とっちーの「終わりなき旅」

出歩くことが好きで、趣味のマラソン、登山、スキーなどの話を中心にきままな呟きを載せられたらいいな。

ブログ開設2周年

2010-11-30 22:22:15 | ブログ
今日は、このブログを開設して2周年になる。
365日×2で730日目となった。
グリムスでも、バースディケーキが登場している。

今日は、特別ネタがなかったが、バースディケーキで気がついた。
これからも、頑張って更新を続けていくつもりだ。

2010京都紅葉見物

2010-11-29 22:23:43 | 観光
大文字山から下山すると、法然院に出てしまった。当初は、銀閣寺の下に下りるはずだったが道を間違えてしまったようだ。銀閣寺には、それほど遠くないのでまずは法然院を見学することにした。

法然院(ほうねんいん)は、浄土宗系の寺院であり、正式な寺名は、善気山法然院萬無教寺と号するが、法然院で名が通っている。茅葺で数奇屋造りの山門は、いい趣がある。門越しの紅葉がいい感じである。


法然院には、谷崎潤一郎、河上肇、九鬼周造などの著名な学者や文人の墓が数多くあるそうで有名らしい。山から下りてきたら、大勢の観光客が押し寄せていた。境内にある池には落ち葉がたくさん浮いている。これもいい被写体になる。



水溜りの中に落ち葉が沈んでいるが、落ちてきた水滴により波紋が広がり面白い写真が撮れた。


法然院を出て、銀閣寺に向かう。細い路地を、人力車のお兄さんが駈けていった。


銀閣寺に着くと、さすがに観光客の数は半端じゃない。拝観の受付が既に行列となっていた。それでも、まだ早い時間だったようで10分ほどで受付を済ますことが出来た。銀閣寺は正式には慈照寺(じしょうじ)という。臨済宗相国寺派の寺院で、銀閣と呼ばれる観音殿は、足利義政が鹿苑寺の金閣舎利殿を模して造営した楼閣建築である。


「銀閣」の屋根の上には鳳凰が置かれている。この鳳凰は「銀閣」に祀られている観音菩薩を守るという意味があるという。望遠レンズで枝越しに撮影してみた。


「銀閣」の東側に、白砂を敷きつめ表面に縞模様をつけた「銀沙灘(ぎんしゃだん)」が広がっており、その隅の銀閣寄りのところに白砂を円錐状に盛り上げ、頂部を水平にした富士山状の「向月台」がある。見事な砂の造形である。


窓越しに「銀沙灘」を眺める。


国宝の東求堂(とうぐどう)。


銀閣寺を出たところにあったシュークリーム屋で美味しいシュークリームをほうばる。


そして、銀閣寺から南禅寺に至る水辺の道を歩く。この道は、京都の哲学者、西田幾多郎やその弟子が思索にふけりながら散歩していたことから「哲学の道」と命名されている。


この時期は、紅葉を見ながら散策するにはいい小路である。大勢の観光客が歩いていた。



しばらく「哲学の道」を歩き、永観堂(えいかんどう)に寄ることにした。ここのことは、知らなかったのだが、同行者で京都に詳しい人が本尊の「見返り阿弥陀」は必見であるというので寄る事にしたのだ。永観堂は通称で、正式には禅林寺(ぜんりんじ)という。また、この寺は紅葉の名所として知られ、「秋はもみじの永観堂」といわれるほどもみじが際立って美しい寺院だった。



永観堂にも白砂の庭園があった。


池や沢沿いのもみじも見事だ。



もみじやイチョウの葉が絨毯のように敷き詰められた庭




永観堂の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿の像である。永保2年(1082年)、当時50歳の永観が日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言ったという。本寺の阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという。珍しい阿弥陀如来像を拝観できてとても良かった。


お寺めぐりも疲れるものだ。最後は、南禅寺の三門だけ見て帰る事にした。南禅寺は高校3年の冬に来て以来だ。湯豆腐を食べて帰ったのが懐かしい。三門は日本三大門の一つに数えられるというだけあって見上げるほどでかい。


三門越の紅葉を撮りたかったのだが、人が多くてなかなかいいショットが撮れない。11月最後の日曜日の午後だ。観光客もピークに達していた。



南禅寺を出て、駅へ向かう。相変わらず観光客が多い。


レンガ造りの隧道を抜けて大通りに出た。


地下鉄の蹴上駅に着く。ここから山科駅まで帰り、駐車場に戻って帰宅となった。


山科駅に着いたのは午後2時過ぎでまだ時間としては余裕があったが、帰りの高速道路の渋滞が心配だったので、早々に帰ることにしたのだ。おかげで、帰りもそれほどの渋滞に嵌ることもなくほぼ順調に帰宅する事が出来た。山をはじめ朝早く行動したほうが、何事においても効率的だ。


2010京都:大文字山登山

2010-11-28 22:04:13 | 山登り
今週は京都の山に登山である。今週末は、紅葉の最大の見頃になりそうなこともあり大混雑が予想されたので、前日夜立ちで出発した。大津SAで仮眠をとって午前7時過ぎには、山科駅前公共駐車場に到着した。幸いなことに、駐車場はまだガラガラだった。


駅東側の歩行車道を通り、京阪線の南側に出て、踏切を渡る。


しばらく住宅街を真っ直ぐに北上する。まだ朝早いので静かな人通りだ。


住宅街の真ん中に「瑞光院」という小さな寺院を見つける。案内板を見ると、赤穂浪士の遺髪が埋葬されており忠臣蔵にゆかりのある寺院だった。


橋を渡ると、毘沙門堂門跡に着く。


毘沙門堂への階段を上がる。毘沙門堂は京都七福神の一つで、枝垂れ桜の名所として知られているそうだ。


しかしこの時期は、紅葉も素晴らしい。いくつも絵になる撮影スポットがあった。いつの間にか辺りにはたくさんのカメラマンが集まっていた。



毘沙門堂を過ぎ、沢沿いの道を進む。沢沿いにも紅葉の美しい場所が見られた。


次第に高度が増してくると、紅葉した樹木は少なくなり、常緑樹が立ち並ぶ林の中に入っていく。小さな沢が流れ、木漏れ日が差し込む林も気持ちがいい。




急坂を登りきると尾根道に出る。平坦路が続き、東山トレイルの分岐を大文字山方向に進む。山科駅からほぼ2時間ほどで大文字山山頂(466m)に到着する。ここからの京都市内の展望は素晴らしい。京都タワーもよく見える。



雑木林の尾根道を下っていくと15分ほどで大文字焼きの火床に着く。大の字の頂点に当る部分で、ここからの京都市内の展望も素晴らしい。ここで、トン汁などを作り景色を見ながら休憩をする。



少し下ると、弘法大師を祭る祠がある。


そしてこの辺りが、大の字の一に当る部分の火床となる。



火床の真ん中を下る。


振り返ると、大という字がなんとなく見えた。8月15日の夜は、この火床で真っ赤に炎が燃え上がるのだろう。


黄葉した樹もきれいだ。


落ち葉が降り積もった山道をどんどん下る。



1時間ほど歩くと銀閣寺手前の法然院に着いた。ここからは、登山というよりはお寺めぐりである。静かな山と打って変わり、観光客でごったがえする下界へと戻った。
続きは明日へ。

またもや植林対象のグリムスが…

2010-11-27 21:33:33 | エコ
しばらく前にグリムスからメールが来ていた。

とっちー 様
こんにちは、グリムスプロジェクトチームです!
お待たせしました。
とっちー 様のグリムスが、次回の植林対象となります。

●次回のスケジュール
-場所:ブルキナファソ国中央北部州バム県バディノゴ村
-日時:2010年11月
-樹種:一般樹種…ユーカリ、ミモザピグラ
果樹…マンゴー
-本数:1,000本

場所を見ると、ブルキナファソ国とある。どうも聞いたことない名前の国だ。全然心当たりにない名前だったのでWikipediaで調べてみた。

ブルキナファソ (Burkina Faso)は、西アフリカに位置する共和制国家。北にマリ、東にニジェール、南東にベナン、トーゴ、南にガーナ、南西にコートジボワールと国境を接する。首都はワガドゥグー。第二次世界大戦後フランスから離れ非同盟路線を歩み、東側諸国と友好を築いたが、1987年以降はフランスとの関係を最重視している。旧国名はオートボルタ(上ボルタ)だったが、1984年に現在の国名になった。

ボルタという名前は聞いたことがある。アフリカの国々はあまり日本人には馴染みがない。テレビや新聞でもアフリカの報道はあまりない気がする。日本人の目はアメリカ、ヨーロッパ、中国、韓国、北朝鮮辺りしか見てないようだ。もっと世界の国々のことを知る事が必要かもしれない。

さて、植樹は11月とのことだったので、もう終わったのだろうか。そのうちレポートが発表されるはずなので待つことにしよう。


村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」

2010-11-26 21:03:30 | 読書
走ることについて語るときに僕の語ること
村上 春樹
文藝春秋



村上春樹氏が、走る人らしいというのは知っていたが、この本を読んで本格的マラソンランナーだったと知って、大いに親しみを感じる作家になった。村上氏は、フルマラソンには数十回の完走経験を持ち、100キロウルトラマラソンの経験もあるバリバリのランナーであったのだ。しかも、トライアスロンも何度も経験しており、まさに走る小説家であった。

この本では、読者に走ることを勧めているわけではなく、村上氏が走ることについて自分はこんなふうに考えているよというエッセイである。世界に注目を浴びるような作家が、ここまで、自分の気持ちを表したエッセイ集を出していることは珍しいことかもしれない。テレビや雑誌とかあまり素顔をさらさないような人らしいが、この本では、走っている写真が何枚も掲載され、初めて素顔を知ることも出来た。

内容は、ランナーであれば、「そうだそうだ」と共感することばかりだ。前書きにはこんなことが書かれている。

「Pain is inevitable. Suffering is optional」
「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」(和訳)という言葉について

たとえば走っていて「ああ、きつい、もう駄目だ」と思ったとして、「きつい」というのは避けようにない事実だが、「もう駄目」かどうかはあくまで本人の裁量に委ねられることである。この言葉は、マラソンという競技のいちばん大事な部分を簡潔に要約していると思う。

これは、ある外国人ランナーが走りながら呟いていた言葉らしいが、この言葉に共感できるなんてまさしくランナーである。私もまったく同じ思いになる。もう駄目だと思えば何時でもやめられるし、行こうと思えば何とかなってしまう。それがマラソンの奥深いところだ。決めるのは全て自分なのだ。

普段の練習も、毎日10キロを走り週70キロを目標に走っていたという。月間300キロ前後をコンスタントに走っていたというから、走ることにも半端じゃないことが良くわかった。初めて出場した100キロマラソンは、1996年のサロマ湖ウルトラマラソンだったそうだが、驚くことにこの年の大会は私が初めて参加した100キロマラソンでもあった。タイムこそ違えど、同じ日に同じコースを同じような思いで走っていたのだ。村上氏と同じ舞台を走っていたことを知り、不思議な気持ちになった。

最後のあとがきには、

これまで世界中の路上ですれ違い、レースの中で抜いたり抜かれたりしてきたすべてのランナーにこの本を捧げたい。もしあなた方がいなかったら、僕もたぶんこんなに走り続けられなかったはずだ。

と書かれていた。ランナー目線で書かれた「走ることについての語り」は、一流の小説家が書くとこんなにもうまく表現できるのかと感心する。ランナーには、お勧めしたい1冊だ。







有森裕子さん『よろこびを力に・・・』

2010-11-25 23:25:03 | スポーツ
浜松経済クラブ主催による講演会が昨日あった。講師は、元マラソンランナーでありオリンピックメダリストの「有森裕子」さんである。『テーマはよろこびを力に・・・』ということでマラソンを通して得た思いを熱く語ってくれた。

有森裕子さんは、日本人にとっては忘れることの出来ない有名なマラソンランナーである。テレビはもちろん、いろんな大会でもゲストランナーで出場し何度も見ている。個人的には、15年前韓国の済州島マラソンに出場した際、ホテルのエレベーターで偶然小出監督と一緒にいた有森さんと話をしたことがある。まったくの初対面と言うわけではないが、今回の講演を聞いて、すごい努力家で粘りと根性のある熱い気持ちを持った人だったというのが良くわかった。講演は、生まれた時からメダリストになるまでのエピソードを交えながら90分熱のこもった話が続いた。

彼女は、岡山県で生まれた。出生時は、股関節が外れたままだったいう。母親が早いうちにおかしいと気づき、しかるべき処置をしたおかげで普通に歩けるようになったそうだが、その影響で、歩行能力は人より劣りよく転んだりして怪我が絶えなかったそうだ。そんなこともあり、子供時代は絵画や手芸が好きな子だったという。学校では、得意なものが見つけられず劣等感にさいなまれる日々を過ごしていたらしいが、ある日自分を理解してくれる先生に出会ったことで人生が変わったという。その先生の言葉で、自分が欠点だと思っていたことが欠点ではなくなることを知る。「私は私でいいんだ」という思いが湧き出し、その先生が顧問をしている陸上部に入ったのが、スポーツへの道に入ったきっかけだったのだ。

有森さんのすごいところは、来たものに対して全力で立ち向かうという気持ちだ。中学時代は、運動会で誰も出場しない800mに進んで出場し3年間この種目では誰にも負けたことがなかったそうだ。とにかく諦めずに続けることが大事だという。いくつもは無理だが1つでいいので、一生懸命になれば難しい事ではないのだ。

そして、中学を卒業し高校に入る。高校でも走ることで自信を持つため陸上部に入ろうとするが、名門校であるこの陸上部には簡単に入部させてもらえなかったそうだ。中学時代、運動会で優勝した程度くらいの実績では、顧問がまったく相手もしてくれなかったようだ。しかし、ここで簡単に諦める有森さんではなかった。とにかく顧問に顔を覚えてもらうよう顧問の立ち回り先に何度も出没し粘ること半年。さすがの顧問も呆れて入部を許可したそうだ。99%無理と思っても、1%の可能性があればそれに向かって頑張る。駄目なら自分が納得できるまで粘り強くやることが大事だという。なかなか、そこまで頑張れる人はいないものである。しかし、頑張って入部した高校の陸上部でも彼女は万年補欠で終わってしまう。

高校でも泣かず飛ばずで終わった彼女は、もう陸上はやめようという気になってしまっていたが、高校の顧問の先生の「しんぼうせい」という言葉に踏みとどまった。3年間、彼女をいい舞台に出場させることが出来なかったことを顧問の先生も気にしていたのだろう。大学でも陸上を続けられるよう、先生が推薦状を書いてくれ日体大に入学する。だが、大学でもそれほど実績はあげられず無名の補欠同様の選手で終わってしまう。それでも彼女は、頑張って粘った。じっと我慢し自分を信じて頑張ったのだ。大学卒業後も、実業団入りを目指し、持ち前の粘りでリクルートにアタックする。これが小出監督との出会いだったそうだ。小出監督も彼女の実績がないことに驚きながらも、やる気があることを感じ取ったのだろう。並み居る有力選手の中に彼女を入れることを認めたのである。やる気があったからこそ、よい指導者の下で大きく変わっていったのだ。

そしてあとは多くの人が知ってのとおり、バルセロナ五輪で銀メダル、アトランタ五輪では銅メダルという記録を打ちたて国民的マラソンランナーになったのである。とにかく最初から最後まで、水も飲まず熱き口調で語る有森さんの話には元気付けられた。

マラソンで学んだこと。「全て一日で力を発揮するのがマラソン。明日がわからないから今日を頑張る」という言葉が印象的だった。

追記:バルセロナ五輪でのエピソード。沿道からの「アニモ、アニモ!」の声援がニックネームの「あんも」に聞こえて、海外でもこんなに応援してくれているのかと勘違いして頑張ってしまったという。「アニモ」とはスペイン語で頑張れという意味らしい。それに因んで岡山には、有森裕子記念館「アニモ・ミュージアム」があるそうだ。






読みたい本が溜まってきた

2010-11-24 23:56:01 | 呟き
昨日のニュース速報には、ビックリした。韓国の住宅に、北朝鮮から砲弾が打ち込まれ延焼中という報道で、ついに朝鮮戦争勃発かと背筋が寒くなる思いだった。日本と中国の対立、北朝鮮と韓国の対立とアジアでは不穏な空気に満ち満ちている。日本の平和は何時まで続くのか?不安な時代がやってきた。

しかし、そんなことは遠い世界のことのように、私の周りでは、まだいつもどおりの時間が流れている。最近、東野圭吾の小説を読み始めているが、彼の本は長編ばかりなので1冊読み終えるには、結構時間がかかる。本読みは早いほうのつもりだが、本ばかり読んでいる訳にもいかず、寝る前の30分程度しか時間を割けない。

「白夜行」は読み終えたが、「幻夜」はまだ1/3くらいだ。しかも、ドラマも始まりそちらも見てみたい。そして、図書館で予約した本も、立て続けに届いてしまった。以前ドラマで見た高村薫の「マークスの山」と見切り発車さんお勧めの高村薫の「照柿」、おまけに村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」も借りてしまった。図書館の期限は2週間だが、全部読み終える時間があるか心配だ。


映画「劔岳・撮影の記」 標高3000メートル、激闘の873日

2010-11-23 23:10:03 | 映画
これは、2009年の夏、大ヒットした映画「劔岳・点の記」の撮影スタッフの記録映画である。本編は映画館で見たしDVDまで買ってしまっていたが、「劔岳・撮影の記」は映画館で見ることができなかったので、気になっていた。ところが先日WOWOWで放送があると知って、早速予約録画して全編を見ることができた。

「劔岳・点の記」は、明治時代日本地図完成に人生を賭けた測量隊の真実を描いた作品で、セットなど使わずリアリズムを前面に打ち立て、ここまでやるのかといった程の過酷な状況で撮影されている。撮影がすごい映画ということで大いに注目を浴びただけに、映像は素晴らしい。また過酷な自然もリアルに描かれている。「劔岳・撮影の記」では、「前人未踏の撮影」に賭けたスタッフ・キャストの標高3000メートル、激闘の873日の記録が、明らかにされている。

この作品の監督、撮影は『剱岳・点の記』のディレクターである大澤嘉工である 。企画から宣伝まで陣頭指揮した監督・木村大作の肉声を始め、全てのスタッフが黙々と北アルプスの高地で撮影に挑んでいる姿は、まさに感動ものだ。ところどころにキャストの浅野忠信、香川照之、松田龍平、仲村トオルらの生の声も入り、山での撮影の厳しさを垣間見ることが出来る。

登山経験のないスタッフ・キャストたちが、わずか数カットの撮影の為に毎日数十キロの荷物を背負い、長時間の徒歩行軍を繰り返す姿は、まさに苦行である。撮影は、順撮りにこだわり目的の剱岳山頂に登頂できたのは、本当に最後の最後だったそうだ。明治時代の測量隊が実際に経験したことをなぞる様に撮影することで、キャストの演技が時間を経過するたびにリアルになっていくことを狙ったのだろう。吹雪に行く手を遮られたり、強烈な風雨にさらされたりしながらも、目的のカットを撮るために何日も待つこともあったようだ。膨大な時間や労力と忍耐で作られた映画といってもいい。

撮影中には、落石で怪我をした人や、体を痛めやむなく下山した人もいたようだ。山岳ガイドがついて指導もしていたようだが、ガイドでも無茶だと言わせるような危険な場所を選んでカメラを設置したりする等、命をかけた撮影だったのが良くわかる。単なる映画製作といえない過酷な2年間の撮影ドキュメントに、あらためて映画『剱岳・点の記』の凄さを実感した。

辻井いつ子さん講演「明るく、楽しく、そして諦めない」

2010-11-22 21:44:16 | 社会人大学
社会人大学の卒業式記念講演は、ピアニスト辻井伸行さんの母である辻井いつ子さんが講師だった。プロフィールを簡単に紹介する。

■プロフィール
1960年(昭和35年)、東京に生まれる。東京女学館短大卒業後、フリーのアナウンサーとして活躍。1986年、産婦人科医の辻井孝と結婚。1988年に生まれた長男・伸行が生後まもなく全盲とわかり、絶望と不安のなか、手探りで子育てをスタート。持ち前の積極性と行動力で伸行の可能性を引き出した。子育てに悩む親御さんが集まって、意見交換をするサイト「辻井いつ子の子育て広場」を開設。自分の経験が少しでお役に立てればと各地で講演活動も行う。

講演は、1時間ほどであったが、全盲で生まれた息子がプロのピアニストになるまでの涙あり笑いありの苦闘の物語を淡々と話してくれた。アナウンサーだっただけに話は滑らかで、嫌味もなく情景が目に浮かぶような話に、ずっと引き込まれた。

初めての出産だったが、1日目で息子の目がおかしいということがわかったそうである。他の子供は、しっかり目を開けて母を見ているのに、自分の息子だけは何時までも目を閉じたままで、母親の直感でおかしいと思ったそうだ。その後、いろいろ検査した結果、生まれながらに全盲で生まれた子だとわかる。初めての子が、障害を持って生まれたことを知った時は、母として耐え難い辛い気持ちになっただろうと推察する。

しかし、辻井さんは、そこでめげなかった。子育ては80%母親の役目と思い、片っ端からいろんな本を読んだそうだ。いろんな本の中で「フロックスはわたしの目」―盲道犬と歩んだ十二年―の著者と出会ったことにより、普通の子と同じように育てることがいいと知り、気持ちが楽になったという。

ただ、普通の子として育てるということは簡単ではない。自然の美しい場所、買い物、人ごみの中などいろんな場所へ息子を連れて行った。そこの様子を言葉で伝えたり、触らせたりして色のイメージを育てたという。そんな経験をつませることで、海のブルーが好きだと息子が話した時は、感激したそうだ。息子の頭の中に、母が頭に浮かべた色のイメージが見事に伝わったのだろう。

そして、生後八ヶ月で息子に音楽の才能があることに気づく。息子は、ショパンの「英雄ポロネーズ」のCDが好きで、音楽をかけると手足をばたばたさせて喜んでいた。だが、CDが壊れ、別の演奏家の同じ曲のCDを買ってきてかけたが全然喜ばない。もしかしてと思い、まったく同じCDを買ってきてかけると前と同じように喜んだと言う。この時、息子は演奏者を聞き分ける耳を既に持っていたのである。

辻井さんは、ハンディを持った子には好きなことをやらせたいと思い、特別親のほうから押し付けるようなことはしなかったそうだ。息子が音楽を好きなことがわかり、おもちゃのピアノを与えた。2歳の時、ピアノで遊んでいると、いつの間にか「ジングルベル」が弾けたという。驚くと共に、息子を褒め称えた。息子は、お母さんに褒めてもらいたくて更にピアノがうまくなっていく。やがて5歳になった伸行少年は、旅行先のサイパンのホテルでリチャード・クレーダーマンの曲を演奏し、周囲にいた外人の観光客の絶賛を受ける。この出来事が、ピアニストの道を目指したきっかけになったそうだ。そして、小学1年生で盲学校生のピアノコンクールで優勝、17歳でショパンコンクールのセミファイナルまで残り、20歳でヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで日本人初の優勝を果たし一躍日本一有名なピアニストになってしまう。まさに、母子で勝ち取った感動的なエピソードである。

辻井さんの子育てについての言葉で、子は親に無条件に褒めてほしい、努力した過程を褒める、否定的な言葉は使わないといった話が特に印象に残る。そして、人間の持つ可能性に驚くと共に子供に育てられたという話は大いに共感した。また、先のことばかり考えることより、今日を目一杯クリヤーすることを考えて生きていったほうが前に進めるという話も納得できる。こんな話を子育ての時期に聞いていたら、子育てがもっと変わっていたのかもしれないと反省もした。

2010社会人大学卒業式

2010-11-21 22:52:23 | 社会人大学
今年度の社会人大学の卒業式に出席した。静岡、島田・藤枝、浜松の会場で参加している人たち全部が集まった合同の卒業式である。広いホールの席がほとんど埋め尽くされるほどの人たちが集まり、盛況に式が始まった。


卒業するには全講座の8割以上出席しなければならない。そして、皆勤賞は10講座全部と野外活動を1回以上参加が条件だ。今年も、卒業資格はもちろん、皆勤賞も頂くことができた。10年連続とか20年連続皆勤賞という人は特別に表彰されていたが、私はまだ、たった2年連続でしかない。それでも何とかやりくりして皆勤する事が出来き、表彰もされて満足である。



表彰式の後は、特別講演があった。講師は盲目のピアニストとして知られる辻井伸行さんの母である辻井いつ子さんだ。「明るく、楽しく、そして諦めない」と銘打った講演は、子育ての大きなヒントになる素晴らしい内容であった。私は、もう子育てという歳でもないが、今真っ最中の人たちには非常に参考になる話だったといえる。もっと若い時に聞いておけば良かったと思うような内容であった。講演の詳細については、後日アップするつもりだ。

講演が終わってから、場所を替えて打ち上げパーティがあった。去年は参加せず帰ってしまったが、今年は初めてパーティにも参加した。狭い会場だったが、大勢の人たちが参加してパーティが始まった。普段、あまり話したことがない人が多かったがアルコールが入ったおかげで、何人かの人たちと話をする事ができ、今まで以上に親しみを感じる人が増えた気がした。


また、抽選会では今年のボジョレ・ヌーボーが当り、久しぶりに籤運が回ってきたようだ。アトラクションでは、二人の女性が「南京玉すだれ」の芸を披露して楽しませてくれた。たくさんの人たちの中には、芸達者な人たちが結構いるようだ。今日は、会話や食事を楽しんだ一日でもあった。