と言われるのも関係あるっちゃろうか」
琢二 「いいところに気が付いたな。前回、国史跡〈津屋崎古墳群〉の意義について話したように、古墳時代の津屋崎が、宗像地方の支配者でヤマト政権と緊密な関係にあった宗像君(むなかたのきみ)一族の下で繁栄していたことは、宗像君徳善(とくぜん)の墓と思われる〈宮地嶽古墳〉から出土し、国宝に指定された数々の副葬品の素晴らしさからも分かる。

 それで、〈神郡宗像〉というのは、古墳時代末期の7世紀中ごろ宗像地方に〈神郡〉を設けたことを指す。〈神郡〉とは、国郡(こくぐん)制成立に伴い神社の神域、つまり神様の領土として誕生した他郡とは違う特別な郡のことだ。645年の大化の改新で、国郡の制が布かれると、全国7大社に〈神郡〉が設置され、宗像郡は九州で唯一の〈神郡〉として宗像大社の神領と定められた。神主・宗像氏は宗像大社に奉仕するとともに、郡の長官である〈大領(たいりょう)〉も兼務して行政を司ったのだ。神主は、伊勢神宮、出雲大社に並ぶ特別の待遇を受けた」

清 「宗像地方というと、宗像市と昔あった宗像郡のこと?」
琢二 「そうだ。平成の行政大合併で、宗像郡の旧津屋崎町、福間町は合併して福津市に、また旧玄海町、大島村は宗像市に合併し、宗像郡の町村はすべて消滅したがな」
清 「それで、宗像地方が〈神郡〉になったということは、どういうことやろか」
琢二 「〈神郡〉として宗像大社を中心とした行政が行われたということだ。宗像大社の所領は、宗像郡だけでなく、隣接の遠賀郡や鞍手郡などにも荘園を持っていた。平安時代に宗像氏は、荘園を守るため京都の八条院と領主・本家の関係になり、社領は皇室領となった。979年(天元2年)に太政官の命により大宮司職が設けられたあと、鳥羽上皇の皇女の八条院が宗像氏実を宗像大社の大宮司職に任命する。所領荘園はしだいに増え、鎌倉時代には筑前、肥前、壱岐、豊前にわたって60数か所を領有していたが、鎌倉末期には北条氏の所領になったこともある。宗像大社の大宮司家・宗像氏は、平安時代末期から武士化し、戦国大名としても活躍したが、戦国時代に領主・宗像氏貞が病死したあと、大宮司家は断絶した。いずれにしても、宗像地方は宗像大社、宗像氏の存在が大きかったから、津屋崎も古代から〈神郡宗像〉の領域として歴史を刻み、宗像氏の宗教的、政治的な影響を受けてきたわけだな」


写真⑤:宗像大社楼門=03年10月4日午前10時55分撮影

宗像大社辺津宮
    〈宗像大社辺津宮〉の位置図
     (ピンが立っている所)
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2006年10月22日〈津屋崎の四季〉026:筑紫神舞を奉納披露

2006-10-22 17:33:32 | 風物
 福津市宮司の宮地嶽神社で22日午後1時から、御遷座記念祭が行われました。ご祭神〈神功皇后〉が御遷座されためでたい日で、拝殿前特設舞台では雅やかな装束姿の神職や敬神婦人会の人たちが、「筑紫神舞(かんまい)」を奉納披露しました。

 8世紀に筑紫地方の風俗舞として舞われた「筑紫舞(つくしまい)」を同神社で再興、伝承しているもので、約1時間半にわたって奉納された舞は、巫女が舞う巫子舞(きねまい)「雪月花」=写真①=で幕開け。次いで、「鑑(かん)の曲」=写真②=、「ふき」=写真③=、巫子舞「榊葉(さかきば)」=写真④=、最後に「翁」=写真⑤=と計5曲。日本舞踊とは違って、榊や玉串などを持ち、独自の手振り、足振りで舞う躍動的な〝古代舞踊〟に、約200人の見物客らは興味深そうでした。


写真①:敬神婦人会の4人と女性神職の計5人が舞う「巫子舞・雪月花」
=福津市宮司の宮地嶽神社拝殿前特設舞台で、10月22日午後1時29分撮影


写真②:神職ら男性4人が左右対称の鏡舞になって舞う「鑑の曲」
(別名「かがみの曲」)=午後1時45分撮影


写真③:〝御魂鎮め〟の舞い「ふき」を舞う神職ら男性4人。
体を回転しながら跳躍する「筑紫舞」独特の所作も見られた=午後2時12分撮影


写真④:敬神婦人会の6人と女性神職の計7人が舞う「巫子舞・榊葉」
=午後2時25分撮影


写真⑤:浄見(きよみ)譲宮司(中央)ら男性3人で舞う「翁」。
けってつま先を出す〝ルソン足〟と呼ばれる南方渡来の足使いを披露=午後2時39分撮影

 「筑紫舞」は、傀儡子(くぐつ)という芸能者集団により伝えられた九州発祥の伝統芸能。平安時代の勅撰史書『続日本紀 巻第十一』にも、雅楽寮で伝習する定員が20人と記述されています。1200年の時を経て受け継がれ、能や舞楽、人形浄瑠璃などの源流ともいわれる〝幻の宮廷舞〟。その伝承者が、国指定史跡・〈宮地嶽古墳〉でもある宮地嶽奥の宮の岩屋(不動洞窟=現在は不動神社を祀る)で舞い伝えていたとのことから、神社で再興、「筑紫神舞」として10数曲が伝承されています。筑紫神舞の奉納披露は、今年で24年目という。


写真⑥:境内の特設舞台で奉納される筑紫神舞を熱心に観覧する参拝客
=午後1時50分撮影

 「筑紫舞」は昭和初期まで伝承され、戦後に途絶えましたが、神戸市出身の西山村光寿斉(こうじゅさい)さん(85)が復活させ、1984年に福岡市東区に転居。筑紫舞宗家として西山村津奈寿(つなとし)総帥(40)ら後継者の育成に力を注いでおり、毎年7月か8月に同市中央区の福岡県立大濠公園能楽堂で公演を行っています。回転しながらの跳躍などの所作に特徴があり、2001年のフランス公演では〝日本のフラメンコ〟と好評を博しました。

筑紫舞伝承後援会
(会長=三隅治雄・民族芸術交流財団理事長・文学博士)
▽事務局:川原正孝同会理事長が社長の「ふくや」(からし明太子製造会社=福岡市博多区中洲2)内。℡092―291―3575。
▽ホームページ:(http://www02.so-net.ne.jp/~minazuki/index.html
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2006年10月21日/〈日記〉38・宵宮 灯明祈願祭

2006-10-21 19:53:06 | 日記
●写真①:竹灯の柔らかな光で幻想的な雰囲気に包まれた境内=福津市宮司の宮地嶽神社で、2006年10月21日午後6時37分撮影

 21日午後6時から、福津市宮司の宮地嶽神社で「宵宮 灯明祈願祭」が、催されました。細君と初めて、観覧しました。

 夕暮れの境内で、信者らが願い事を込めて納めた3千本の竹灯の蝋燭にご神火を灯し、諸願成就を祈る祭典。神事のあと、約200人の参拝客が見守る中、午後6時30分過ぎにすべての竹灯に火が灯り、境内は竹灯の放つ柔らかな光で幻想的な雰囲気に包まれました=写真①=。                     

 この後、拝殿前の特設舞台で、長崎県平戸市の国指定重要無形民俗文化財「平戸神楽」の奉納披露があり、弓や太刀を帯びた武士装束での勇壮な舞=写真②:午後6時53分撮影=に観客から大きな拍手が送られていました。                            

写真②:拝殿前の特設舞台で奉納された「平戸神楽」の勇壮な舞

 22日は、午後1時から宮地嶽神社御遷座記念祭が行われ、拝殿前特設舞台で〝幻の宮廷舞〟「筑紫神舞(かんまい)」5曲が、神職や敬神婦人会の人たちにより奉納披露されます。「筑紫舞(つくしまい)」は1200年の時を経て受け継がれ、能や舞楽、人形浄瑠璃などの源流ともいわれ、8世紀には筑紫地方の風俗舞として舞われていたものです。その伝承者が、宮地嶽の岩屋(不動洞窟)で舞い伝えていたとのことから、神社で再興、「筑紫神舞」として伝承されています。榊(さかき)、玉串、絹垣(きぬがき=絹の布)などを持ち、独自の手振りで舞う躍動的な〝古代舞踊〟です。

 筑紫舞は、傀儡子(くぐつ)という芸能者集団により伝えられた九州発祥の伝統芸能。平安時代の勅撰史書『続日本紀 巻第十一』にも、雅楽寮で伝習する定員が20人と記述されています。昭和初期まで伝承され、戦後に途絶えましたが、神戸市出身の西山村光寿斉(こうじゅさい)さん(85)が復活させ、1984年に福岡市東区に転居。筑紫舞宗家として西山村津奈寿(つなとし)総帥(40)ら後継者の育成に力を注いでおり、毎年7月か8月に同市中央区の福岡県立大濠公園能楽堂で公演を行っています。筑紫舞の特徴は、回転しながらの跳躍などの所作にあり、2001年のフランス公演では〝日本のフラメンコ〟と好評を得ました。

 問い合わせは、宮地嶽神社(0940-52-0016):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕西鉄宮地岳線宮地岳駅下車、徒歩10分。JR鹿児島線福間駅下車、西鉄バス津屋崎橋行きか、神湊波止場行きで10分の「宮地岳宮前」で下車し、徒歩5分〔車で〕九州自動車道古賀インターから約20分。駐車台数1200台。

宮地嶽神社
 福岡県福津市宮司の「宮地嶽神社」位置図
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2006年10月21日〈津屋崎の四季〉025:〝もやもや草〟はヌカキビでした

2006-10-21 03:21:50 | 風物
写真①:帯状に靄がかかった草むらに見える野草・ヌカキビの群落(中央の白い部分)
=福津市在自の畑で、2006年10月13日午前6時50分撮影

 10月13日朝、福津市在自の畑で、靄(もや)がかかった草むらに見える野草・ヌカキビの群落が目に留まりました=写真①=。私は、その印象から〝もやもや草(そう)〟と呼ぶことにしています。

 ヌカキビ(糠黍)は、イネ科の一年生草本。全国に分布し、キビダンゴ(黍団子)のキビと同属です。花穂が細く弱々しげで、ごく小さな花が細かい粒に見えて糠の細かさに似ていることからヌカキビの名が付いたという。

 湖岸や崖地の水がしみ出る場所、湿った路傍・荒れ地などやや湿り気のある所でよく生育します。靄がかかったかのように見えた在自の群落も、「新堤池」北側の土手下にありました=写真②:13日午後4時15分撮影=。


     写真②:「新堤池」北側の土手下にある群落

 近づいて見ると、根元から茎を広げ、地面を這うようにして途中から立ち上がり、高さは約30~70㌢=写真③:在自の畑で、13日午後4時15分撮影=。葉鞘の片側だけに長毛があり、葉や茎が薄く細いので柔らかそうですが、なかなか芯のしっかりした存在感のある野草です。


     写真③:花穂が細く弱々しげな茎のヌカキビ
        (交じって生えたエノコログサに絡んでいます)

 それにしても、遠くから群落を見ると、靄がかかった草むらのように思えるのはなぜ? 一つ一つは小さな野草でも、集団で強さを発揮する弱者の野性のなせる業かもしれません。
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2006年10月20日〈津屋崎の野鳥〉019:コガモの群れ

2006-10-20 07:57:41 | 福津市津屋崎の野鳥

●写真①:堰堤で憩う10羽のコガモ(カモ科)
      =福津市的岡の「新堤池」で、2006年10月15日午後5時01分撮影

 冬の渡り鳥・コガモが、福津市的岡の「新堤池」に飛来しています=写真①:=。新堤池では10月6日、堰堤で憩う5羽を初めて確認。13日も池を泳いでいる5羽=写真②:午後4時17分撮影=の写真を撮り、15日に10羽、18日に6羽の飛来を確認しています。



写真②:新堤池で泳ぐ5羽のコガモ

 和白干潟には12日、赤い嘴の冬鳥・ミヤコドリ(ミヤコドリ科)1羽が飛来したそうです。津屋崎干潟にも、渡り鳥の珍客が来ていそうな気がします。

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2006年10月19日〈津屋崎の野鳥〉018:イソヒヨドリ

2006-10-19 09:23:43 | 福津市津屋崎の野鳥
●写真①:自宅2階の屋根に止まったイソヒヨドリ(ヒタキ科)=福津市津屋崎新東区で、2006年10月19日午前7時14分撮影

 細君と朝の散歩から福津市津屋崎新東区の自宅に帰り着く直前、2階の屋根に知らない野鳥が居ると細君が告げました。

 なんと、イソヒヨドリではありませんか=写真①=。久しぶりです。尾羽を上下に振っています。全国の海岸の岩地で繁殖し、人懐こい野鳥です。以前、津屋崎海岸に近い福津市津屋崎天神町に住んでいたころは、新川の河口付近でよく見かけていました。

 デジカメで写真を撮ると、向こう向きになりました=写真②:午前7時14分撮影=。


       写真②:背中を見せたイソヒヨドリ

 体長23㌢で、ムクドリ(ムクドリ科)とほぼ同じ大きさ。雄は頭や背、胸が濃い青色で、腹は赤っぽい。雌は体が黒っぽく、胸や腹はうろこ状の模様があります。囀りは「ツツ、ピーコピー」と澄んだ声。

 しばし観察していると、屋根からそばの電柱に飛び移りました=写真③:午前7時15分撮影=。雄でした。


写真③:電柱に飛び移ったイソヒヨドリ
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2006年10月19日〈津屋崎の四季〉024:赤い実、黄色の実がなる木

2006-10-19 08:11:47 | 風物
写真①:枝いっぱいの小さな実が赤く熟れたクロガネモチ
=福津市的岡の住宅庭で、2006年10月18日午後1時45分撮影

 秋が深まるにつれて、赤い実や、黄色の実がなる木が目立ってきました。福津市的岡の住宅地の庭では、常緑高木・クロガネモチ(モチノキ科)=写真①=の枝いっぱいの小さな実が赤く熟れています。

 自宅近くの同市的岡の畑では、食用のウンシュウミカン(ミカン科)=写真②:10月18日午後1時47分撮影=が、黄色くなっていました。


写真②:黄色くなったウンシュウミカン

 福津市東町にある会社裏の庭園では、中国原産のニワウメ(バラ科)の実が赤く熟しています=写真③:18日午後1時44分撮影=。


写真③:実が赤く熟したニワウメ


 日本原生の果樹・カキ(カキノキ科)の赤い実も、福津市的岡の畑で、晴れた秋空に彩りを添えていました=写真④:17日午後5時25分撮影=。甘ガキでしょうか。


    写真④:熟れた実が秋空に彩りを添えるカキ


 福津市東町の住宅前を歩いていると、鉢植えのピラカンサ(バラ科)が赤い実をびっしりと付けていました=写真⑤:18日午後1時40分撮影=。観賞用に好まれますが、毎年晩秋に訪れる冬鳥のジョウビタキ(ヒタキ科)もよく啄ばんでいるのを見かけます。


写真⑤:赤い実をびっしりと付けたピラカンサ
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2006年10月18日〈津屋崎の四季〉023:秋の野の花・ノコンギクとゴイサギ

2006-10-18 11:07:56 | 風物
写真①:畑の用水路沿いに咲いたノコンギクの花
=福津市在自の畑で、2006年10月13日午後4時10分撮影

 福津市の在自の畑で10月13日、ノコンギク(キク科)の淡青紫色の花が咲いていました=写真①=。秋の山野でよく見かける多年草で、高さ50~100㌢。漢字で書くと「野紺菊」――野に生える紺菊という意味で名付けられました。

 よく似たヨメナ(キク科)の花と違うのは、葉の両面に長さ4~6㍉の冠毛があり、「ノコンに毛あり、嫁に毛なし」と言われる通り、ノコンの葉は触るとざらつくが、ヨメナの葉はツルツルです。

 17日朝、いつものようにノコンギクの花を見て散歩から帰る途中、近くの用水路からゴイサギ(サギ科)の幼鳥が飛び立ち、そばの田んぼに舞い降りました=写真②:午前7時12分撮影=。まだ警戒心が少ないようで、カメラを向けてもじっとしていました。


    写真②:田んぼに舞い降りたゴイサギの幼鳥
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2006年10月17日/〈日記〉37・台風で倒れた大杉が神殿を直撃!

2006-10-17 16:27:43 | 日記

●写真①:「九州のお伊勢さま」・伊野天照皇大神宮本殿の屋根を直撃した大杉
=福岡県久山町猪野字別所柞原の同神宮で、2006年10月15日午後1時25分撮影

 おととい15日午前、細君と行った〝当てのないドライブ〟日記の3回目、これで最後です。福岡県久山町猪野櫛屋の自然食レストラン「茅乃舎(かやのや)」で昼食後、近くの猪野字別所柞原に鎮座する伊野天照皇大神宮を初めて訪れました。

 伊野天照皇大神宮(通称伊野神社)は、天照大神を祀る「九州のお伊勢さま」として古くから信仰を集めてきました。神功皇后が、新羅遠征のため香椎の宮に御臨幸の際、天照大神を祀った所と伝えられ、神殿も伊勢神宮を模して築造され、同神宮にならって式年造営を行っているといいます。

 境内には、「夫婦杉」をはじめ杉の巨木が目立ち、鬱蒼とした緑陰が荘厳な雰囲気を醸し出しており、町指定文化財の欅の古木もあります。参道の急な石段=写真②:=10月15日午後1時15分撮影=を上ると、小さな拝殿=写真③:午後1時17分撮影=前に着きました。


写真②:本殿下参道にある急な石段


 写真③:こじんまりとした拝殿

 拝殿には絵馬=写真④:午後1時26分撮影=が掲げられ、境内には大きく開いた口の中を朱色に塗られた狛犬=写真⑤:午後1時25分撮影=も置かれていました。


        写真④:拝殿に掲げられた絵馬


写真⑤:大きく開いた口の中が朱色の狛犬

 拝殿の賽銭箱にお賽銭を入れる際、奥に見える本殿が傾いているのに気付きました。裏手に回ったところ、大杉が倒れて屋根を直撃=写真①=しているのが分かり、びっくり。直撃を受けた反対側の本殿壁を木材で支え、応急手当が施されていました。町教委によると、9月17日に福岡県を襲い、福岡市で観測史上第2位の最大瞬間風速49㍍を記録した台風13号が、大杉をなぎ倒したという。神殿の被害だけに、早く復旧を願いたいですね。

 本殿裏の階段を上がると、「古神殿跡地」と書かれた木の柱=写真⑥:午後1時21分撮影=が立てられていました。跡地の脇に、裏山の「遠見山」への登山道路を案内する標柱もありました。


写真⑥:「古神殿跡地」と書かれた柱

 参道を引き返して下っていると、境内入り口近くの参道東側に小さな滝=写真⑦:午後1時27分撮影=があるのが目に留まりました。上流の湧き水が水源のようです。


    写真⑦:境内入り口近くの参道東側にある滝

 神宮下の道路脇には、「福岡県猪野自然環境保全区域」と書かれた大きな看板=写真⑧:午後1時30分撮影=が掲示してありました。それによると、タブノキ、ヤブツバキなど優れた照葉樹林の学術的価値が高いとして、昭和49年に約15㌶を同保全区域に指定したという。


   写真⑧:「福岡県猪野自然環境保全区域」の看板

 神宮前の道路に架かる橋の下には清流・猪野川が流れ、子供を連れた親たちが散策に訪れていました=写真⑨:午後1時31分撮影=。


    写真⑨:家族連れが水辺で遊ぶ清流・猪野川

◆交通アクセス:福岡県粕屋郡久山町猪野字別所柞原、「伊野天照皇大神宮」=西鉄バス「猪野行き」で終点「猪野バス停」下車、徒歩約10分。駐車場は約30台収容。
伊野天照皇大神宮

  伊野天照皇大神宮の位置図
     (赤いピンが立っている所)
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