写真①:大勢の聴講者を前に熱っぽく講演する麦野裕さん
=福津市津屋崎天神町の市まちおこしセンターで、2009年4月18日午前11時53分撮影
何かが変わる、変える
―「津屋崎千軒 町家まつり」を振り返ってー
(4)「麦屋惣平衛」邸当主・麦野裕さんの講演会
福津市の新しいまつり、「津屋崎千軒 町家まつり」で、歴史と建築文化を学ぶイベントとして企画したのが、「福津市まちおこしセンター」で4月18日と19日、2日連続で開催した二つの講演会です。「津屋崎千軒 海とまちなみの会」が、運営に当たりました。
18日午前11時30分から開催したのが、福津市津屋崎門前にある卯建(うだつ)の建つ2階建て町家「麦屋惣平衛」邸当主・麦野裕(ゆたか)さん(本籍・福津市津屋崎、千葉県在住)の講演会です。演題は、「明治40年、塩木で建てた家の移転保存」で、聴講者が約80人と多く、立ち見の人が出るほどでした。
「町家まつり」のキャッチコピー、「そうつこう! 『うだつ』と『こて絵』の残る路地」に援用した、よそではあまり見られない「卯建」のある町家7軒の代表格といえる「麦屋惣平衛」邸は、百年以上もてるように建てられたいきさつが、講師の麦野さんから熱く語られました=写真①=。
「麦屋惣平衛」邸は、麦野さんの曽祖父・乙松さんが明治40年(1907年)に建築=写真②=。乙松さんは、旧宗像郡赤間村(現宗像市赤間)で生まれ、18歳の時、代用教員として津屋崎小学校に赴任、のちに津屋崎町議になられた方です。以前の家が津屋崎の大火で類焼したため、焼けにくいように窓がない防火対策の土蔵造りの家の新築を目指し、同38年から在自山から松を切り出すなどして材木の購入を始め、防火、防虫効果を持たせるため、丸太や板を塩水に浸けた「塩木」にして建築材に充てたという。建築材料の購入費などの資料は、「普請買入帳」に記録、大事に保管されています。
写真②:移転前の「麦屋惣平衛」邸(人物左側の2階建て)を描いた旧津屋崎町街並み保存協議会事務局長・柴田治氏の絵画『門前の道』(右側は「教安寺」)
=富美子夫人(「津屋崎千軒 町家まつり」主催団体・「藍の家保存会」代表)提供
平成7年(1995年)、「市街地活性化に不可欠な道路」だとして都市計画道路(現「しおさい通り」)が建設される際、塩木の家を壊さずジャッキで持ち上げ=写真③=、11㍍の距離を90度右回転して引っ張り、移転保存。「塩木の家の建築は、庶民の歴史で先輩の知恵でもあり、私たちの誇り。〈市街地活性化に不可欠〉という理由での道路整備で家を移転させられたが、その結果、市街地が活性化されたでしょうか。道路が拡張され、潮風が浜から吹き抜けるようになりました」と麦野さん。
写真③:移転のためジャッキで持ち上げられた「麦屋惣平衛」邸
=麦野裕さんの講演会場でスクリーンに映写された写真から
麦野さんは「津屋崎の風景、まちなみが、いとおしい。玄界灘や宮地嶽神社などを見ると、胸がいっぱいになる。津屋崎の海岸は以前、綺麗な砂浜でした。街が汚いと、人は逃げていく。津屋崎は環境保全を十分配慮した町興しをしてほしい、と思います。津屋崎の言い伝え、伝説も皆好きです。土地の名前は重要で、津屋崎は神郡の宗像郡にあることに意味があったのに、合併して福津市になったのでは何のことか分らない。大字も消えて津屋崎何丁目などに勝手に書き換えられている。地名に誇りを持つべきなのに、怒りを覚えます」と郷土を愛され、津屋崎の歴史、文化、自然の素晴らしさを誇りにしたいと話されました。
麦野さんの祖父麦野時雄さんは、第12代津屋崎町長を務め、津屋崎の玄海国定公園指定や水産高校誘致、西鉄宮地岳線の津屋崎駅までの延長に貢献されました。
麦野さんの講演聴講者のアンケートからは「津屋崎に大変な思い入れが強いお人だと思い、感激しました。古里は変化させてはいけないと思いました」(福津市津屋崎の主婦、67歳)、「津屋崎に残されている大切な物が、たくさんあることがわかった。これを町おこしに生かしたい」(同市宮司の無職男性、67歳)、「津屋崎のことが学べて、とてもよかった」(筑紫野市の大学教員男性、57歳)などの感想が寄せられています。
=福津市津屋崎天神町の市まちおこしセンターで、2009年4月18日午前11時53分撮影
何かが変わる、変える
―「津屋崎千軒 町家まつり」を振り返ってー
(4)「麦屋惣平衛」邸当主・麦野裕さんの講演会
福津市の新しいまつり、「津屋崎千軒 町家まつり」で、歴史と建築文化を学ぶイベントとして企画したのが、「福津市まちおこしセンター」で4月18日と19日、2日連続で開催した二つの講演会です。「津屋崎千軒 海とまちなみの会」が、運営に当たりました。
18日午前11時30分から開催したのが、福津市津屋崎門前にある卯建(うだつ)の建つ2階建て町家「麦屋惣平衛」邸当主・麦野裕(ゆたか)さん(本籍・福津市津屋崎、千葉県在住)の講演会です。演題は、「明治40年、塩木で建てた家の移転保存」で、聴講者が約80人と多く、立ち見の人が出るほどでした。
「町家まつり」のキャッチコピー、「そうつこう! 『うだつ』と『こて絵』の残る路地」に援用した、よそではあまり見られない「卯建」のある町家7軒の代表格といえる「麦屋惣平衛」邸は、百年以上もてるように建てられたいきさつが、講師の麦野さんから熱く語られました=写真①=。
「麦屋惣平衛」邸は、麦野さんの曽祖父・乙松さんが明治40年(1907年)に建築=写真②=。乙松さんは、旧宗像郡赤間村(現宗像市赤間)で生まれ、18歳の時、代用教員として津屋崎小学校に赴任、のちに津屋崎町議になられた方です。以前の家が津屋崎の大火で類焼したため、焼けにくいように窓がない防火対策の土蔵造りの家の新築を目指し、同38年から在自山から松を切り出すなどして材木の購入を始め、防火、防虫効果を持たせるため、丸太や板を塩水に浸けた「塩木」にして建築材に充てたという。建築材料の購入費などの資料は、「普請買入帳」に記録、大事に保管されています。
写真②:移転前の「麦屋惣平衛」邸(人物左側の2階建て)を描いた旧津屋崎町街並み保存協議会事務局長・柴田治氏の絵画『門前の道』(右側は「教安寺」)
=富美子夫人(「津屋崎千軒 町家まつり」主催団体・「藍の家保存会」代表)提供
平成7年(1995年)、「市街地活性化に不可欠な道路」だとして都市計画道路(現「しおさい通り」)が建設される際、塩木の家を壊さずジャッキで持ち上げ=写真③=、11㍍の距離を90度右回転して引っ張り、移転保存。「塩木の家の建築は、庶民の歴史で先輩の知恵でもあり、私たちの誇り。〈市街地活性化に不可欠〉という理由での道路整備で家を移転させられたが、その結果、市街地が活性化されたでしょうか。道路が拡張され、潮風が浜から吹き抜けるようになりました」と麦野さん。
写真③:移転のためジャッキで持ち上げられた「麦屋惣平衛」邸
=麦野裕さんの講演会場でスクリーンに映写された写真から
麦野さんは「津屋崎の風景、まちなみが、いとおしい。玄界灘や宮地嶽神社などを見ると、胸がいっぱいになる。津屋崎の海岸は以前、綺麗な砂浜でした。街が汚いと、人は逃げていく。津屋崎は環境保全を十分配慮した町興しをしてほしい、と思います。津屋崎の言い伝え、伝説も皆好きです。土地の名前は重要で、津屋崎は神郡の宗像郡にあることに意味があったのに、合併して福津市になったのでは何のことか分らない。大字も消えて津屋崎何丁目などに勝手に書き換えられている。地名に誇りを持つべきなのに、怒りを覚えます」と郷土を愛され、津屋崎の歴史、文化、自然の素晴らしさを誇りにしたいと話されました。
麦野さんの祖父麦野時雄さんは、第12代津屋崎町長を務め、津屋崎の玄海国定公園指定や水産高校誘致、西鉄宮地岳線の津屋崎駅までの延長に貢献されました。
麦野さんの講演聴講者のアンケートからは「津屋崎に大変な思い入れが強いお人だと思い、感激しました。古里は変化させてはいけないと思いました」(福津市津屋崎の主婦、67歳)、「津屋崎に残されている大切な物が、たくさんあることがわかった。これを町おこしに生かしたい」(同市宮司の無職男性、67歳)、「津屋崎のことが学べて、とてもよかった」(筑紫野市の大学教員男性、57歳)などの感想が寄せられています。