写真①:講演する田上健一・九大大学院准教授
=福津市津屋崎天神町の市まちおこしセンターで、2009年4月19日午後1時21分撮影
何かが変わる、変える
―「津屋崎千軒 町家まつり」を振り返ってー
(5)田上健一・九大大学院准教授の講演会
福津市の新しいまつり、「津屋崎千軒 町家まつり」で、歴史と建築文化を学ぶイベントの企画第二弾は、4月19日午後1時から開催した田上(たのうえ)健一・九州大大学院芸術工学研究院准教授(建築計画)の講演会です。演題は、「〈津屋崎千軒〉における生活空間の変容と空き家の活用方策」。約50人が聴講、立ち見の人が出るほどでした。
「海とまちなみの会」では08年12月、田上准教授に同行をお願いした調査で、〈津屋崎千軒〉にはよそではあまり見られない「卯建(うだつ)」や「鏝絵(こてえ)」のある町家が、あちこちに残っていることを確認しました。卯建は、仕事などで成果が出せない人を「卯建が上がらない人」という語源になったとされるほど、裕福な家でないと建てられなかったともいわれています。ということは、江戸時代から海上交易で栄えた〈津屋崎千軒〉には「卯建の上がる人」、つまり商人が多かった! といえるのではないでしょうか。
また、〈津屋崎千軒〉の町並みでは、空き町家を活用して津屋崎以外の人が営業するカフェも、「津屋崎千軒 町家まつり」が始まった4月18日に初めてお目見えするなど、町並み活性化に向けて新しい時代を迎えたように思われます。
こうしたことから、「町家まつり」を主催した「津屋崎地域郷づくり推進協議会」と「藍の家保存会」では、〈津屋崎千軒〉の町家=写真②=が歴史的に変わってきた様子や、空き家をどう活用すれば町並みを活性化できるのかなどについて講演会で話していただきたいと、田上准教授を講師にお招きしました。
写真②:〈津屋崎千軒〉通りの「卯建と鏝絵の町家めぐり」ガイドを楽しむ人たち
=福津市津屋崎新町で、4月19日午前10時24分撮影
講演で、田上准教授は〈津屋崎千軒〉の地形と街路の特徴について「千軒通りを境に南北に地形が下がっており、中央の微高地に『教安寺』などの寺社、墓地が確保されている。中央の微高地を除いて一番高い所に街路がつくられ、中央で折れ曲がった形態となった」と話し、スクリーンに標高点を色分けした地形モデルを映写されました。
次に、〈住まい方と住宅の変容〉に触れ、「物置部屋等の確保と上下移動の解消のため通り土間・中庭に床を張って居室化したり、和室と台所、洗面所を水平につないだ〈接続空間確保〉が9件、店舗閉店や家族構成の変化のため通り土間を台所と、壁で仕切られた部屋と廊下へと改築するなど〈個室優先〉が8件あった」などと説明。
明治から昭和初期までに建築し、50年以上たった住宅125軒より抽出して調査した住宅36軒の生業については、商家が24件と最も多く、次いで漁家4軒、農家2軒、大工などのその他6軒の順。土間の形は、32軒中28軒の通り土間が東側に付いており、中庭は「間口7.6から15.2㍍、奥行き11.4から19.0㍍の住宅で所有している割合が高い」と指摘されました。
建物の建ち方を見ると、1階建て、2階建てが中心の低層住宅地で、海岸沿いに3階建て以上の建て物があり、「しおさい通り」より西側の千軒通り沿いに明治から昭和初期に建てられた住宅が分布。地区構成では、「北の一区・北の二区」は漁業中心に発達、「新町区」は漁業中心に発達後、商業の町となり、「天神町区」は職人の町として発達、「岡の二」と「岡の三区」は農業を中心に発達した、と話されました。
街区の変容では、江戸後期までに街区の原型が成立し、江戸後期から明治中期にかけて街区が細分化し、街区構成が完成。昭和20年代から40年代にかけて、海岸沿いの宅地が成立しました。昭和42年に県道「渡・津屋崎線」(海岸道路)が建設されると、海岸沿いの土地が宅地化され、平成13年の「しおさい通り」の建設で〈津屋崎千軒〉の街区は二分されました。
千軒通りだけでなく、表筋から入った所にも立派な家が建っていますが、現在は空き地=写真③=が広範囲にあります。また、調査した住宅645軒のうち空き家が54軒で、空き家率は8.37%と多い。〈津屋崎千軒〉の建物は、敷地の奥行きの長さや、住宅前面の緩衝帯、中庭、隣の家とのすき間・「スアイ」、土間の設置などに特徴があるが、通り土間の多目的活用をはじめ従来の間取りを生かした現在の生活への適応が必要とされており、豊村酒造も改修部分をもう少し調査し、登録有形文化財にしたい建物と言われました。
写真③:シロアリ被害と老朽化のため解体される「旧河崎米屋」。跡地は空き地のまま。
=福津市津屋崎横町で、08年10月4日午前11時27分撮影
福津市民や町興しボランテイアら約50人の聴講者からは、講演で〈津屋崎千軒〉の町並みの特徴や変容ぶりを明解に分析していただいたとして、感謝の弁が述べられました。また、町家や町並みの保存策への質問も出され、田上准教授は「登録有形文化財に登録できそうな建造物も少なくない」と指摘されました。
講演聴講者のアンケート結果では、「講演内容は、とてもよかった。津屋崎のマチについての講演をシリーズで開き、関心や愛着を持つ土壌づくりを続けてほしい」(福津市の女性会社員、31歳)、「地元に住んでいたけれども疑問にも思わなかった所が調べられていて、視点を広げることができて良かった」(同市津屋崎の大学建築学科の女性、18歳)、「今後の〈津屋崎千軒〉の方向性が見えてきました」(同市の公務員女性、50歳)など、興味深く聴いたとの感想が目立ちました。
=福津市津屋崎天神町の市まちおこしセンターで、2009年4月19日午後1時21分撮影
何かが変わる、変える
―「津屋崎千軒 町家まつり」を振り返ってー
(5)田上健一・九大大学院准教授の講演会
福津市の新しいまつり、「津屋崎千軒 町家まつり」で、歴史と建築文化を学ぶイベントの企画第二弾は、4月19日午後1時から開催した田上(たのうえ)健一・九州大大学院芸術工学研究院准教授(建築計画)の講演会です。演題は、「〈津屋崎千軒〉における生活空間の変容と空き家の活用方策」。約50人が聴講、立ち見の人が出るほどでした。
「海とまちなみの会」では08年12月、田上准教授に同行をお願いした調査で、〈津屋崎千軒〉にはよそではあまり見られない「卯建(うだつ)」や「鏝絵(こてえ)」のある町家が、あちこちに残っていることを確認しました。卯建は、仕事などで成果が出せない人を「卯建が上がらない人」という語源になったとされるほど、裕福な家でないと建てられなかったともいわれています。ということは、江戸時代から海上交易で栄えた〈津屋崎千軒〉には「卯建の上がる人」、つまり商人が多かった! といえるのではないでしょうか。
また、〈津屋崎千軒〉の町並みでは、空き町家を活用して津屋崎以外の人が営業するカフェも、「津屋崎千軒 町家まつり」が始まった4月18日に初めてお目見えするなど、町並み活性化に向けて新しい時代を迎えたように思われます。
こうしたことから、「町家まつり」を主催した「津屋崎地域郷づくり推進協議会」と「藍の家保存会」では、〈津屋崎千軒〉の町家=写真②=が歴史的に変わってきた様子や、空き家をどう活用すれば町並みを活性化できるのかなどについて講演会で話していただきたいと、田上准教授を講師にお招きしました。
写真②:〈津屋崎千軒〉通りの「卯建と鏝絵の町家めぐり」ガイドを楽しむ人たち
=福津市津屋崎新町で、4月19日午前10時24分撮影
講演で、田上准教授は〈津屋崎千軒〉の地形と街路の特徴について「千軒通りを境に南北に地形が下がっており、中央の微高地に『教安寺』などの寺社、墓地が確保されている。中央の微高地を除いて一番高い所に街路がつくられ、中央で折れ曲がった形態となった」と話し、スクリーンに標高点を色分けした地形モデルを映写されました。
次に、〈住まい方と住宅の変容〉に触れ、「物置部屋等の確保と上下移動の解消のため通り土間・中庭に床を張って居室化したり、和室と台所、洗面所を水平につないだ〈接続空間確保〉が9件、店舗閉店や家族構成の変化のため通り土間を台所と、壁で仕切られた部屋と廊下へと改築するなど〈個室優先〉が8件あった」などと説明。
明治から昭和初期までに建築し、50年以上たった住宅125軒より抽出して調査した住宅36軒の生業については、商家が24件と最も多く、次いで漁家4軒、農家2軒、大工などのその他6軒の順。土間の形は、32軒中28軒の通り土間が東側に付いており、中庭は「間口7.6から15.2㍍、奥行き11.4から19.0㍍の住宅で所有している割合が高い」と指摘されました。
建物の建ち方を見ると、1階建て、2階建てが中心の低層住宅地で、海岸沿いに3階建て以上の建て物があり、「しおさい通り」より西側の千軒通り沿いに明治から昭和初期に建てられた住宅が分布。地区構成では、「北の一区・北の二区」は漁業中心に発達、「新町区」は漁業中心に発達後、商業の町となり、「天神町区」は職人の町として発達、「岡の二」と「岡の三区」は農業を中心に発達した、と話されました。
街区の変容では、江戸後期までに街区の原型が成立し、江戸後期から明治中期にかけて街区が細分化し、街区構成が完成。昭和20年代から40年代にかけて、海岸沿いの宅地が成立しました。昭和42年に県道「渡・津屋崎線」(海岸道路)が建設されると、海岸沿いの土地が宅地化され、平成13年の「しおさい通り」の建設で〈津屋崎千軒〉の街区は二分されました。
千軒通りだけでなく、表筋から入った所にも立派な家が建っていますが、現在は空き地=写真③=が広範囲にあります。また、調査した住宅645軒のうち空き家が54軒で、空き家率は8.37%と多い。〈津屋崎千軒〉の建物は、敷地の奥行きの長さや、住宅前面の緩衝帯、中庭、隣の家とのすき間・「スアイ」、土間の設置などに特徴があるが、通り土間の多目的活用をはじめ従来の間取りを生かした現在の生活への適応が必要とされており、豊村酒造も改修部分をもう少し調査し、登録有形文化財にしたい建物と言われました。
写真③:シロアリ被害と老朽化のため解体される「旧河崎米屋」。跡地は空き地のまま。
=福津市津屋崎横町で、08年10月4日午前11時27分撮影
福津市民や町興しボランテイアら約50人の聴講者からは、講演で〈津屋崎千軒〉の町並みの特徴や変容ぶりを明解に分析していただいたとして、感謝の弁が述べられました。また、町家や町並みの保存策への質問も出され、田上准教授は「登録有形文化財に登録できそうな建造物も少なくない」と指摘されました。
講演聴講者のアンケート結果では、「講演内容は、とてもよかった。津屋崎のマチについての講演をシリーズで開き、関心や愛着を持つ土壌づくりを続けてほしい」(福津市の女性会社員、31歳)、「地元に住んでいたけれども疑問にも思わなかった所が調べられていて、視点を広げることができて良かった」(同市津屋崎の大学建築学科の女性、18歳)、「今後の〈津屋崎千軒〉の方向性が見えてきました」(同市の公務員女性、50歳)など、興味深く聴いたとの感想が目立ちました。