写真①:福津市の〈新原・奴山古墳群〉
=福津市奴山で、2008年2月1日午後2時46分撮影
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第7回:2006.10.13
国史跡〈津屋崎古墳群〉の意義は
――大和政権や大陸と交流した「宗像君一族」の権勢と繁栄示す全国第一級の歴史遺産
清 「福津市宮司の宮地嶽神社奥の院にある
〈宮地嶽古墳〉の素晴らしさは、この前、叔父さんに教えてもらって、よう分かったばい。このごろ
〈津屋崎古墳群〉のことを耳にするばってん、また別の古墳があるとかいな」
琢二 「〈宮地嶽古墳〉は、
2005年3月に国史跡に指定された〈津屋崎古墳群〉40基に含まれ、古墳群の南端付近にある。古墳時代終末期の7世紀前半に築造された直径約34㍍の円墳で、〈大塚古墳〉とも呼ばれ、
墳丘内部にある横穴式石室=写真②=は長さ23㍍と全国で2番目に長いということは前にも話したな。1番は、奈良県橿原(かしはら)市見瀬町にある〈見瀬丸山(みせまるやま)古墳〉の石室で、長さ28.4㍍たい。全国で6番目に大きい前方後円墳で、6世紀後半に築造され、欽明天皇とその妃の堅塩媛(きたしひめ)の合葬陵とも推定されている」
写真②:巨石で構築された〈宮地嶽古墳〉の石室内部
=07年1月28日午後2時09分撮影
清 「
宮地嶽古墳の石室が、天皇陵に次ぐ全国2番目の大規模石室とは、すごいなァ。津屋崎を支配した
古代の宗像の豪族・宗像君(むなかたのきみ)は、大した権勢やったんやね」
琢二 「そうたい。宮地嶽古墳の石室は、7世紀の初めに大和朝廷で権勢を振るった大豪族、
蘇我馬子の墓とされる、奈良県明日香村にある
国指定特別史跡〈石舞台古墳〉の長さ約16㍍の横穴式石室より長大で、大岩屋といえる。宮地嶽古墳の副葬品の国宝で、束頭が塊状で復元した刀身の長さが2.6㍍もあるという祭祀用の
金銅装頭椎大刀(こんどうそうかぶつちのたち)も全国で一番長い。宮地嶽古墳は、副葬品の豪華さから〝地下の正倉院〟とも呼ばれ、被葬者は、娘を
天武天皇の后とした
『宗像君徳善(むなかたのきみとくぜん)』と考えられている。
大和の大貴族にも並ぶほどの富と権威を象徴する全国第一級の大石室古墳と、
天皇陵関係の重宝に劣らない宝物が多数出土した宮地嶽古墳は、
宗像君一族の絶大な権勢と繁栄ぶりを物語っている」
清 「それで、〈津屋崎古墳群〉って、いくつの古墳があると?」
琢二 「地表に墳丘を持つ墓である古墳が造られた時代、つまり〈古墳時代〉とは、3世紀後半から7世紀末までの450年間を言うんだな。で、福津市には500基の古墳があるとされている。このうち
5世紀前半から7世紀前半にかけて、玄界灘に面した市北部にある台地の南北7㌔・㍍、東西2㌔・㍍に集中して築かれた古墳を総称して〈津屋崎古墳群〉と呼んでいる。56基が現存しており、うち最も多い円墳が39基、次いで前方後円墳が16基、方墳が1基だ。奴山(ぬやま)の国道495号線東側には、
津屋崎古墳群の中で古墳が最も密集した〈新原(しんばる)・奴山古墳群〉の説明板=写真③:06年10月2日午後0時30分撮影=が建てられとる。米・麦の乾燥施設である〈宗像農協カントリーエレベーター〉の建物周辺の台地東西約800㍍に、発見された円墳53基、前方後円墳5基、方墳1基の計59基のうち今も41基が残っているから、いっぺん見学してこい」
写真③:福津市奴山の国道495号線東側に建つ〈新原・奴山古墳群〉の説明板
清 「あの説明板なら、車の中からチラッと見たことがある。今度、見学に行ってみるよ」
琢二 「
津屋崎古墳群は約200年にわたる地方豪族の首長墓群で、国際性豊かな副葬品から見ても貴重な史跡だな。〈新原・奴山古墳群〉のうち『22号墳』は、全長80㍍の前方後円墳で、海岸沿いにある宗像君一族の古墳の中で古い5世紀前半のものだ。宗像君は、津屋崎を含む宗像地方に勢力を持ち、当時の海上交通を担うとともに、〝
海の正倉院〟と言われる宗像市・
沖ノ島の祭事に深く係わった氏族だな。徳善の娘は
尼子娘(あまこのいらつめ)といい、
天武天皇の第一皇子・
高市皇子(たけちのみこ)を産んだ。高市皇子は、のちに太政大臣になった。宮地嶽古墳から出土した骨臓器の銅壺は、奈良で火葬した尼子娘の遺骨を実家の墓に納められたと見られる。古墳時代は、妃の遺体は実家に返されるから、奈良から運ぶのに火葬したのではないか」
写真④:福津市奴山の台地に造られた古墳群
=06年10月2日午後0時40分撮影
清 「それにしても、なんで津屋崎の台地に多くの古墳を築いたんやろか」
琢二 「古墳時代前期末の4世紀後半に
宗像最古の前方後円墳の〈東郷高塚古墳〉が宗像市の内陸部に造られているから、この時代に権力を持つようになったと考えられる宗像君一族がこの地を墓所に選んだのは、玄界灘に面し、当時は広い入り江にも臨んでいたからだろう。宗像市沖60㌔の玄界灘に浮かぶ海上交通の拠点・沖ノ島で4-7世紀まで行われた祭祀との関わりでも知られる一族は、優れた航海術で大和王権の大陸交渉でも一翼を担っていたからな。やがて、一族は墓所を繁栄の源泉といえる海が見える津屋崎へ移し、津屋崎の古墳をこの台地の北側から造り始め、しだいに南に場所を移し連続して築造した=写真⑤:古墳群の分布地図(福津市作成のパンフレット『国指定史跡 津屋崎古墳群』から、06年10月11日スキャン)=。中でも
巨大な石室を内蔵した宮地嶽古墳は、当事希少だった
瑠璃板(るりいた=鉛ガラス板)や、
金銅透彫冠(こんどうすかしぼりかん)など国宝の豪華な副葬品が出土し、一族の繁栄を物語っている」
清 「津屋崎古墳群の出土品から、古代の人の暮らしも分かるやろか」
琢二 「5世紀ごろ、朝鮮半島北部の高句麗が南部の百済や新羅と何度も戦い、多くの人が朝鮮半島から日本に渡って来た。在自や生家の古墳時代の集落跡から朝鮮半島製の土器が多く出土したことからも、半島の人が渡来したことがうかがえる。また、在自の山すそにある
〈在自剣塚古墳(あらじつるぎづかこふん)〉は、神功皇后が剣を埋めたという伝説があり、
宗像地域で最大規模の全長101.7㍍の前方後円墳で、6世紀後半に造られた。一族が栄華を極めた次代の宮地嶽古墳の築造に繋がる大規模古墳といえ、須恵器の大甕(おおがめ)や高坏形器台(たかつきがたきだい)が出土している。10月11日に古墳を調べに行ったら、草むらから赤マムシがいきなり飛び出して逃げたので、肝を冷やしたぞ」
清 「えー、本当? 噛まれんで良かったね。古墳はマムシが守っとうという話を聞いたことがあるよ。それはそうと、津屋崎古墳群のことは、福津市の人でもあまり知らんちゃないと。このままやったら、宝の持ち腐れになるばい」
琢二 「そう。
津屋崎古墳群は、大和政権と大陸との交流を示す素晴らしい歴史遺産だ。福津市古墳公園建設準備室では、津屋崎古墳群を『古墳公園』として展示室を整備する計画もあるようだが、
国の宝にふさわしい立派な史跡公園にしてほしいな」
写真⑤:広大な台地に多くの古墳が位置する「津屋崎古墳群」の分布地図
◆交通アクセス:〈新原・奴山古墳群〉=福津市奴山。西鉄宮地岳線「津屋崎駅」下車、西鉄バスに乗って「津屋崎駅前」から8分の「奴山口」で下車し、徒歩10分。古墳は国道495号線沿いに点在しており、国道から見ることもできます。
〈新原・奴山古墳群〉の説明板が建っている
福津市奴山の国道495号線付近
(ピンが立っている所)