とっちーの「終わりなき旅」

出歩くことが好きで、趣味のマラソン、登山、スキーなどの話を中心にきままな呟きを載せられたらいいな。

2022奈良・山の辺の道ウォーク:2日目後半

2022-03-31 17:44:45 | ウォーキング
相撲神社から下っていく途中には、纏向遺跡がある。纏向遺跡は纒向川の扇状地に広がる東西約2キロメートル、南北約1.5キロメートルの広大な遺跡で、150次以上に及ぶ調査が継続的に行われているが、発掘済みの調査区は全休の5%に過ぎず、まだ全体を解明するにいたっていないという。3世紀の国内最大級の集落跡で邪馬台国畿内説の最有力地とされているそうだ。


大きな桜が、ひときわ青空に映えて美しい。


田んぼの中の脇道を進んでいく。周りに見える小高い丘はすべて古墳のように見える。


この古墳は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父と伝えられる第12代景行天皇の陵墓とされ、「景行天皇山辺道上陵」として宮内庁が管理している。地区の名を取って「渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳」とも呼ばれている。


田園地帯を抜けていく。この辺りも、のどかな雰囲気がいい。


ちょうどお昼にもなり、天理市トレイルセンターでランチ休憩する。


大和神社御旅所。”おおやまとじんじゃおたびしょ”と呼ばれ、北西約1kmにある大和神社の境外末社。4月1日に催される大和神社例祭、「ちゃんちゃん祭り」には、長い渡御行列が本宮~御旅所間を行き来するという。それにしても、日本最古というフレーズが、この辺りには多い気がする。


「灯籠山古墳」の角を右に曲がると、本堂の屋根と鐘楼がコンクリートの塀越しに見える浄土宗・大塚山「念仏寺」だ。開基は行基だという。


念仏寺の前にある一休さんの石像。なんだか目つきが不気味だ。


大和古墳群の1つ「燈籠山古墳」。東を高くした山側に後円部を置き、全長110mの主軸を東西に取った前方後円墳だ。


古墳の周りには、墓石が林立している。


途中で見かけた見事なハクモクレン。


果樹園の間を通り抜ける。


菜の花畑の黄色と花桃のピンクが鮮やかだ。


石上神宮手前で、3月21日にオープンしたばかりという総合文化施設「なら歴史芸術文化村」に立ち寄る。奈良県が文化や芸術振興の拠点として、およそ100億円かけて整備した総合文化施設だという。4つの核となる建物からなり、「文化財修復・展示棟」には、文化財が展示されているだけでなく、仏像などの彫刻や絵画・書跡などの修理を行う工房も入っている。オープンしたばかりで、混み合うほどの観光客で賑わっていたが、思ったより地味な展示物ばかりで、私には興味がわかなかった。

なら歴史芸術文化村から、半分のメンバーが先に帰ると言うことで別れ、我々は西山古墳を見て行く。墳丘は1段目のみ前方後方形、2段目から上位が前方後円形となる特異な形状で、全長約190mもあるそうだ。


日本最大の前方後方墳ということで、横に回ってみてみると、確かに前方後円墳というのがよく分かる。


1日目に続いて、天理教教会本部の建物が見えてきた。


この日は、天理駅まで続く商店街のアーケードは通らず、別の通りを歩いて天理駅に向かう。天理駅からは近鉄で京都まで行き、新幹線に乗って帰路についた。「日本書紀」にその名が残り日本最古の古道といわれる「山の辺の道」の全コースを歩くことが出来、大いに満足できた。「記紀・万葉集」ゆかりの地名や伝説が残り、数多くの史跡にも出会え、「古代ロマンの世界」へと大いに誘われた気がする。

参考1.2日目の高低図&コースタイム


参考2.2日目のコースマップ

2022奈良・山の辺の道ウォーク:2日目前半

2022-03-30 17:53:02 | ウォーキング
2日目の朝、天理駅近くの宿を出発する。


2日目は、天理駅からJRに乗って桜井駅で下車する。


山の辺の道・南コースは、天理から桜井へ向かってもよいのだが、三輪山への入山が午前中に受付しなければいけないと言うこともあって、桜井駅から歩く事にしたのだ。


また、桜井駅からの方が案内板もしっかり整備されており、歩く人も多いようだ。


大和川の堰堤は、桜が咲き出し、ちょうどいい時期になった。


桜井市金屋付近は、日本書紀によると、海柘榴市(つばいち)というわが国最古の市が開かれた場所だという。また、影媛の非愛の伝説や恋の歌をかけ合う歌垣(うたがき:歌の交換場所)の舞台としても知られ、欽明天皇13年(552年)、百済の聖明王の使者が、この地に釈迦仏の金銅像や経典を献上したとあり、それをもって日本に仏教が伝来したとされ、「仏教伝来地」の顕彰碑も建てられている。それにしても“海柘榴”を“つば”と読むとは知らなかった。


歴史的建造物の建ち並ぶ通りを進む。


国の重要文化財の「金屋の石仏」。建屋の中に2体の石仏が安置されている。ともに凝灰岩製の石板に浮彫(レリーフ)されたもので、向かって右が釈迦如来像、左が弥勒菩薩像といわれている。


竹林の中の道を進む。


平等寺の赤い山門が見え、中に立ち寄っていく。


平等寺は、聖徳太子が世の中の平和安寧を念じ、三輪明神に祈願して、賦後十一面観音を彫んで寺を建立したといわれている。


明治の廃仏毀釈令により一時崩壊したが、昭和52年3月に復興した。関ヶ原の戦いに破れた島津義弘が、一時この寺でかくまわれていたとも伝えられている。


平等寺山門前で記念撮影。


大神(おおみわ)神社に到着する。大神神社は、日本最古の神社といわれている。ご神体は三輪山そのもので、本殿はなく、拝殿から三ツ鳥居を通して山に向かって拝みます。三輪山は国を開いた大物主大神(大国様)が御魂を留めたという霊山。「パワースポット」と称されるよりはるか昔から「神の宿る山」として崇められてきた聖地だ。ご神体の三輪山は、古くから一木一草にいたるまで斧で伐採することを許されていない。


大神神社のご神体「三輪山」は、太古の昔より神さまの鎮まる神聖な山とされ、禁足の山として入山が厳しく制限されていたが、近代になって特別に入山を許可することとなり現在に至っている。そんな特別の山なら是非登ってみたいと思い、受付のある狭井(さい)神社までやってきたのだが、残念なことに、新型コロナウイルス感染症の蔓延状況を鑑み、「当分の間」三輪山登拝の受付を中止するという事になっていた。ガッカリしつつ、神聖な山の入り口だけ見て引き返した。


狭井神社には、薬井戸の水「狭井の御神水」があり、諸病に効くとされ、持ち帰りもできる。美味しい水を一口飲んでいく。


大神神社の境内に位置する「大美和の杜展望台」に登ってみる。展望台から桜越に三輪山を望む。


山の辺の道の途中に立派な桜が有り、ここでも記念撮影。




桧原神社に到着する。桧原神社は「元伊勢」と言われている。「元伊勢」とは、現在三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮が、現在地へ遷る以前に一時的に祀られたという伝承を持つ神社を言う。


本殿はなく、三輪山を御神体とし、三ツ鳥居が玉垣内にある。皇居に祭っていた天照大神の神霊を、崇神天皇が豊鍬入姫命に託して祭ったと言われる。


纒向日代宮伝承地(穴師)。景行天皇は、第11代垂仁天皇の第二皇子で熊襲(くまそ)征討と息子の日本武尊(やまとたけるのみこと)を派遣し蝦夷(えぞ)を平定した事で知られる。ヤマト政権誕生の地だ。


穴師(あなし)の地に鎮座する「相撲神社」は相撲発祥の地だ。日本書紀によると、「相撲」がはじめて登場するのは、垂仁天皇の時代。出雲国出身の野見宿禰と大和国出身の當麻蹶速とが垂仁天皇の前で取り組みをおこなったのがはじまりと言われている。


相撲神社には、お相撲さんのオブジェも設置されている。


相撲神社から坂を下っていくと、前方には奈良盆地が一望だ。いにしえ人も見た景色だろうと思うと、万感迫るものがある。


「2022奈良・山の辺の道ウォーク:2日目後半」に続く。

2022奈良・山の辺の道ウォーク:1日目

2022-03-29 10:44:52 | ウォーキング
先週末は、日本最古の道と呼ばれる奈良の山の辺の道を歩いてきた。周囲を小高い山に囲まれた奈良盆地。古代、その東に連なる美しい青垣の山裾を縫うように、三輪山の麓から石上布留を通り、奈良へと通じる道があった。「日本書紀」にその名が残るのが「山の辺の道」だ。山の辺の道沿いには、今も「記紀・万葉集」ゆかりの地名や伝説が残り、数多くの史跡に出遭え、訪れる人を「古代ロマンの世界」へと誘ってくれる。

1日目は、北コースと呼ばれる奈良から天理までの区間だ。一般的に「山の辺の道」とされているのは、景行天皇陵・箸墓古墳・大神神社などを経由しながら天理市内~桜井市内を結ぶ南側のルートであり、天理市街地より北側、奈良市内からのルートについてはそれほど知られた存在ではない。だが、風景自体は奈良盆地を望む眺めや、盆地の東端部の農村風景・里山の風景をじっくりと味わいながら歩き、「ありのままの奈良」を楽しめるコースだ。

まずは、近鉄奈良駅に集合する。あいにく朝から雨となり、駅前でカッパを着て歩き出す。


奈良公園近くに来ると、やはり鹿の群れに出迎えられる。


奈良国立博物館のなら仏像館。


氷室神社まで来ると、もう桜が満開だ。


そのまままっすぐ進み春日大社に入ると、二の鳥居近くの「祓戸神社」のすぐそばにある春日大社伏鹿手水所(ふせしかのてみずしょ)に出る。


この手水所は、奈良を象徴する存在であり、かつ「神の使い」として大切にされてきた「鹿」をモチーフにした珍しいものだ。巻物をくわえた鹿の口の部分から水が流れ出るようになっており、ひしゃくでその水を受けた上で両手を清める。


参道を進み、春日大社に参拝していく。


春日大社を抜けると、人出も少なくなり、静かな道となってくる。


山の辺の道の案内標柱が出てきた・


田舎道に入ると、鹿よけの柵が所々に出てくる。


八坂神社まで来た。この辺りまで来る観光客はほとんどいない。


ため池の前には、万葉の句碑が建っている。


崇道天皇陵(すどうてんのうりょう)に立ち寄る。


崇道天皇は生前の名を「早良親王」と言い、光仁天皇の皇子として生まれたが、最終的に藤原種継暗殺の謗りを受け、無罪を立証するために淡路の地へ配流の途中絶食し息絶えたとされる悲劇の皇子だ。その祟りを鎮めるために死後崇道天皇と追称され、大和に改葬されたことが崇道天皇陵の由来と言われている。すなわち、早良親王は歴代天皇には数えられていないにも関わらず祟りを恐れ「天皇」と呼ばれる特異な存在となったという。


崇道天皇陵の前池の横に立つ歌碑。八嶋国(ヤシマクニ) 妻(ツマ)枕(マ)きかねて 春日(ハルヒ)の 春日(カスガ)の国に 麗(クハ)し女(メ)を 有りと聞きて・・・・・。勾大兄皇子(マガリノオオエノミコ=安閑天皇、継体天皇第1皇子)の春日皇女(カスガノヒメミコ)への求婚歌だという。


静かな山道を進むと、円照寺の山門が見えてきた。


円照寺は、山の辺の道からは少し外れており、非公開となっていたが、ちょっといい雰囲気なので庭園だけ覗いていく。


ここにも大きなため池があった。


小さい時計台の前を曲がる。


弘仁寺。山の辺の道沿いにある弘法大師ゆかりの山寺だ。


田園地帯ののどかな農道の中を歩く。


天理市内に入ってくると、天理教の施設が目立ってくる。ここは、静岡県の信者用の施設なのか?


石上神宮(いそのかみじんぐう)にお詣りしていく。ここも伊勢神宮と同様に我が国最古の神社のひとつに数えられ、「古事記」、「日本書紀」にも記載されている非常に古い歴史を持つ神社だ。かつての豪族・物部氏の総氏神であり、物部氏滅亡後は大和朝廷の武器保管庫だったと伝えられている。


境内には、色鮮やかな羽根を持つ東天紅(とうてんこう)や小国(しょうこく)などの鶏約40羽が放し飼いにされている。鶏は夜明けに鳴いて時を告げることから、昔の人々は神聖視したとされ、石上神宮でも「神の使い」として敬われているそうだ。


石上神宮の鳥居を抜けると天理教教会本部方面に向かう。


天理教の本部は広大な敷地に巨大な施設が広がっている。天理教において人間創造の聖地とされている「ぢば」を中心に、四方に礼拝場(らいはいじょう)が建てられている。天理教は、日本全国・世界に100万人以上の信者がいると言われているそうだ。雨の中でも、草むしりをしている信者が何人も見受けられた。


本部を抜けると、天理駅まで一直線に屋根のあるアーケードの商店街が1キロも続いている。天理教の法被を着た信者が至る所で見られ、一種異様な雰囲気を感じる商店街を歩き、この日の宿の旅館に着いた。

参考1.1日目の高低図&コースタイム


参考2.1日目のコースマップ


「2022奈良・山の辺の道ウォーク:2日目前半」に続く。

2022飛鳥ハーフマラソン:2日目マラソン

2022-03-16 17:44:35 | マラソン
早朝、ホテルから送迎バスで飛鳥ハーフマラソンのスタート地点まで送って貰う。朝から好天にみまわれ、暑くなりそうな日だった。会場には、大勢のランナーが集まり、久しぶりの本格的な大会が開催されることに安堵した。


スタートの時間が近づき、申告タイムごとに指定された待機ゾーンに集まる。遅いタイムで申告したので、かなり後ろのブロックだ。


スタートの号砲は9時だったが、後方だったので、スタートラインを通過したのは5分後くらいだった。沿道の応援にも恵まれ、気持ち良くスタートする。


最初は緩やかな下り坂を進んでいく。


ずっと先まで人の波が続いているのが見え、コロナで制限されていた時期と比べると、まったく雰囲気が違う。今回の参加者は、3000人ほどだといい、これだけのランナーと一緒に走れるのは感動的だ。


高松塚古墳の入り口前を通過する。


横に見えるのは、天武・持統天皇陵古墳だ。明日香村には、歴史的な遺跡や古墳が数多くある。


5キロを過ぎると、最初の折り返しから引き返してきたランナーたちとすれ違う。


最初の折り返し点を通過する。


甘樫丘の横の沿道には、梅の花が咲き出している。


のどかな田園風景を眺めながら走る。


給水エイド。この大会では、マイボトル持参で、自分で給水する。


7キロあたりで、大きな黒人のランナーが通り過ぎた。ランナーの背中に優しくタッチしながら応援してくれていたのは、オリンピック銀メダリストのエリック・ワイナイナさんだった。


少し下ると、2回目の折り返し点だ。


給食エイドで出されていたのは、個別包装されたチョコレートだ。


沿道で立ち止まり、写真を撮っているランナーがいたりしたので、何だろうと思って、見ている方向に振り返った。


視線の先にあったのは、石舞台古墳だ。巨石30個を積み上げて造られた石室古墳で、その規模は日本最大級を誇る。盛土が失われて、露出した天井石の上面が平らなことにちなんで、石舞台と呼ばれている。石舞台古墳の横も通るとは、なかなかいいコース設定だ。


石舞台古墳を過ぎると、この大会での最大傾斜の激坂を登っていく。急すぎるし、長いのでさすがに走って行くことはできない。いい加減イヤになってきたころ、折り返しが見えてきた。


折り返しを過ぎると、急坂を快調なペースで下っていく。反対側の苦しそうなランナーの顔を見ると、もう少しだよと声をかけていく。


棚田の風景もいい感じだ。


棚田の中を登っていくランナーは、ゴールまであと5キロほどだが、自分があの場所に行くのはまだ先のようだ。


男綱がぶら下がっている川の横を通り過ぎる。


これは、明日香村稲渕と栢森(かやのもり)に伝わる綱掛神事だ。子孫繁栄と五穀豊穣を祈り、飛鳥川と道路をまたいで綱を渡し、悪疫が川や道路をとおって進入することを押しとどめ、住民を守護するための神事と言われている。稲渕地区は「男綱」がかけられているが、栢森地区には「女綱」がかけられているそうだ。


関西大学飛鳥文化研究所前の折り返しを通過する。


朝風峠からは、飛鳥時代の女帝・斉明天皇の陵との説がある牽牛子塚(けんごしづか)古墳が見える。八角形の珍しい古墳(八角墳)だという。


文武天皇陵前を通過する。


最後の遺跡スポット、高松塚古墳の横を通過する。


高松塚古墳の公園内の道を走っていく。変化に富んだ面白いコースだ。


最後は、スタート時の緩やかな下り坂が、キツイ上り坂に変わる。アップダウンの激しいコースで結構体に応えてきて、緩い坂ながらほとんど走れない。走れたのは、ゴール手前の数十mくらいだが、無事ゴール。何とか3時間以内にはゴールできてホッとした。


世界遺産だらけの明日香村を走る飛鳥ハーフマラソン。第1回ながら、大会の運営も悪くなく、コースはアップダウンが激しくきついが制限時間が4時間と言うことで、楽しく走ることができるいい大会だった。

参考:コースマップと高低図

2022飛鳥ハーフマラソン:1日目観光

2022-03-15 18:20:53 | 観光
先週末は、奈良の明日香村で行われる飛鳥ハーフマラソンに参加するため1泊2日の予定で出かけた。1日目は、橿原神宮とキトラ古墳の観光だ。

まずは、橿原神宮前駅で娘夫婦と待ち合わせをして、我々夫婦と4人で橿原神宮に向かった。橿原神宮は、神武天皇が畝傍山の東南・橿原の地に宮を建てられ即位の礼を行われた宮址に、明治23年に創建された。第一代の天皇であり我が国建国の始祖となる神武天皇と、ひめたたらいすずひめ皇后が祀られている。まさに日本の始まりはここからなのだ。


入り口には大きな鳥居が門を構え、その大きさに圧倒される。


大きな鳥居の先にもさらに大きな鳥居が立ち、参道の両脇には立派な灯籠がずらっと並んでいる。


南神門の前には、紀元2682年と記されている。今年は、紀元節では2682年となるらしい。古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日からの年月を示すもので、日本が世界で最も歴史がある国の証でもある。


広い庭を通り、外拝殿に向かう。


外拝殿の先には本殿があるが、一般の人はこの先には入っていくことができない。本殿を見ながら拝礼をする。


外拝殿の両側には、廻廊と呼ばれる長い廊下が有り、祭事の歳には、ここを通って本殿に向かうのだろう。


南神門広場の南方にあるのは深田池。


明るい静かな水面が広がっている。面積は約4万9500㎡(約1万5000坪)もあり、対岸までの遊歩道が整備されていて、水鳥を見ながら散策をすることができる。


橿原神宮を出て、翌日の飛鳥ハーフマラソンのスタート地点でもあるキトラ古墳壁画体験館・四神の館に向かう。キトラ古墳は、高松塚古墳に続き日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳だ。名前の由来は、中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎古墳」と呼ばれたという説、古墳の南側の地名「小字北浦」がなまって「キトラ」になったという説、またキトラ古墳が明日香村阿部山集落の北西方向にあるため四神のうち北をつかさどる亀(玄武)と西をつかさどる虎(白虎) から「亀虎」と呼ばれていたという説など、いろいろな説があるという。


キトラ古墳の石室内には、四神、十二支、天文図、日月の壁画がある。四神は天の四方を司る神獣で、壁画は対応する方位に合わせて、東壁に青龍、南壁に朱雀、西壁に白虎、北壁に玄武が描かれている。四神以外にも、十二支の美しい絵や石室の天井には本格的天文図が描かれている。これらは、7世紀末~8世紀初め頃に造られたと推測されており、このような絵が今でも見られるというのは奇跡である。

朱雀。高松塚古墳では失われていた朱雀像がキトラ古墳には残っている。地を蹴って羽を広げ、今にも飛び立とうとしているような躍動的な姿はたいへん珍しいものだという。


白虎。通常の白虎(高松塚古墳など)とは逆に頭が北を向いている。細身で首が長く、両眼を見開き、前脚を突き出した躍動的な姿。耳の毛や黒目も細かく描写されている。


四神の館をでると、すぐ横に小高い丘が有り、明日香村の風景を見下ろすことができる。翌日はこの辺りも走ることになるのだろう。


実際のキトラ古墳は、四神の館から歩いて数分の場所にある。二段築成の円墳で、上段が直径9.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さは上段・下段あわせて4mを少し超えると推測されている。今の古墳は、発掘作業が終わってから再構築されたものだ。


キトラ古墳を出て、橿原神宮前のホテルに戻る。翌日は、飛鳥ハーフマラソン本番を走ることになる。幸い天気もよく、温かい一日となりそうだ。