とっちーの「終わりなき旅」

出歩くことが好きで、趣味のマラソン、登山、スキーなどの話を中心にきままな呟きを載せられたらいいな。

「伝説が語る民俗芸能」八木洋行さん

2013-08-30 22:15:15 | 社会人大学
このところ疲れ気味で早く家に帰って休みたい気分だったが、社会人大学だけは無理してでも聞こうと思って出かけていった。行ってみたら、いつの間にか当初予定していた講師が変わっていて、民俗学者の八木洋行さんだった。八木洋行さんといえば、静岡県では有名な人だ。何故かといえば、毎週日曜日の夕方SBS静岡放送のラジオ番組で放送されている「すっとんしずおか昔話」の案内人だからだ。足かけ26年、放送回数は1250回を超える長寿番組にずっと携わってきているというから、この名前を聞いたことのある人はかなり多いはずだ。ラジオで声を聞いたことはあったが、本人を見るのは初めてだったが、身振り手振りで楽しいお話を聞かせてもらい楽しく時間を過ごすことができた。

話は、遠州地方には槇囲いの家が多いという話から始まった。これは所謂「遠州の空っ風」を防ぐためのもので、特に西側を高くしているという話だ。因みに、槙の木の実のことを遠州地方では「やぞうこぞう」と呼ぶが実は「やぞうこぞう」と呼ぶのは大井川を境にして西の遠州地方だけだという。この空っ風は、大陸から渡ってきた風が伊吹山を抜け遠州まで届いているという。そして焼津の高草山に当って駿河湾に出て、西伊豆の海岸まで達する。そのため高草山の東の靜岡には空っ風は吹かないという。

さて、ここから風の名前の語源の話となり、遠州の空っ風は冬の西風をいうが、濃尾、三河では「弥三郎の風」、あるいは「弥三郎婆さんの風」と言われている。昔は遠州地方でも同じように言われていたが、遠州に繊維工業が発展し、上州から働きに来た人たちが自分たちの住んでいた場所と同じような冷たい風が吹くということで「空っ風」という呼び方をしたことから「弥三郎の風」という名前は廃れ、もっぱら遠州の空っ風と呼ばれるようになったという。

ところで「弥三郎の風」と呼ぶのは何故かというと、伊吹山の山の神が弥三郎婆さんだったかららしい。風は、婆さんが吹き下ろすといわれていた。実は伊吹山山麓には鉄を生産する職人集団がいて、冬の空っ風をふいごの代わりにして鉄を吹いたと伝えられている。その集団は、昔は出雲の安来あたりから流れてきた職人たちらしい。安来節のドジョウすくいの原型は、砂鉄取り作業だったという。つまりドジョウは「土壌」だったのかもしれないといのは面白い話だ。

風の名前には、何故か三郎とつくことが多い。「風の又三郎」も然りだ。元はといえば「寒い」→「サブイ」→「三郎」と変化していったのが語源のようだ。また、「弥三郎の風」が吹き始める初冬に、その風が通る槙の生垣に実る実を「弥三郎の小僧」と呼んだのが、なまって「やぞうこぞう」になったというのもなかなか面白い。

さて、遠州の空っ風は何時から何時まで吹くかというと10月から5月までだという。浜松では5月の連休中凧揚げ大会が開催されるが、この空っ風が5月まで吹くからだ。風がなくては凧は上がらないから、季節の変化を知るうえで民俗芸能は大事なものかもしれない。

その後も、地域によって異なる文化の話がいろいろ紹介された。いくつか挙げてみよう。
・おむすびの形は、大井川より東は丸で、西は三角だった。ただ、最近はコンビニが増えてどこの地域でも三角が増えてしまった。
・納豆の糸をひくのが好まれるのは、大井川より東。
・そばうどんと表示されるのは静岡で、うどんそばと表示されるのは浜松。これも大井川を境とする。
・ウナギのさばき方は、西では腹から、東で背中から。浜松はどちらでも。
日本の文化の違いって、結構大井川を境にしていることが多いようだ。江戸時代、大井川には橋をかけたり船を渡すことを禁じていたことが大きな要因で、人の交流が少ないことで文化の伝承も途切れてしまっていたのであろう。これって重要なことで、ちょっとした壁があるだけで文化の交流が途絶えてしまうのが顕著に表れた例だともいえる。国家間同士でも同じような問題が、潜んでいるといえるだろう。

他にも、砂浜のある地域に住む人たちと、砂浜がない地域に住む人たちでは、ウミガメに対する接し方が違うという話や遠州大念仏の起源、秋葉燈の意味などいろいろ面白い話があった。こういった民俗学の話っていろいろ聞くと興味深いものだ。