●写真①:400年以上も前の安土・桃山時代の天正6年(1578年)に
大宮司宗像氏貞によって再建された宗像大社辺津宮本殿(国指定重要文化財)
=宗像市田島の同大社で、2003年10月4日午前10時55分撮影
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第9回:2006.10.23
〈神郡宗像〉と津屋崎
清 「10月1日に宗像大社=写真①=の〈
みあれ祭(さい)〉を初めて見に行ったっちゃけど、なかなか迫力があったよ。叔父さんに、いっぺん見とけと言われた通り、行って良かったばい」
琢二 「宗像市田島にある宗像大社の秋季大祭は〈田島放生会〉とも呼ばれ、国家の平穏、五穀豊穣と大漁に感謝する祭りだが、〈みあれ祭〉、つまり大船団を引き連れての海上神幸(しんこう)は、圧巻だな。神幸とは、遷宮や祭礼に際し、御神体が神輿(みこし)などに乗って新殿や御旅所・祭場に渡ることを言う。毎年、秋季大祭初日の10月1日、御神体の神輿を載せた御座船=写真②=2隻と、お供の宗像7浦の漁船約400隻が、玄界灘から宗像市の神湊(こうのみなと)漁港に次々と入って来る姿は実に勇壮だ。見物客も多い」
写真②:神湊漁港に入る御座船
=2006年10月1日午前10時51分撮影
清 「漁港の岸壁は、大人から子供まで大勢の見物人でいっぱいやったね」
琢二 「〈国家鎮護〉の大文字と赤い日の丸入りの幟を立てた御座船の1隻には、神湊漁港から11㌔沖の宗像市・大島にある中津宮(なかつみや)の御神体を、もう1隻には神湊漁港から60㌔沖の同市・
沖ノ島にある沖津宮(おきつみや)の御神体を載せてある。大漁旗をなびかせた大漁船団を従えて大島港から出発、玄界灘を巡行して神湊漁港入りし、上陸して同市田島の宗像大社辺津宮(へつみや)まで参道をパレードするのが祭りのハイライトだな。この3宮を総称して宗像大社と呼ばれている」
清 「ところで、〈みあれ祭〉って、どういう意味かいな」
琢二 「〈みあれ〉とは、〈御生(みあ)れ〉で、新しく霊力を戴くという意味。〈来年まで1年間の活力を授かる〉ということたい。宗像大社は、3姉妹の女神を、それぞれ玄界灘に浮かぶ沖ノ島、大島と本土・田島の3つの社に祀っている。秋季大祭はまず、沖津宮と中津宮の神迎え神事をして辺津宮に3女神が集まる様子を再現し、海の安全と豊漁に感謝する。宗像大社では、氏子である旧宗像郡民あげて祝う祭りと言い、宗像市と周辺の福津市・津屋崎漁港も含めた7漁港の漁船が御座船のお供で参加し、海上パレード=写真③=するのが習わしだ」
写真③:玄界灘をパレードして神湊漁港に近づく大漁船団
=10月1日午前10時43分撮影
清 「福津市の宮地嶽神社の祭神は、女神の神功皇后やったけど、宗像大社も3女神なんやね。宗像地方の大きな神社は、女の神様ばっかりたい」
琢二 「そうだな。辺津宮、中津宮、沖津宮の3宮からなる
宗像大社の3女神は、市杵嶋姫(いちきしまひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、田心姫(たごりひめ)がそれぞれ配されている。たごり姫、たぎつ姫は、湯が沸騰する〈たぎる〉に通じ、外海の逆巻く波が岩に当たる様を表す言葉の〈たごり〉や〈たぎつ〉を名前に入れて海の神の荒ぶる性格にふさわしい。市杵嶋姫は、いつく嶋の姫の意味。いつくとは、心身の穢れを清めて神に仕えること、つまり神を祀る島で海の神に仕えていた巫女が神として祀られるようになったのだろう。沖ノ島は玄界灘の中央にある絶海の孤島だが、4世紀後半から10世紀初めにかけて営まれた古代国家祭祀跡があり、出土した奉献品の〝御宝物〟約12万点のほとんどが国宝、重要文化財に指定され
〝海の正倉院〟と呼ばれるほどだ。沖津宮の御祭神を辺津宮に神迎えする神事が、中世に行われていたことからも、沖ノ島の神が海神である宗像の神の根源であり、宗像神は沖ノ島に最初に祀られたと見ていいだろうな」
清 「宗像大社3女神の謂われも、あると?」
琢二 「『
日本書紀』巻一によると、日神である天照大神の吹き出す息から3女神が生まれたとし、筑紫の胸肩(宗像)君らが祀る神、と書いている。3女神は、高天原で生まれた神で格式が高い。海神を守護神とする古代宗像地方の豪族・宗像君徳善(むなかたのきみとくぜん)の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)が、天武天皇の后となり、後に太政大臣になった高市皇子(たけちのみこ)を産んだ。したがって、宗像3女神は、ヤマト政権と緊密な関係にあった。また、天皇家の祖先神である天照大神は3女神に高天原から
〈海北道中(うみきたのみちなか)〉に降り、天孫を助け、また天孫によって祀られよ、と命じた。つまり、歴代の天皇を守り、歴代の天皇からも篤いお祀りを受けよと指示したことになるな。これが天照大神のみ教え、〈神勅〉というわけだ。〈海北道中〉とは、〈海の北の道の中〉の意味。古代に往来した朝鮮半島の百済や新羅へ通じる海路の安全を3女神に守るよう命令したと言える。3女神は海北道中の守護神として、
道主貴(みちぬしのむち)という尊称が与えられている。宗像大社が交通安全の神様と言われる理由も、古代より道の神様として篤い信仰を集めていたからだ」
清 「なるほど。宗像3女神は、ヤマト政権と特別な関係にある神様たいね」
琢二 「そういうこと。だから、宗像大社は、社格から言っても大きな神社だ。戦前の近代社格制度では、神社の格を祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける官社と、それ以外の各地方が運営する府県社・郷社・村社・無格社の諸社とに、大きく二分した。このうち官社を天皇・皇族や朝廷にゆかりの深い神を神祇官が祀る〈官幣社〉と、各国の一宮など国造りに貢献した神を地方官が祀る〈国弊社〉に分け、それぞれに大・中・小の格を定めた。宗像大社は、明治神宮や香椎宮などと同じ
官幣大社で、社殿の装飾に菊の紋章の使用が許された。3女神、すなわち宗像大神を祀る神社は全国で6千余社を数え、宗像大社はその総本宮だ。ちなみに、太宰府天満宮は官幣中社、宮地嶽神社は県から奉幣を受ける県社で、宗像大社の祭神に関係の深い神を祭る〈摂社〉とされていた」
写真④:旧官幣大社で社殿の装飾に菊の紋章使用を許された宗像大
社拝殿=03年10月4日午前10時55分撮影
清 「やっぱり、宗像大社は大した神社なんやね。津屋崎も
〈神郡(しんぐん)宗像〉の町の1つ、と言われるのも関係あるっちゃろうか」
琢二 「いいところに気が付いたな。前回、国史跡〈津屋崎古墳群〉の意義について話したように、古墳時代の津屋崎が、宗像地方の支配者でヤマト政権と緊密な関係にあった宗像君(むなかたのきみ)一族の下で繁栄していたことは、宗像君徳善(とくぜん)の墓と思われる〈宮地嶽古墳〉から出土し、国宝に指定された数々の副葬品の素晴らしさからも分かる。
それで、〈神郡宗像〉というのは、古墳時代末期の7世紀中ごろ宗像地方に〈神郡〉を設けたことを指す。〈神郡〉とは、国郡(こくぐん)制成立に伴い神社の神域、つまり神様の領土として誕生した他郡とは違う特別な郡のことだ。645年の大化の改新で、国郡の制が布かれると、全国7大社に〈神郡〉が設置され、宗像郡は九州で唯一の〈神郡〉として宗像大社の神領と定められた。神主・宗像氏は宗像大社に奉仕するとともに、郡の長官である〈大領(たいりょう)〉も兼務して行政を司ったのだ。神主は、伊勢神宮、出雲大社に並ぶ特別の待遇を受けた」
清 「宗像地方というと、宗像市と昔あった宗像郡のこと?」
琢二 「そうだ。平成の行政大合併で、宗像郡の旧津屋崎町、福間町は合併して福津市に、また旧玄海町、大島村は宗像市に合併し、宗像郡の町村はすべて消滅したがな」
清 「それで、宗像地方が〈神郡〉になったということは、どういうことやろか」
琢二 「〈神郡〉として宗像大社を中心とした行政が行われたということだ。宗像大社の所領は、宗像郡だけでなく、隣接の遠賀郡や鞍手郡などにも荘園を持っていた。平安時代に宗像氏は、荘園を守るため京都の八条院と領主・本家の関係になり、社領は皇室領となった。979年(天元2年)に太政官の命により大宮司職が設けられたあと、鳥羽上皇の皇女の
八条院が宗像氏実を宗像大社の
大宮司職に任命する。所領荘園はしだいに増え、鎌倉時代には筑前、肥前、壱岐、豊前にわたって60数か所を領有していたが、鎌倉末期には北条氏の所領になったこともある。宗像大社の大宮司家・宗像氏は、平安時代末期から武士化し、戦国大名としても活躍したが、戦国時代に領主・宗像氏貞が病死したあと、大宮司家は断絶した。いずれにしても、宗像地方は宗像大社、宗像氏の存在が大きかったから、津屋崎も古代から〈神郡宗像〉の領域として歴史を刻み、宗像氏の宗教的、政治的な影響を受けてきたわけだな」
写真⑤:宗像大社楼門=03年10月4日午前10時55分撮影
〈宗像大社辺津宮〉の位置図
(ピンが立っている所)