とっちーの「終わりなき旅」

出歩くことが好きで、趣味のマラソン、登山、スキーなどの話を中心にきままな呟きを載せられたらいいな。

2021ノルディック・ウォーク in くんま:大栗安棚田コース

2021-05-31 18:59:24 | ウォーキング
ノルディック・ウォーク in くんまのイベントに参加する。今月の初旬、初めて参加したが、今回は2回目だ。受付を済ませ、道の駅・くんま水車の里の広場に集合する。


準備体操、ノルディック・ウォークの練習などした後、橋を渡り、大栗安棚田コースに向かう。


県道からすぐに、沢沿いの細い道に入る。


沢には透き通った清流が流れ、心地よい爽快感を感じさせてくれる。


森の中では、材木の切り出しが行われていた。


重機で材木を引き出しているところを通り過ぎる。


坂を上り、峠越えだ。


旧秋葉街道の名残の灯篭や石柱が残っている。


今回の目的地、大栗安棚田に到着する。天竜川の支流・阿多古川の上流の山間地にある大栗安の棚田は、本村と檜曽礼(ひのきぞれ)の2地区の棚田で構成され、計約500枚の水田があるそうだ。


ここは、本村の棚田だ。大栗安の棚田では、水稲栽培だけでなく、お茶の栽培も行われており、茶畑と棚田が織りなす、少し変わった景色を楽しむことができる。


茶栽培も行う農家も多く、5月中旬ごろから6月中旬に掛けて茶の作業が一段落した農家から田植えに移行していくそうだ。




本村の棚田の上段に向かう。


上段から棚田の全景を見下ろす。「新・浜松の自然100選」にも選ばれている風景だ。


上段から下段に向かって降りていく。


下段の方は、草を刈ってから水を引くための準備をしている。


駐車場とトイレのある栗砦館(りっさいかん)前で休憩。


大栗安の棚田のもう一つ、檜曽礼地区の棚田を見ていく。こちらは、かなり田植えが終わっている。


一通り棚田を見てから、元来た道を辿り、スタート地点に戻る。歩行時間3時間20分。距離は8キロほどで、アップダウンもかなりあった。森林浴の爽快感と適度な疲労感でノルディック・ウォークを楽しむことが出来た。

参考1.今回のコースマップ


参考2.今回の高低図&コースタイム

2021第6回熊野古道ジャーニーマラニック:中辺路編その2-2日目(川の参詣道)

2021-05-20 18:08:45 | 熊野古道
熊野本宮大社を参拝したあと、バスで道の駅「瀞峡街道 熊野川」まで移動する。その昔、皇族たちが熊野本宮大社と熊野速玉大社を巡拝する際に利用した川舟下りを体験するためだ。

道の駅「瀞峡街道 熊野川」周辺は、カヌー遊びも楽しいらしく、カヌーに乗った人形が大きな看板の前にあり、面白かった。


川舟センターで受付を済ませ、菅笠とライフジャケットを着用する。いかにも、熊野古道の参詣をする旅人っぽくなり、川原に停泊している川舟まで歩いていく。


語り部の女性と船頭が一人ずつ付いてくれる。


乗船前に記念撮影。


いざ、速玉大社に向けて出発だ。


和歌山県側にある、布引の滝。国道の奥にあるのだが、車を止めるところがなく、山陰に隠れて国道からは見ることができないという。舟下りでなければ見えない景色だ。




三重県側にある、蛇和田滝。三段となって蛇のように蛇行しながら落下する滝。三重の滝ともいわれている。


柱が並んでいるような柱状節理の岩。


岩肌に、苔で丸い円が4つ描かれているかのように見える。


骨嶋。真っ白で背骨のような石が横たわっている。熊野権現に切られた鬼神の骨だという。


釣鐘石。釣鐘形の岩の割れ目が川に落ちかかりそうに立っている。この石が落ちるとこの世が滅ぶといわれているそうだ。


波が荒い場所を通る。舟がゆれて少しスリルがある。


高田川と熊野川の合流地点。熊野川は濁っていたが、高田川の水の流れは清く、川底が透き通って見える。


三重県側の山の斜面が削り取られ、いくつもの筋になって見える。


70分ほどの川舟下りで、熊野速玉大社近くの権現河原に到着する。河原では、我々の荷物を運んできた車が待機してくれ、熊野速玉大社まで車で送ってくれた。

川原家横丁。江戸時代から昭和にかけて熊野川河川敷には「川原家」という簡易商店が並んでいた。川が増水すると家をたたみ、水が引くと再び組み立てた当時の簡易商店をイメージした施設が熊野速玉大社近くにあり、語り部の説明を聞く。


その後、熊野速玉大社に少し寄ってから、新宮駅まで歩き、駐車場に止めてあった車で帰路についた。

2021第6回熊野古道ジャーニーマラニック:中辺路編その2-2日目(小雲取越~熊野本宮大社)

2021-05-19 19:16:31 | 熊野古道
7時過ぎ。小口自然の家を出発する。この日は朝から雨模様だ。


橋を渡り、道路に出る。


道路からすぐに小口トンネルが見える。二つトンネルがあり、車が通らない旧トンネルの中を進む。


旧トンネルを出たところ。


小和瀬の渡し場跡。現在は橋が架かっているので、そのまま橋を渡り、反対岸に向かう。


民家の玄関先から石段を上ると、小雲取越の入り口だ。


小雲取越は、大雲取越に比べれば、比較的アップダウンが少なく、木立の中、快適なトレッキングが楽しめるという事で気楽に進んで行く。


桜茶屋跡に到着する。茶屋の前に桜の木があった事からその名がついたそうだ。


桜茶屋跡から15分ほどで桜峠に到着する。


賽の河原地蔵前に到着する。


賽の河原という事で、お地蔵様の前には、小石が積み上げられている。


小雲取越の最高点である百間ぐらに到着する。小雲取越の絶景ポイントと言われる場所で、熊野三千六百峰が一望できるといわれ、とりわけ夕景は絶景だという。


残念ながら絶景は見えないが、小さなお地蔵さまと共に、霧をバックに記念撮影。


ゆるやかな下りを進んで行く。


下地橋バス停に到着する。小雲取越はすんなり通過できた。ここからは、国道を進み、4キロほど先の熊野本宮大社を目指す。


熊野本宮大社の手前にある、大斎原(おおゆのはら)に寄っていく。熊野本宮大社はかつて、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある大斎原と呼ばれる中洲にあったそうだ。江戸時代まで中洲への橋がかけられる事はなく、参拝に訪れた人々は歩いて川を渡り、着物の裾を濡らしてから詣でるのがしきたりだったという。ところが明治22年(1889年)の8月に起こった大水害が本宮大社の社殿を呑み込み、社殿の多くが流出したため、現在の熊野本宮大社がある場所に遷座したというわけだ。


神が舞い降りたという大斎原。当時、約1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、現在の数倍の規模だったという。


大斎原の巨大な鳥居。いかに当時の熊野本宮大社の規模が大きかったのかが窺い知れる。


現在の熊野本宮大社に到着する。鳥居が大斎原と比べると可愛すぎる。


熊野大権現の幟が立ち並ぶ参道を進む。


神門の前には、今年の干支「丑(うし)」の大絵馬と大しめ縄が掲げられている。


神門から先の御社殿は、撮影禁止になっている。熊野本宮大社は、熊野三山の中心であり、全国に存在する熊野神社の総本宮だ。主祭神は家津御子大神(けつみみこのおおかみ・スサノオノミコト)をお祀りし、第一から第四の社殿は、国の重要文化財に指定され、100年を越える重厚な檜皮葺(ひわだぶ)きの屋根を見ることができる。

拝殿の左右には神の使いである三本足のカラス「八咫烏」のレリーフがある。


八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味だ。八咫烏は太陽の化身で三本の足があり、この三本の足はそれぞれ天・地・人をあらわすといわれている。




社務所前に黒い八咫烏ポストが設置されている。八咫烏ポストに手紙を投函すると、社務所で“出発の地より心をこめて 熊野本宮”というスタンプを押印してくれるそうだ。


熊野本宮大社を参拝した後は、むかし、上皇・貴族が下った川の熊野古道を体験するために、道の駅熊野川までバスで移動する。

参考1.2日目のコースマップ


参考2.2日目の高低図&コースタイム


「2021第6回熊野古道ジャーニーマラニック:中辺路編その2-2日目(川の参詣道)」に続く。

2021第6回熊野古道ジャーニーマラニック:中辺路編その2-1日目(かけぬけ道~大雲取越~小口)

2021-05-18 22:18:19 | 熊野古道
熊野古道「かけぬけ道」とは、「那智山」から妙法山の中腹にある”阿弥陀寺”に通じる古道である。那智参詣曼荼羅絵図に描かれた極楽浄土の入り口「妙法山」へ向かう道で、中辺路の派生ルートとなる。

かけぬけ道に入ると、一層雲が濃く立ち込め、幻想的な道を進む。


1時間10分ほどで妙法山阿弥陀寺に到着する。


阿弥陀寺は標高749mの妙法山の山中にある真言宗のお寺だ。弘法大師空海が高野山を開かれる前の年に妙法山で修行をして、極楽浄土の入り口として山腹にお堂を建て阿弥陀如来をご本尊とされたことから「阿弥陀寺」と名付けられた。


阿弥陀堂で軽く昼食を済ませ、浄土堂に向かう。妙法山の山頂に建つ浄土堂は俗に「奥の院」と呼ばれている。


妙法山山頂から徐々に下っていく。


幻想的な森の中をグングン下っていく。


那智高原公園に到着する。きれいなトイレと広い駐車場があるが、全く人気はない。


熊野古道と白ペンキで道路に書かれた矢印に従って進むと、中辺路の最大の難所と言われる大雲取越の入り口となる。


大雲取越は、雲の中を行くがごとき、大雲取山に分け入り、厳しい坂道を越えるルートだ。


舟見峠にある舟見茶屋跡に到着する。このコース随一の眺めを誇る峠だというが、この日は全く景色が見えない。


舟見峠から少し下っていく。


八丁の掘割の横を通る。山の両側が削り取られ掘割になっているのがわかる。


地蔵茶屋跡で休憩。自販機があり冷たいドリンクを補給する。


地蔵茶屋跡から石倉峠までは、通常20分ほどで行けるようになっていたが、平成29年の台風による土砂崩れで通行止めが続いているので、迂回路で行かなければならなくなっていて、なんと60分もかかるという。アップダウンが続き疲れてきていたので、困った事だと思ったが、とにかく進むしかない。幸い、道幅がありアップダウンもほとんどない林道だったので、走って時間を稼ぐ。60分のところ40分くらいで正規ルートに繋がった。

地蔵茶屋跡からほぼ1時間で越前峠に到着する。標高840mで大雲取越の最高地点だ。この日のゴールとなる小口の標高は60mで、ここから一気に800m近くを下ることになる。


延々と続く長い坂を下っていくと、円座石(わろうだいし)に到着する。


熊野三山の神々があつまって、話をしたという伝説の岩だ。苔むした表面には円で囲まれた熊野三山の本地仏が梵字で彫られている。円座とは藁などを渦巻状に平たく編んだ敷物のこと。


17:20。小口の大雲取登り口にやっとのことで到着する。


10分ほど歩くと、この日の宿となる小口自然の家に到着する。


大雲取越は、やはり侮れないほどきついコースだった。宿に着いた頃は、クタクタになっていて、風呂、夕食を済ますと何もしたくなく布団に入り寝入ってしまった。

参考1.1日目のコースマップ


参考2.1日目の高低図&コースタイム


「2021第6回熊野古道ジャーニーマラニック:中辺路編その2-2日目(小雲取越~熊野本宮大社)」に続く。

2021第6回熊野古道ジャーニーマラニック:中辺路編その2-1日目(那智駅~熊野那智大社)

2021-05-17 22:57:12 | 熊野古道
中辺路編の2回目となった。今回は、前日から紀宝町ウミガメ公園で車中泊してから朝早く那智駅まで向かう。那智駅には何度も来ており、勝手知った場所となった。7時半、支度をして中辺路に向けてスタートする。


補陀落山寺を経て那智大社方面に向かう。しばらく国道を進み、途中から“曼荼羅のみち”に入る。


川の堤防を歩き森の中に進んで行く。


山道を進む。


尼将軍供養塔に到着する。尼将軍とは、源頼朝の妻、北條政子のことで、この塔は尼将軍が我が子の供養のために建てたとされている。


ちょうど尼将軍供養塔前で休んでいた青年と出会う。彼は、ヒッチハイクで日本一周をしているという。コロナ禍の世で、ヒッチハイクも大変じゃないかなと心配してしまった。


市野々王子に到着する。那智駅から熊野那智大社・那智山青岸渡寺への参詣道では、最初にある王子社だ。


市野々は八咫烏の子孫が住むといわれている。市野々王子の近くにある市野々小学校の校章は八咫烏だという。


最初の王子社なのでお詣りしていく。


いよいよ那智山の入り口となる「大門坂」が見えてきた。前に見える山が那智山だ。


大門坂の大きな石柱の前で記念撮影。


夫婦杉が見えた。樹齢800年と推定される杉の巨木が2本並んでいる。


熊野古道の中でも、当時の面影を特に美しく残している「大門坂」から聖地「那智山」へと約640mの石畳が続いている。




大門坂を上り切ると、まずは「那智大滝」に向かう。


石段を下り、飛瀧神社に向かうと目の前に大きな滝が視界に飛び込んでくる。那智山の奥山、大雲取山から流れ出る本流にいくつもの流れが重なり合い、原生林を切り裂くように落下しているのがこの「那智大滝」だ。


滝の水柱は落差133m、銚子口の幅13m、滝壺の深さは10mの名瀑で、落差は日本一だ。銚子口の岩盤に3つの切れ目があって、三筋になって落下し始めるところから「三筋の滝」ともよばれている。


那智山青岸渡寺三重塔。


西国一番札所で世界遺産に指定されている那智山青岸渡寺。那智山青岸渡寺は、一千日(3年間)の滝篭りをされた花山法皇が、永延2年(988)に御幸され、西国三十三ヶ所第一番札所として定めたとされる。


青岸渡寺の境内から眺めた三重塔と那智大滝。この組み合わせは、絶好の撮影スポットだ。


青岸渡寺に隣接しているのが熊野那智大社だ。主祭神は熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)。夫須美は「結び」を意味することから、多くの人がご縁や願いを「結ぶ場所」として参拝している。そして、那智大滝は、熊野那智大社の御神体として祀られているのだ。


雨が降り出してきていたが、鳥居や神殿の朱色が眩しい。


八咫烏(やたがらす)は熊野の神様のお使いである三本足の烏だ。より良い方向へ導く、お導きの神様とされ、熊野那智大社の境内にある御縣彦社(みあがたひこしゃ)でお祀りされている。


この後、青岸渡寺横から“かけぬけ道”を通り、妙法山を経て大雲取越に向かう。

「2021第6回熊野古道ジャーニーマラニック:中辺路編その2-1日目(かけぬけ道~大雲取越~小口)」に続く。

2021下野街道新緑マラニック:2日目

2021-05-15 19:17:28 | マラソン
8時。大内宿を出発する。朝から快晴だ。


朝早いので、お店も開いていない。


急な階段を上がって神社まで行く。


神社の前から大内宿を眺める。まさに江戸時代の街並みが広がっている。


この墓標は、桜木姫の墓だ。桜木姫は高倉宮以仁王の正室である紅梅御前の側室だった。彼女は以仁王の後を追ってここ大内まで辿り着いたが、長旅の疲れから病に伏し、虚しくも18歳という若さで亡くなったといわれている。桜木姫という名は、病で倒れた姫のつく杖から桜が咲いたということから付けられ、現在は墓の傍に桜の木が植えられている。


大内ダムの堰堤に向かって進む。


タンポポが咲き誇る丘陵地帯をひたすら上がって行く。


登りきると、大内ダムの堰堤だ。大内ダムは、一級河川・阿賀野川水系小野川の最上流部に、調整池を設けることで揚水発電を行う計画を目的に1974年に着工。19年の歳月を掛け1991年(平成3年)に完成したロックフィル型ダムだ。付近一帯は、大川羽鳥県立自然公園に指定されている景勝地のため、環境を考慮して発電所の設備一切は地下に建設されているそうだ。


2日目も下野街道の標柱を目印に山道に入っていく。


倒木を越えながら山道を進んで行く。


一里塚跡を通り抜ける。


大内峠古戦場。戊辰戦争の際、松川新道と下野街道から進撃してきた西軍は、田島宿で合流し、倉谷宿から攻め入り、沼山での激戦を経て大内宿に入りました。慶応四年(一八六八)八月三十一日のことだ。すでに大内峠まで撤退を余儀なくされていた会津軍は、越えさせてはならない南側最後の防御線であるため、この尾根伝いに陣を張り、進軍してくる西軍と九月二日から三日間、し烈な戦いを続けました。この戦闘を裏付けるように、大内沼からは大砲弾、茶屋跡からは鉄砲弾が発見されているという。


この戦いでは両軍ともに多くの犠牲者を出しており、大内峠周辺の街道沿いには、この攻防で亡くなった両軍の墓碑をいくつも見ることが出来る。


大内峠の茶屋跡。大内峠を登った大名をはじめ多くの庶民がこの茶屋で小休止し、一息ついては再び旅の途についていったのだろうが、今は茅がずり落ち、荒れ果てている。


いよいよ、この辺りから荒れた道に入っていく。舗装道路で行く選択コースもあるのだが、あえて旧道の山道を歩きたいと思い、この道に入っていく。


道標など何もなく、ただ、地図と方角だけを頼りに進む。


時々道らしき場所もあり、何とか進んで行く。


倒木を乗り越え進むが、ますます迷宮に入り込んでしまったようだ。大きな熊の糞もあり、熊がいつ出てきてもおかしくない場所だった。


後半は、山の急斜面を登ったり下りたりと、道に迷いかけたが、沢沿いに進み、やっとのことで舗装道路に出ることが出来た。一人では、間違いなく遭難しそうなルートだ。その後は、わかりやすい舗装道路の道を進む。


戦士四十人墓。戊辰戦争で亡くなった戦士たちの墓で、他にも所々に戦士の墓がある。


会津若松市内に入る。道の途中に、山本覚馬・新島八重 生誕地の案内があった。新島八重(1845~1932)は、会津藩砲術師範・山本権八とさくの三女(六人兄弟)として生まれ、兄・覚馬から習った砲術を得意とし、白虎隊員への指導の一方で、戊辰戦争では自ら鶴ヶ城に籠城。会津藩が降伏し開城前夜に詠んだといわれる歌が伝わっている。生誕地は、奥の方なので、寄らずに先を急ぐ。


鶴ヶ城の天守閣が真横に見えてきた。


国道から外れ、野口英世青春通りに入る。野口英世が左手の手術をした会陽院跡が喫茶店として営業しており、ここを中心に野口英世が、書生として多感な青春時代を送ったゆかりの地だ。


野口英世青春広場には、世界的な細菌学者であった野口英世の銅像が、まちと広場の賑わいを見守るように立っている。


14:50。富士の湯に到着。ここが最終日のゴールだ。


2日間で50キロほどの下野街道新緑マラニックを無事完走することが出来た。ほとんど人とすれ違う事もない山道ばかりで、新緑を堪能し、会津の風情を楽しむことが出来て良かった。

参考1.マラニック2日目のコースマップ


参考2.マラニック2日目の高低図&コースタイム

2021下野街道新緑マラニック:1日目

2021-05-14 18:33:13 | マラソン
Hさんの呼びかけで、会津田島から会津若松までの下野街道を走るマラニックに参加する。ちょうど会津若松市内に泊まっていたので、会津田島まで移動することになるが、折角なので会津若松市内の鶴ヶ城を先に観光していくことにした。

鶴ヶ城の駐車場を出ると、司馬遼太郎の文学碑があった。 “会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作”と、司馬遼太郎が会津藩の教育や精神文化を高く評価している。「司馬遼太郎文学碑」には随筆「歴史を紀行する」と、最後の藩主、松平容保を描いた小説「王城の護衛者」のそれぞれから抜粋した文章が碑に刻まれている。


文学碑の近くには、2013年大河ドラマ「八重の桜」で紹介された山本八重(のち新島八重)の像も建てられている。


鶴ヶ城の入り口に着いた。鶴ヶ城は今から約630年ほど前に、その前身ともいえる東黒川館を葦名直盛が築いたのがはじまりと言われ、戊辰戦争では約1ヶ月に及ぶ激しい攻防戦に耐えた名城として、その名を天下に知らしめた。明治7年に取り壊されたが、昭和になって再建され、平成23年には「赤瓦」へのふき替えが完了し幕末当時の姿を再現し、現存する天守閣では国内唯一の赤瓦の天守になったそうだ。


立派なお堀が見えてきた。


赤い橋を渡ると、天守閣が見える。


六層にもなる立派な天守閣だ。


入場券を買って中に入る。


天守閣の最上部から、鶴ヶ城公園を臨む。約69,000坪の敷地は全て、国の史跡に指定されているそうだ。街並みも一望でき、白虎隊が鶴ヶ城を眺めたという飯盛山も見える。


会津若松駅から会津田島駅まで、可愛いラッピング電車で移動する。


1時間半ほどで会津田島駅に到着する。


13時。会津田島駅より、他のメンバーたちと一緒にスタートする。


行くときに乗った電車が、逆方向に折り返し運転していくのが見える。その先には、前日登った二岐山も見える。


旭ダムの横を通る。昭和電工への電力供給を目的として1935年に建設された自家用のダムだ。トラス構造の四角錐を組み合わせたもので、現役のものとしては国内で最古のゲートの一つだという。


ダムの前で、記念写真。


ダムから30分ほど走ると、いよいよ下野(しもつけ)街道の入り口だ。下野街道は、会津若松から日光に至る32里(128km)の道程で、「日光街道」や「会津西街道」、「中奥街道」とも呼ばれている。


かつて醬油工場だったらしい建物の横を過ぎる。


山道に入る。


高倉山湧水「長寿の水」。高倉山から湧き出る美味しい水を飲んで一休み。


下野街道の概要を記した看板。伊達政宗もこの街道を通ったことなどが記されている。


いまは、あまり通る人もいないのか、踏み跡がはっきりしていない場所も多い。


田園地帯に出ると、一面の菜の花畑が迎えてくれた。


八幡のケヤキ。高さ36mもあるという巨木だ。


再び下野街道の標柱を見つけ、進んで行く。


この日の宿となる大内宿の入り口まで来た。ゴールは間近だ。


江戸時代の町並みを今に残す宿場「大内宿」。下野街道と呼ばれた会津と日光を結ぶ街道の両脇には、茅葺き屋根の民家が並び、江戸へ向かう大名や旅人の宿駅として重要な役割を果たしてきた場所だ。30軒以上の茅葺き屋根の民家が並ぶ様子は極めて珍しく、年間約80万人の観光客が訪れ賑わうというが、今は、人影はまばらだった。


この日の宿となる本家扇屋さんに到着。この日のゴールだ。


夕暮れの大内宿。


夕焼けがきれいだった。


参考1.マラニック1日目のコースマップ


参考2.マラニック1日目の高低図&コースタイム


「2021下野街道新緑マラニック:2日目」に続く。

2021福島・日本三百名山登山ツアー:2日目会津若松・飯盛山観光

2021-05-13 21:56:25 | 観光
二岐山から会津若松市内に向かう。宿に行くには時間がまだ早いので、飯盛山周辺を観光していくことにした。飯盛山は、会津若松市街の東2キロにあり、城下町を一望に見渡す小高い山で、その頂上には約1650年~1700年前につくられた前方後円墳があり、地元住民の共同墓地でもある。そして古くは、日本武尊などの神話も残り、会津盆地を見守る信仰の山である。特に、戊辰戦争の折に白虎隊が自刃した地として知られ、あまりにも有名な場所だ。

まずは、白虎隊記念館に寄っていく。


入口には、白虎隊の少年兵の像が建っている。


記念館に入り、白虎隊や戊辰戦争の歴史を勉強する。主に「白虎隊」をはじめとする戊辰戦争関係の史料(遺品、遺墨、写真など)を収蔵、展示していて、アニメによる「白虎隊」の解説ビデオなどを見て回る。

飯盛山の山道は長い石段が続いているが、その隣には『動く坂道』(スロープコンベア)があり、山歩きをした後で、らくちんに行こうとスロープコンベア2機を乗り継ぎ、山頂に辿りつく。


まずは、白虎隊自刃の場に立ち寄る。慶応4年(明治元年)~明治2年(1868年~1869年)の戊辰戦争で、会津藩は、15歳~17歳の少年で『白虎隊』を編成し、その中でも、士中二番隊は会津藩校日新館に学ぶエリート隊だった。彼らは明治元年(1869年)8月23日、戸の口原での戦いで決定的打撃を受けて潰走し、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた。だがここから眺めた戦闘による市中火炎の模様、黒煙と炎に包まれる鶴ヶ城を見て、自分達の至らなさで会津をこんな火の海にしてしまったと、いち早く会津の負けを悟り、自ら命を絶ったという悲劇的な場所である。そして、ここに鶴ヶ城方面を眺めている少年の像がある。


少年が眺めている方向には鶴ヶ城が見える(白いアンテナ塔の後ろ)。


イタリー記念碑。1928年に、白虎隊士をたたえてローマ市民からとして、当時のイタリアの首相ムッソリーニから『白虎隊とイタリアのファシスタ党とは、一脈相通じるものがある。』と贈られた石碑が建っている。大きなこの石碑は、赤色花崗岩の古代円柱で、その上部には右足に鉞を持った青銅の鷲が羽を広げている。その碑文には『文明の母なるローマは白虎隊士勇士の遺烈に不屈の敬意を捧げんがため、古代ローマの権威を表すファシスタ党章のマサカリを飾り、永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る。』と記され、裏面には『武士道の精華に捧ぐ、ローマ元老院と市民より』と刻されているそうだ。また、この碑の中心の円柱は、ヴェスヴィオ火山の爆発で埋没したポンペイから発掘した古代ローマ宮殿の柱だという。


広場の奥にあるのが、白虎隊十九士の墓。白虎隊士中二番隊の37名のうち、20名が飯盛山で自刃したが、1人だけ蘇生したため19名の墓があるという。


白虎隊の墓から、下がったところにあるのが、さざえ堂だ。正しくは『円通三匝堂(えんつうさんそうどう)』といい、寛政8年(1796年)に飯盛一族の先祖である飯盛山正宗寺第12世郁堂和尚(いくどうおしょう)によって建立され、西国三十三観音菩薩を安置した六角三層の観音堂だ。




その形が、さざえの殻に似ていることから俗に『さざえ堂』と呼ばれ、階段のない螺旋通路で上り下りができ、上りの人と下りの人がすれ違うことなく一方通行で巡れる世界にも例のない建築で、国の重要文化財に指定されている。


かつてはその独特な2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていた。しかし、明治の神仏分離令で仏像は撤去されてしまっている。


今まであまり関心がなかった会津の歴史を学び、史跡を訪ねることで新たな発見をしたような気持になった。帰る頃には、夕方ちかくとなり駅前のホテルに向かった。

2021福島・日本三百名山登山ツアー:2日目二岐山

2021-05-12 22:50:03 | 山登り
前日宿泊した二岐温泉の柏屋旅館さん。玄関が4階となり、3階、2階が客室で1階が風呂というつくりだ。5つの源泉に5つの湯があり、全ての温泉が自然湧出の源泉かけ流しで、質の良い温泉だ。特に、足元湧出の自噴巌風呂は、湯船の底から生まれたての“湯玉”がぽこりぽこりと外気に触れず噴き出し、新鮮そのものの全国的にも珍しい風呂だった。


車で1時間半ほどの場所に住んでいる知り合いのAさんが、急遽山登りに参加してくれることとなり、宿まで車で来てくれた。二岐山は4人で登る事となった。


当初は、旅館から歩いて二岐山を周回する予定だったが、せっかく車が2台あるので、登山口と下山口のそれぞれに車を置くことにして、私が乗ってきた車を下山口に回し、その後、全員Aさんの車で登山口に向かった。


この登山口は風力発電登山口といい、風力発電施設が近くにあるらしい。二岐山の二つのピークの内の女岳から登るコースとなる。


やはり、この辺りもクマが出没するらしい。


鳥居をくぐり、ブナの森に入っていく。


しばらくは、緩やかな女岳坂を進む。


看板の前で一休みだ。


女岳坂を過ぎると一気に急登となる。


ほぼ真っすぐ坂を上がって行く。ロープがずっと張られており、ロープを掴まないととても登って行けない。


やっと急坂が終わったと一安心して看板を見ると、地獄坂と書いてあった。まさにそのものズバリのネーミングだと思い至った。ここから女岳山頂は間近だ。


休憩して遠望すると、雪を被った大きな山塊が見えた。去年登った飯豊山のようだ。東北のアルプスともいっていい山並みだ。


少し視線を転ずると、猪苗代湖と磐梯山や安達太良山などが見える。東北の名だたる名山が一望出来てよかった。


さて、女岳を目指して進み始めると、一面雪渓になっている場所が出てきた。


まだ、山開きしていないとの事で、雪が多少あるのは覚悟していたのだが、思っていたより積雪が多い、アイゼンを持参していなかったので、慎重に雪渓の上を進んで行く。


雪に埋もれて山頂の標柱が見えないので、多分ここだろうと、山頂記念写真を撮る。


続いて、男岳へのルートを探して、雪渓の上を歩き回る。周辺をしばらくうろうろしていると、女岳山頂1504mの標柱を見つける。最初の場所は、やはり間違っていた。


女岳山頂からは、ルートがはっきりしていたので、迷うことなく男岳を目指して進んで行く。目の前には、大きなピークがどっしりと構えている。


雪渓の端を歩いていく。


女岳から20分ほどで男岳山頂1544mに到着する。二岐山の最高峰だ。二岐山には、男岳、女岳と二つの山頂があるが、その昔、ダイダラボッチという大男がこの山をまたいだとき、股間の一物を頂上に引っ掛け、山が2つに裂けてしまったという、とてつもない巨人伝説が伝わっているという。


南側には、那須連山の最高峰・三本槍岳も見える。


男岳で昼食休憩をしてから、男岳坂を下っていく。


ブナ平には大きなブナの森が広がっている。


あすなろ坂。御鍋登山口まであと430mだ。


八丁坂。御鍋登山口まであと220m。こういう距離表示があるとありがたい。


12:41。御鍋登山口に無事到着する。所要時間3時間49分と、周回で予定していた5時間半を大幅に短縮して下山できた。二つのピークがあり、雪渓歩きや急登を楽しみ、展望がすばらしい面白い山だった。


その後、会津若松市内に向かうが、時間に余裕が出来たので会津若松の観光をしていくことにした。

参考1.二岐山のコースマップ


参考2.二岐山の高低図&コースタイム


「2021福島・日本三百名山登山ツアー:2日目会津若松・飯盛山観光」に続く。

2021福島・日本三百名山登山ツアー:1日目あぶくま洞

2021-05-11 18:37:11 | 観光
大滝根山からしばらく進むと、あぶくま洞がある。ここはもともと石灰岩の採石場で、目の前には採掘の跡が生々しい白い岩山がそびえている。


駐車場を出ると、周りには八重桜や芝桜が咲いている。まだ、この辺りは春になったばかりだ。


入洞券売り場が見えてきた。


長い通路を下っていくと、あぶくま洞の中に入る。ここが、あぶくま洞発見時の入り口だ。この鍾乳洞が発見されたのは昭和44(1969)年。次の採石場を求めて山をダイナマイトで爆破した作業員が偶然見つけたという。開洞は4年後の昭和48(1973)年で、48年前になる。


中に入ると、いろんなネーミングの鍾乳石が出てくる。まずは、妖怪の塔。


恋人の聖地と呼ばれる場所からは、下の方にハートに輝く石の塊が見える。


黄金のカーテン。


滝根御殿。


観音像。


約8000万年をかけて形づくられてきたという大きな鍾乳洞が、この場所に広がっていたとは驚きだ。


あぶくま洞は、鍾乳石の種類と数では東洋一ともいわれるそうだ。


白銀の滝。


樹氷。


龍宮殿。


クリスマスツリー。


出口近くには、ワインセラーがやはりあった。地元・田村市滝根町で採れた山ブドウを使ったワイン「北醇(ほくじゅん)」が貯蔵されている。年間を通して気温変動の少ない洞窟内で半年~1年ほど寝かすと、味がまろやかになるそうだ。


外に出ると、立派な庭園と白い岩山が見える。これもまた絶景である。


あぶくま洞からは、この日の宿となる二岐温泉に向かう。

「2021福島・日本三百名山登山ツアー:2日目二岐山」に続く。