とっちーの「終わりなき旅」

出歩くことが好きで、趣味のマラソン、登山、スキーなどの話を中心にきままな呟きを載せられたらいいな。

2021第11回熊野古道ジャーニーマラニック:本宮道&川端街道編3日目(川湯温泉~飛雪の滝~熊野速玉大社)

2021-11-25 18:41:54 | 熊野古道
川湯温泉から新宮方面行のバスに乗って日足のバス停で下車。前日のゴール地点から、熊野古道の再開だ。


三和大橋を渡る。


三和大橋の袂の鉄階段を下ると、川端街道だ。本宮と新宮を結ぶのが熊野川。院政期に詣でた上皇や貴族たち富裕層は川舟に乗って本宮から新宮まで移動したが、庶民たちは熊野川沿いの川端街道を歩いて新宮に向かったという。ただ、古来の参詣道は県道小船紀宝線の開通により大半が失われてしまっており、舗装道路を歩くしかない。


舟下りの時、説明のあった滝の横を通る。このところ雨が少ないので、水量はわずかだ。


比丘尼転び。熊野比丘尼が転んでそのまま行き倒れになったという言い伝えが残る難所。かなりの急斜面に細い土道があるらしいが、落石防止のネットの中にあり、落石があったら危険なので、説明文だけ読んで舗装道路を進む。


比丘尼転びから15分ほど進むと、道の奥の方に立派な滝が見えてきた。高さ約30m、幅約12mの「飛雪の滝」だ。和歌山藩主徳川義宜(南龍公)がこの滝を誉めて次の漢詩を詠んだ。『重畳千山万水囲 有余秋色有光輝 一条瀑布落厳畔 乱沫随風作雪飛』 (幾重なす山をめぐりて川豊か 物は皆装いこらす秋の色 滝つせの一すじかかる岩の辺の 風ふけばしぶきさながら雪の舞)この詩から「飛雪の滝」と呼ばれるようになったそうだ。


周辺は広場や、トイレ、シャワー、共同の炊事場などの施設・設備も備えた『飛雪の滝キャンプ場』が整備されている。滝つぼに、水着の人たちが飛び込んでいたりして、この時期に凄いことやるなあと思っていたら、近くにサウナがあって、火照った体を滝壺で冷やしていたらしい。


『飛雪の滝キャンプ場』から川原沿いの道を進む。


熊野川のエメラルドグリーンの水面がゆっくり流れている。


道の横に「桧杖城址」と「荘司家の聖石」という看板があったので、見に行く。


桧杖山という社があったが、何が祀られているのか分からず、桧杖城址もどこにあるかもわからず引き返す。


川端街道の終盤になった頃、熊野川の中に小さな島が見えてきた。世界遺産にも登録されている熊野速玉大社の境内の一部で、熊野速玉大社の例大祭「御船祭(みふねまつり)」で祭礼の場となる“御船島”だ。

 
御船祭では、9隻の早船が御船島を3周する早船競漕(きょうそう)を繰り広げるそうだ。


前方に新熊野大橋が見えてきた。あの橋を渡れば、新宮市内となり、熊野速玉大社も間近だ。


橋を渡り、熊野速玉大社に最後の参拝に向かう。


本殿前で、最後の記念撮影。ほぼ1年かけて、熊野古道の伊勢路、中辺路、大辺地、小辺路、紀伊路、本宮道&川端街道のすべてを走破できた。最初は、全てまわろうという野望が簡単に叶えられるとは思ってもいなかったが、多くの仲間が一緒に参加してくれたおかげで、無事に完全制覇できたのは、とても嬉しい。色々アクシデントもあったが、仲間がいたからこそ乗り越えられたことも数知れず。さて、次はどこのロングトレイルに行こうかな。




参考1.3日目の高低図&タイム


参考2.3日目のコースマップ

2021第11回熊野古道ジャーニーマラニック:本宮道&川端街道編2日目(丸山千枚田~楊枝薬師堂~川湯温泉)

2021-11-24 18:56:20 | 熊野古道
通り峠を下りると、丸山千枚田の入り口だ。大きな看板には、千枚田の案内図が描かれている。


道を下って千枚田の中に入っていくが、まだ、辺り一面霧に包まれている。


下りるにしたがって、千枚田の一角が姿を現してきた。




千枚田の一角には、丸山神社があり、石凝姥命(いしこりどめのみこと)が祀られている。この神様は鍛冶の祖、あるいは石の神といわれている。丸山神社にこの神様を祀った理由は明らかではないが、棚田の石垣、熊野古道の石畳、鉱山の発展を考えると、むしろ石工職人が多い土地柄だったことが想像され、千枚田の石垣づくりにその知恵が活かされた可能性が高いという。




次第に霧が晴れてきて、スケールの大きい千枚田が目の前に広がってきた。日本の棚田百選に選ばれた「丸山千枚田」は、1340枚の規模を誇る日本最大級の棚田であり、その景観は日本一と称されている。




約400年前には2240枚の田畑があったという記録が残されているが、平成初期には後継者不足等により530枚まで減少してしまった。平成6年に「丸山千枚田条例」の制定、そして地元住民らの協力により復田作業が行われ、現在は1340枚の規模が維持保存されているそうだ。


今の時期は、稲刈りが終わり何もない状態だが、名探偵コナンの案山子がワンポイントで目立っている。


途中には、テントの休憩所があり、干し柿が吊るされていた。お茶も用意されており、住民や観光客も一息つける場所だ。


さらに下りていくと、野球選手の案山子が見える。近くまで行って見ると、なんとエンジェルスの大谷選手の案山子だった。しかも、その前には“MVP!MVP!”の看板。何とタイムリーな案山子だろう!前日MVPの受賞が発表されたばかりで、もう看板が掲げられていたとは驚きだ。


大谷選手と記念写真を撮る。


千枚田の中央部には、大きな岩(案内板には大岩と書かれている)が鎮座している。とても大きな岩が、転げ落ちることなく、棚田のヘリで止まっている。岩の表面にはコケが生い茂り、相当古さを感じさせられる。どこから来たのだろうか、不思議な大岩だ。


千枚田を抜け、山の中をさらに進んで行く頃には、霧がすっかり晴れ、雲一つない青空が広がっていた。


この後は、舗装道路と熊野古道(本宮道)が何度も交差する。


古道として残っている場所は、分断されて数百mずつしかなく、6か所ほどに分かれていたが、それぞれ古道らしい雰囲気が残っていた。


展望台から、周りの山々を見る。


白い観音菩薩様が見えてきた、手に柄杓を携えた仏さまで、福杓観世音菩薩と呼ぶそうだ。


楊枝橋まで来ると、もう熊野川は目の前だ。時間に余裕があったので、楊枝の渡し跡の先にある楊枝薬師堂まで足を延ばす。


昔、後白河法皇の頭痛平癒のため、京都三十三間堂の棟木として、楊枝の里にあった柳の大木が切り出された。その切り株の上にお堂を建て、柳の枝で彫った薬師仏を祀ったのが起こりと伝えられる。頭痛山平癒寺とも言い、町の文化財に指定されている。


楊枝薬師堂のモミジが見事に色付いていた。


再び楊枝橋まで戻り、熊野川にかかる三和大橋を渡る。


14:10。バスの時間に間に合わせようと最後の10分ほどを真面目に走る。何とかバスの時間ギリギリで日足(ひたり)のバス停に到着する。さいわい、バスの到着が遅れていたので余裕で乗ることが出来た。


日足から請川のバス停まで乗車し、請川からは1.9キロほど歩き、川湯温泉に到着する。川湯温泉は、熊野川支流の大塔川にあり、川原を掘ればたちどころに“My 露天風呂”ができることで全国でも珍しい温泉だ。川底から絶えず湧き出す70度以上の源泉に、熊野川の支流大塔川が混ざり合い、程良い温泉が出来上がる。例年冬(12月~2月)には川を一部せきとめ日本一大きな露天風呂「仙人風呂」がオープンするという。残念ながら、今回は「仙人風呂」に入れなかったが、ホテルの川原の露天風呂で最後の熊野古道の温泉を楽しんだ。

参考1.2日目の高低図&タイム


参考2.2日目のコースマップ


「2021第11回熊野古道ジャーニーマラニック:本宮道&川端街道編3日目(川湯温泉~飛雪の滝~熊野速玉大社)」に続く。

2021第11回熊野古道ジャーニーマラニック:本宮道&川端街道編2日目(尾呂志~風伝峠~丸山千枚田入り口)

2021-11-23 18:34:50 | 熊野古道
7時前。早い朝食を済ませ、宿の外に出ると凄い光景が広がっていた。みんな、急いでスマホで景色を撮りだした。


山の上から、朝霧が次々に湧き出し、風に乗って尾呂志地区に滝のように流れ出しているのだ。


この辺りでは「風伝おろし」と呼ばれている現象だ。盆地で発生した霧が風に乗って熊野古道・風伝峠を下り、暖かい海側の地域に下りてくる現象である。秋から春にかけて時々発生するそうだが、まさか、ジャストタイミングでこんな景色が見られるとは思わなかった。


7時ちょうどに、Mikan Hotel横の「ここからかふぇ」前からスタートする。




道路に出ると、風伝おろしの状況がさらに良く見えてきた。


青空の元、山の斜面に沿って霧が流れ出しているのがはっきり見える。


こんな景色は、見ようと思ってもなかなか簡単には見られるものではない。地元の人に聞くと、この日の風伝おろしは、結構見事な現象だったらしい。


風伝おろしを横目で眺めながら、霧の発生源となっている風伝峠に向かう。


山の中に入っていくと、風が強くなってきた。


石畳が残る風伝峠道を進む。




風伝峠を通り過ぎる。


峠から下っていく道は、白い霧に包まれている。


一旦国道に出る。


しばらく進むと、「丸山千枚田」の大きな看板があり、通り峠登り口方面に向かう。


通り峠から、千枚田展望台に向かう。霧の隙間から光が差し込んでいるのが幻想的だ。


展望台に着くと、丸山千枚田のある盆地の中は、一面白い雲海に覆われている。千枚田の景色は全く見えないが、この景色も絶景である。




雲海の中にうっすらと山の影が映っているのがわかる。


標高300m前後の山間で、こんなに凄い雲海が見られたというのも驚きだ。この雲が、風に流され風伝峠から尾呂志地区に流れ出していたという訳だ。


展望台から通り峠に戻り、丸山千枚田の入口に向かう。


「2021第11回熊野古道ジャーニーマラニック:本宮道&川端街道編2日目(丸山千枚田~楊枝薬師堂~川湯温泉)」に続く。

2021第11回熊野古道ジャーニーマラニック:本宮道&川端街道編1日目(熊野市駅~横垣峠~尾呂志)

2021-11-22 21:48:44 | 熊野古道
いよいよ最後の熊野古道になった。1日目は、熊野市駅をスタートして、伊勢路の復習だ。


しばらくは、国道42号線の海沿いの道を進む。


獅子岩。巨大な獅子が海に向かって咆哮するような姿をした高さ25mの奇岩の横を通り過ぎる。国の名勝・天然記念物だ。


花の窟神社近くの道の駅でランチ休憩をした後、その脇から本宮道に入る。真っすぐ進むと以前進んだ浜街道で、山側に進む道は、本宮大社への近道となる本宮道だ。

1時間ほどで産田神社に到着する。多くの神々を生んだイザナミノミコトは、最後に火の神カグツチを生み落とし、陰部を焼かれて亡くなってしまうが、その墓所が花の窟であり、イザナミが火の神カグツチを生んで亡くなった場所がここだと伝えられている。また、鳥居の前には「さんま寿司発祥の地」と書かれた柱がある。


鳥居から社務所までのたたずまいは花の窟に似ている。やはり花の窟と産田神社はセットでお参りするのがよいらしい。


天保8年(1837)の飢饉を供養するために建てられた碑があるらしいのだが、どこにあるかわからなかった。


途中でミカンの無人販売所があり、案山子と一緒に記念撮影。


みかん畑の横から横垣峠への登り口に向かう。


コスモス畑がきれいだ。


やっと古道の雰囲気が漂う道になってきた。


横垣峠道の入り口だ。




水壷地蔵とも呼ばれる地蔵の横に、弘法大師がここを通った際、杖で穴を開けて水を出したという伝説の湧き水がある。




14:40。横垣峠に到着する。峠には東屋が整備されており休憩スポットとなっている。


横垣峠からは、この地特有の神木流紋岩が敷き詰められた石畳を下っていく。


展望が開けた場所からは、紀州犬の里としても知られ美しい山里の風景が残る御浜町の阪本集落が見えてきた。




作業現場の横を通過する。


再び尾根道に入る。


折山地蔵の横を通る。




この辺りの石畳は、これまで土中に埋もれていたが、地元の人々が発掘して日の目を見ることになったそうだ。


御浜町阪本は紀州犬のふるさととして有名で、「弥九郎とマン」という紀州犬に関する伝説が残っている。弥九郎は実在した人物で、阪本にある岩洞院というお寺に弥九郎のお墓が残っている。紀州犬の祖先とされるマンはオオカミの血を引いていたが、飼い主には従順で、飼い主以外には気性が荒い面を出すという。そうした紀州犬の性格から、多くは狩猟犬として飼育されているそうだ。


1日目のゴールは、尾呂志地区のMikan Hotelだ。「Mikan Hotel」は、休園となっていた保育園を改装した施設「御浜ローカルラボ」内に2018年にオープンした宿泊施設である。海と山に囲まれた御浜町は、気候が温暖で、1年を通してたくさんの種類のみかんが採れるため「年中みかんのとれるまち」と呼ばれていることから名前が付いたらしい。夕食は、隣接するカフェ「ここからカフェ」内で済ます。


夕食の後は、元お遊戯室だった場所で卓球やビリヤード、ダーツなどを楽しむ。


参考1.1日目の高低図&タイム


参考2.1日目のコースマップ


「2021第11回熊野古道ジャーニーマラニック:本宮道&川端街道編2日目(尾呂志~風伝峠~丸山千枚田入り口)」に続く。

2021第10回熊野古道ジャーニーマラニック:紀伊路編その2-2日目(印南~紀伊田辺)

2021-11-09 19:57:52 | 熊野古道
2日目の朝。朝食前に宿の裏手の浜を散策する。夏場は、マリンレジャーで賑わう場所だ。ドラえもんのどこでもドアを開けると、非日常の世界に入って行けるという事なのだろう。


浜辺に沿って進むと、大きな岩壁があり、ロープに伝ってよじ登る。


一番上まで登ってみると、近くの無人島と青い海原が広がっている。


再び宿に戻り、大きな屋外デッキを散策する。ハンモックに揺られながら海を眺めたり、プールで遊ぶことができるようだ。


南国を意識した建物とバーベキュー場。


9:10。朝食を済ませ、2日目のスタートだ。


斑鳩王子。国道沿いにあり、熊野九十九王子の中でも最も創立の古い神社だ。この辺りの地名を光川というのは「イカルガ」から転じて光川の字を当てたからだろうと言われている。


斑鳩王子から500m先にあるのが切目王子(きりめおうじ)だ。


藤代王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子とともに五体王子の一つである切目王子は、こんもりとした森の中にあり、境内には県指定の天然記念物で樹齢約300年のホルトノキがそびえたっている。


本殿の裏手に回ると、いいものが見られるという事で、裏手に回ってみる。


注連縄の紙垂の間から奥を覗くと、板の節目の模様が人の顔らしきものに見える。解説によると、これは七福神の一人である寿老人(じゅろうじん)であり、長寿を授けてくれるありがたい神様だという。


石垣の立ち並ぶ、こんもりとした森の中を進む。


切目中山王子へは、切目橋からJR切目駅北のガードをくぐり、榎木峠を1km程登っていくと、手前に宝篋印塔があって、立派な鳥居と石柱がたっている。


切目中山王子は、昔から「足の宮」、島田の「足神さん」と呼ばれ、足の病気に霊験あらたかな神として崇められているそうだ。その由来は、昔一人の山伏が熊野詣りから帰る途中、島田まで来たところで 持病の足が悪くなった。痛む足を引きずりながら山伏はやっとのことで谷の入り口までたどりついたがとうとうそこで息絶えてしまった。山伏は里人らによってねんごろに弔われたが、不思議なことに埋葬した頭の上に大きな石が出てきた。里人はそのことに霊力を感じ、その石を祭神として祀り、足痛を治してくれると信仰するようになったと言われている。


有間皇子結松記念碑。斉明4年、蘇我赤兄の陰謀にかかり、謀反のかどで捕られた有間皇子は紀温湯に旅行されていた斉明天皇と中大兄皇子(天智天皇)のもとに護送される途中、松の枝を引き結び、2首の歌を詠まれ自分の無事を祈ったが、帰途「藤白坂」で、19歳という若さで絞り首にされてしまった。




JRの線路を渡り、浜辺にある岩代王子に向かう。


岩代王子は、熊野九十九王子の中でも、最も早くから知られた有名な王子社だ。ここからは大海原を背景に続く美しい砂浜を望むことができ、その浜辺は千里王子へと繋がっている。


海をバックに鳥居前で記念撮影。


今は、砂浜沿いに千里王子には行けないとのことで、JRの線路まで戻ると、ちょうど特急「くろしお」が通り過ぎて行った。


大きく迂回して、JRの高架下を抜けると、再び砂浜に出てきた。


美しい砂浜を歩く。


桓武天皇が廷暦年問(782~806)に鎮座したと伝えられている千里王子神社。浜で貝を拾って社殿に供える風習があったことから貝の王子とも称されている。また、千里王子前には、千里安産観音(通称やすらぎさん)があり、子宝を願う夫婦も訪れるそうだ。


三鍋王子。建仁元年(1201)後鳥羽上皇が参詣の折に、絹6疋、綿150両、馬3疋を奉納したほどの大社。地下には弥生中期の遺跡があり、また桃山時代の地鎮具が出土したという。


芳養王子。藤原宗忠が天仁2年(1109に参詣したと日記「中右記」に記すなど、多くの文献に名が残る王子で、今は大神社となっている。このあたりから田辺の街中となり、中辺路や大辺路の別れ道にも近くなる。




紀伊路最後の出立王子(でだちおうじ)。熊野詣においてこの地での塩垢離(潮垢離)は特に重要視されたと伝えられている。


15時。出立王子の近くの銭湯に入ってから、紀伊田辺駅に向かおうと思っていたが、開くのが16時からとなっていたので、止む無くそのまま紀伊田辺駅まで向かう。


予定よりも1本早い特急「くろしお」に乗ることが出来、紀伊路の旅が全て完了した。残りは、最後の熊野古道「本宮道&川端街道」のみとなった。

参考1.2日目の高低図&タイム


参考2.2日目のコースマップ

2021第10回熊野古道ジャーニーマラニック:紀伊路編その2-1日目(御坊~印南)

2021-11-08 21:57:50 | 熊野古道
2週続けての紀伊路だ。JR御坊駅で下車する。


御坊駅を出て、前回の終点だった場所に向かう。


途中の道の脇には、宮子姫の大きな像がある。ここは、別名「髪長姫」とも呼ばれた宮子姫の生誕地になるという。


ここで、宮子姫の伝説を紹介しておく。
【宮子姫物語】
九海士の里に住む海女の夫婦のもとに、女の子が生まれ「宮子」と名付けられた。しかし、大きくなっても宮子には髪の毛が生えなかった。あるとき宮子の母が、海の中から小さな観音像を見つけて、毎日お参りをした。すると宮子の髪の毛が生え始めたのだ。その後、長くきれいな黒髪がきっかけで、藤原不比等の養女に迎え入れられ、後に文武天皇の妃となり、聖武天皇の母となった。このことから、宮子姫は「髪長姫」とも呼ばれている。
宮子は黒い長い髪を授けてくれた観音様をお祀りしたいと文武天皇にお願いした。天皇は紀道成に命じて立派なお寺をつくらせた。それがあの道成寺だというのである。

前回のゴール地点である、海士王子に到着する。ここからが、前回の熊野古道の続きだ。


岩内コミュニティセンターの敷地内には、岩内王子(焼芝王子)跡の石柱が立っている。


塩屋王子に到着する。この辺りは古くから製塩が行われていたらしく、塩屋の名前はそこから来ているようだ。


長い石段を登る。


塩屋王子にお詣りしていく。塩屋王子は、別名「美人王子」とも呼ばれているそうだ。何故かというと、主神の天照大神の神像があまりにも美しいことから呼ばれるようになったという。


塩屋郵便局を過ぎ、少し奥に入ったところにある光専寺には、大きな柏槙(ビャクシン)が枝を大きく広げている。和歌山県指定の文化財だ。




小高い丘に上がると、和歌山の海が見えてきた。


朽ち果てたビニールハウスの横には、清姫の草鞋塚の石碑が立っている。清姫が安珍を追って来たとき、そこにあった松の大木に登って安珍の行方を見ると、もう日高川を渡っていた。そこで清姫は草履を脱ぎ捨てて(草履を松の枝に掛けたともいう)、はだしで安珍を追ったという場所だ。既に石碑は傾いており、なんだか物悲しい雰囲気がする。


海岸沿いの国道を進む。


“お首地蔵尊東へ一丁”の道標があり、気になって、お首地蔵尊を見に行く。境内には、ちょうど若い住職と子供たちがいて、地蔵尊の謂れを聞く。


お首地蔵尊は天保10年ごろ、この地に住む百姓が、開墾中に一基の石棺を掘り当てた。その石蓋を開けたところ、底には、生けるが如きミイラ化した古い武士の首が現れた。百姓は、腰も抜かさんばかりに驚いたが、このお首様を丁重に壷に納めて、観音寺の境内にある「柏槇」の木の元に安置した。その後、お首さんを拝む者が皆、首から上の病気が治ったことから、観音寺境内の延命地蔵尊と合祀して、御首地蔵尊としたのだという。


次に向かったのは、仏井戸だ。仏井戸は、地下の水中に三尊の石仏を祀る石組遺構である。石仏は、幅61cm、高さ46cmの一石の中央に阿弥陀如来座像(中央)、地蔵菩薩立像(向かって左側)、観音菩薩立像(向かって右側)の三仏を配置している。普段は、地下水中に没していて、大変珍しいものだ。


井戸の周りは囲われていて、仏様が見えるか覗き込んでみる。


井戸の中は、水が溜まっていて、残念ながら仏様は見えなかった。


清姫の腰掛石。中辺路の真砂の荘から逃げた婚約者の「安珍」を追いかける途中、この石に腰掛けて清姫が休息したのだといわれている。


叶王子は、印南港を見下ろす所にあり、名称に由来して「願いが叶う」といわれている。




印南漁協を過ぎ、国道に出たところが、この日のゴールとなるMARINE-Q。グランピングバーベキューやジェットスキー、シュノーケリングなどを体験できるほか、獲れたての魚介やオリジナルカクテルなどを楽しめるカフェ&バーを完備した複合型マリンリゾートだ。


マリンレジャーを楽しむ時間はなかったが、屋外のウッドデッキで、バーベキューを楽しむ。屋外ながら、炭火を囲んでいるので、思いのほか温かかった。




参考1.1日目の高低図&タイム


参考2.1日目のコースマップ


「2021第10回熊野古道ジャーニーマラニック:紀伊路編その2-2日目(印南~紀伊田辺)」に続く。

2021第9回熊野古道ジャーニーマラニック:紀伊路編その1-3日目(湯浅~御坊)

2021-11-05 19:18:19 | 熊野古道
3日目は、朝から雨模様。雨具を着て早めの出発とする。夕食・朝食とも近くのスーパーで買い込んできたもので済ましただけなので、いつもより早めに出ることが出来た。


我々が泊まった宿の隣も、同じような古民家をリノベーションした宿だ。


雨の中、『重要伝統的建造物群保存地区』の通りを進む。


立石道標。熊野古道沿いに天保9年(1838年)に建てられた2.35メートルの大きな石の道標。四角い石の面には、東西南北の方角と「きみゐでら(紀三井寺)」「すぐ熊野道」「いせかうや(伊勢高野)」などと巡拝地名が記されており、各地へ巡礼をおこなう人々の道しるべとなっている。


紀伊国屋文左衛門の顕彰碑。嵐の中みかんを紀州から江戸まで運び富を築いたという「みかん船伝説」の残る、江戸時代の豪商「紀伊国屋文左衛門」の顕彰碑だ。文左衛門は湯浅町別所地区の生まれという説があり、この碑は現在のパナソニック株式会社の創業者である故 松下幸之助氏により奉納された。


井関地区に入ると、石垣に江戸末期の村の絵図が描かれていた。個人名の旅篭が多くあり、当時は栄えていたことがよくわかる。


河瀬(ごのせ)王子社跡。古い文献では「角瀬」あるいは「津の瀬」という王子社名だが、江戸時代の村名が河瀬であったことから、「ごのせ王子」と呼ばれるようになったそうだ。


紀伊路最大の難所として知られる鹿ケ瀬峠(大峠)への上りの手前にあるのが、地蔵時にある「汗かき地蔵」だ。峠へ上る人の背中を押して助けたので額に汗をかいているという伝説が残っている。


坂をグングン上っていき、峠まで710mの道標を過ぎると、野生動物除けのゲートを通り抜ける。


峠近くにある地蔵は、「痔の神地蔵」といわれるとともに、「縛られ地蔵」とも呼ばれ、尋ね人がみつかるよう、この地蔵に縄を掛け、見つかると縄を解く風習が続いているという。


鹿ケ瀬(ししがせ)峠に到着する。太平記、源平盛衰記など軍記物にも散見されるように軍事的にも要害の地であったため、古い山城の跡も残されている。また、江戸時代には茶屋もあったようだ。




小峠からの下り道は、熊野古道で現存する最長の石畳道(全長503メートル)である。


平らな石を選んで綺麗に敷き詰めた石畳は長いだけでなく美しく、このように古くて綺麗な石畳道は他にはない。


石畳道の終点まで来た。下りで石畳道を歩くのは、結構膝に来るので、終わってホッとする。


沓掛王子跡。峻険な峠越えの後では沓(わらじ)も相当に傷んでしまう。そこで、ひと休みして沓をかけ直したのでこの名がある。


四ツ石聖蹟地。この場所には4つの石があり、後鳥羽上皇が小憩した際、公卿たちと共にこれらの石に腰掛けられたので「四ツ石聖蹟地」と伝えられている。


四ツ石聖蹟地の後ろの田んぼに人がいるように見えたので、よく見ると案山子だった。あまりにもリアルなのでビックリ。


内ノ畑王子跡。藤原定家が木の枝を刈って槌をつくり、榊の枝につけて内ノ畑王子に奉納したと「御幸記」に書かれていることから槌王子ともいう。


高家王子跡。現在は、内原王子神社となっている。トイレや広場もあり、ここでランチ休憩する。


善童子王子跡。連同寺王子、田藤次王子、伝童子王子、出王子、出童子また若一王子とも呼ばれ、人間の耳のあいまいさに加え紀州の人々の発音の特徴を物語る呼び名が一番多い王子だという。また、善童子神社として祀られ、女性が願うと良い子が授かれるということから「よい子の神社」とも呼ばれている。


そして、この旅の最後は、安珍清姫伝説で有名な道成寺で締めくくりだ。まずは、山門前で記念撮影。


安珍清姫伝説で有名な釣鐘は、通常、道成寺にはないそうなのだが、今回はたまたま所蔵する京都市の妙満寺から17年ぶりに「里帰り」していた。鐘を寄進した地元の豪族逸見万壽丸(まんじゅまる)の生誕700年に合わせて、道成寺が企画、妙満寺が快諾したもので、10月24日から約1か月間、一般に無料公開されるようになったというのだ。


道成寺の名物は、安珍清姫物語の絵解き説法があることだ。まずは、宝物殿に入り、道成寺の由来、宮古姫の物語などを聞いた後、絵巻物を広げながらの安珍清姫物語を興味深く聞く。この物語を要約すると、こんな感じだ。
“平安時代、熊野詣に訪れた修行僧・安珍に恋した清姫が、失恋の痛手から大蛇となり、道成寺の釣り鐘の中に隠れた安珍を、鐘ごと焼き殺したとされる悲恋の物語”

一方、万壽丸は、南北朝時代の南朝方で武勲を上げて同寺周辺を含む矢田庄の領主となった。焼失したとされる鐘を復元し、同寺に寄進した人物だが、万壽丸が寄進した2代目の鐘は、復元後、音がこもったり、疫病がはやったりしたことから、清姫のたたりと恐れられ、山中に埋められた。1585年の豊臣秀吉の紀州攻めの際に戦利品として持ち去られ、妙満寺に納められたとされている。

説法を聞いた後、いよいよ本堂に向かい、釣鐘と対面だ。


本堂の前に安置されているのが、伝説の釣鐘である。高さ1.1メートル、重さ約250キロの青銅製だ。これが、あの釣鐘かと思うと感慨深い。


三重塔の西側には、安珍の霊を慰める安珍塚がある。石碑とその傍に塚のしるしとされている「榁(むろ)の木」が植えられている。榁の木は枯れて「蛇榁」といわれている。


道成寺を出てから、御坊駅近くの日帰り温泉に寄って汗を流してから、御坊駅で電車に乗って帰路についた。

参考1.3日目の高低図&タイム


参考2.3日目のコースマップ

2021第9回熊野古道ジャーニーマラニック:紀伊路編その1-2日目(湯浅町並み散策)

2021-11-04 21:45:37 | 観光
湯浅は中世にさかのぼる醤油醸造発祥の地といわれ、近世以来、有田地方の政治経済の中心地として栄えてきたという。山田川の河口辺りまで来ると、醤油の匂いがプンプンと鼻につく。


醤油の起源は、遥か中世の時代、中国に渡り修行を積んだ禅僧が伝えた特別な味噌に始まる。この味噌の桶に溜まった汁に紀州湯浅の人々が工夫を重ね、生まれたのが現在の醤油である。


湯浅に残る唯一の醤油醸造元、角長の職人蔵。江戸末期の仕込蔵を利用。醸造道具、製造法などの資料類を展示保存している。また、明治時代にパリ万博に出品された陶器の醤油瓶が、出展当時のまま中身の入った状態で展示されている。


古民家の一部では、お雛様が展示されてもいる。


こちらは、角長の醤油販売所。これら建物の周辺には伝統的建造物群が残り、「湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区」の名称、種別「醸造町」で、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。この東西約400m、南北約280mの保存地区には醤油・味噌醸造業関係の町家や蔵など現役の古建築が多く残っており、ぶらぶらと町歩きするには、いいところだ。


この日、我々が泊まるのは、湯浅重要伝統的建造物群保存地区に佇む築130年を超える古民家だ。昔ながらの造りの町屋をリノベーションした1棟貸し切りの宿だ。


中には、土間があり、吹き抜けもあり、天窓もある。宿泊用として改修の際に、壁などはほとんどが新しく塗り替えられているものの、自然木をそのまま活かした柱や梁、味わいのある煤けた壁もわずかながら残っている。


和室の奥には、ベッドが二つあり、見た目はちょっとしたホテル並みの雰囲気だ。


階段を上がると2階にも広い和室があり、最大4人が寝泊まりできる。


台所や風呂、トイレなどは近代的な設備が揃っており、快適な空間が広がっている。残念ながら素泊まりで宿泊料はなかなかの値段だが、いつもの宿とは違った雰囲気でゆったりとした豊かな時間が過ごせた。

「2021第9回熊野古道ジャーニーマラニック:紀伊路編その1-3日目(湯浅~御坊)」に続く。

2021第9回熊野古道ジャーニーマラニック:紀伊路編その1-2日目(海南~湯浅)

2021-11-03 23:14:31 | 熊野古道
7:50。ホテルを出ると、前日の続きが始まる。


JRの線路を抜けると最初に出てくるのは、祓戸王子だ。古くは熊野一ノ鳥居があった場所と考えられており、聖域に入る直前に身を清める潔斎所であったという。熊野本宮大社のすぐ手前にも同名の王子(祓戸王子)があり、同様の役割を担っている


藤白王子の手前にあったのが、鈴木屋敷だ。熊野信仰を広めた神官の一族である藤白鈴木氏がかつて居住していた屋敷だとされていて、全国で二番目に多い「鈴木」姓の発祥の地とされている。屋敷の前には「曲水園」という、日本庭園があるが、ちょうど改修工事中で中に入ることはできなかった。


藤白神社内にある藤白王子跡。


藤白神社は、熊野参詣道(熊野古道)紀伊路の藤白王子跡として、熊野一の鳥居 (熊野の入り口)と称されている。また、鈴木姓発祥の地として、鈴木に纏わるものがいろいろあり、メンバーの中にいる鈴木さんも大変うれしかったようだ。


藤白神社から熊野古道を南に向かった藤白坂の登り口に悲劇の皇子、有間皇子の墓碑と皇子が詠まれた歌碑がたっている。有間皇子は、皇位継承争いのなか謀反をそそのかされ、藤白坂で絞殺された。この有間皇子の墓碑とならんで、有間皇子が詠んだ歌碑がある。
「家にあれば けに盛る飯を草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」(万葉集巻8)


藤白坂から長い峠道を登る。この日最初の峠越えだ。


展望が開けた場所から、風光明媚な和歌浦の海に浮かぶ人工島「和歌山マリーナシティ」が良く見える。


竹林の中を進んで行く。


筆捨松。平安時代の初め、宮廷の絵師・巨勢金岡(こせのかなおか)が熊野権現の化身である童子との絵の書きくらべをして負け、くやしさのあまりもっていた筆を松の根本に捨てたといわれている。


筆捨松の故事にちなんで、初代紀州藩主徳川頼宣公が筆捨松のそばに硯石を作らせたという。大きな硯石だ。


藤代塔下王子跡。険しい山道である藤白坂の急坂を上りつめた峠の地蔵峰寺境内にある。


峠を下ると、橘本王子だ。


みかん発祥の地。橘本神社の近くにある六本樹の丘は、西暦七一年頃、みかんの原種「橘」が我が国に初めて移植された場所と伝えられている。


橋本神社近くにある福勝寺。開基は弘法大師空海で、806~810年開創とされ、1200年を越える歴史由緒のあるお寺だ。このお寺の境内奥にある“裏見の滝”は、高さ20m、幅30mあり、滝の裏側から眺められる。


滝の奥は洞窟になっており、そこには弘法大師彫刻とされる不動明王が鎮座している。


滝の水が、岩に落ちていくところにちょうど日が当たり、虹が出現していた。この日は何かいいことがありそうだ。


滝の手前に杉の大木があるが、昔ここに天狗が棲んでいて、滝に近い本堂の縁側に天狗の手形とされる“窪み”がある。


集落の中まで行くと、ちょうど移動販売のトラックが来ていたので、行動食代わりにはんぺんを1枚買って食べる。


二つめの峠である拝ノ峠から少し下ると、蕪坂塔下王子だ。


蕪坂塔下王子から少し下ったところにあるのが、太刀の宮だ。江戸初期に、真田幸村に招かれて大坂夏の陣に参加した宮崎定直が、淀君の思し召しが良くなく、この地に戻ってきた。疲労のあまりに寝入っていた定直を追手が襲うと、腰の太刀が自然と抜け出し大勢の相手を切り倒したという伝説がある。真っ二つに折れていた太刀を祀った祠がここで、以後、木刀を奉納する習慣が残っているそうだ。


爪かき地蔵。お堂の中に幅4メートルほどの大岩があり、弘法大師が熊野へ参詣する際に生爪で彫り付けたと伝えられる阿弥陀如来と地蔵菩薩像が線彫りされている。


阿弥陀如来と地蔵菩薩像がどれなのかよくわからないが、何やら描かれているのはわかる。


山口王子跡。


その後、山口王子社跡広場でランチ休憩する。


有田川の宮原橋を渡る。


宮原橋からしばらく進むと、得生寺がある。藤原豊成の娘「中将姫」ゆかりの寺院だ。姫の従臣伊藤春時(剃髪して得生)が創設した草庵が寺となり、安養院と号したのが始めといわれる。毎年5月14日には、「中将姫会式」が行われ、5歳から12歳までの25人が菩薩の面をつけ、袈裟や緋の衣をつけて25菩薩になって開山堂から本堂へ練り歩くそうだ。


逆川王子。湯浅湾に流れ込む山田川の支流のひとつで王子の近くを流れる逆川は、郡内の他の川が西に向かって流れるのに、この川だけが東に向かって流れることから逆川の名が付き、後に周辺の地名ともなったという。


ここから山田川沿いに進み、湯浅駅までには向かわず、湯浅町の宿に向かう。2日目のゴールは湯浅町だ。走行距離は約20キロで、日没までには、まだ2時間ほどあり湯浅の町並みを散策する。

参考1.2日目の高低図&タイム


参考2.2日目のコースマップ


「2021第9回熊野古道ジャーニーマラニック:紀伊路編その1-2日目(湯浅町並み散策)」に続く。

2021第9回熊野古道ジャーニーマラニック:紀伊路編その1-1日目(山中渓~海南)

2021-11-02 22:46:40 | 熊野古道
3か月ぶりに熊野古道ジャーニーマラニックを再開した。暑い夏場の時期を避け、秋からの再スタートだ。今回は、大阪の最南端阪南市山中渓から和歌山県御坊迄の約75キロを3日間で走破する。

9:50。山中渓駅で下車して紀州街道入り口に向かう。


400mほど進むと、紀州街道の入り口だ。


大阪市内から南下し、本市山中渓、雄ノ山峠を越え、和歌山へ抜ける道は、近世期以降に紀州藩の参勤交代のため整備され、「紀州街道」と呼ばれた歴史ある道だ。


山中渓・田中家住宅(旧庄屋屋敷)。築後150年以上といわれる江戸時代の建物で、広大な敷地には勇壮な構えの屋敷や土蔵、広い庭園等があり、泉州路屈指の屋敷だという。


山中渓駅前に再び戻る。工事中で味気ない。


山中関所跡。南北朝時代の古文書によると山中の地に関所があったらしい。当時の関所は、通行する人馬や荷物から通行税を徴収していた。山中の地は熊野街道の要所で、関所を設けるのにふさわしい場所であったようだ。


境橋まで来ると“日本最後の仇討ち場”という石碑がある。仇討ちとは、親兄弟などを殺した者を討ち取って恨みを晴らすことで、江戸時代、武士階級で慣習として認められていたが、国の近代化に伴い廃止されたわけだが、日本で最後にオフィシャルな「仇討ち」が為された場所が、ここである。
幕末の安政4年(1857)、土佐藩士・廣井大六は棚橋三郎との口論の末切られ、川に投げ込まれて命を落とした。三郎は藩を追放され、大六の一人息子・岩之助は、父の仇を討つため三郎を探す旅に出た。当時は既に仇討ち禁止令が出されていたが、岩之助の並々ならぬ決意におされ、翌年の安政5年(1858)、勝海舟の取り計らいによって「仇討ち免許状」が交付されたという。その後、三郎が加太に潜んでいることを知った岩之助は、紀州藩に仇討ちを願い出た。それをうけた奉行所が「三郎を国払いとし境橋より追放するので和泉側にて討つべし」としたため、和歌山と和泉(大阪府)の国境である紀州街道の境橋の北側で、岩之助は見事父の仇を討ったのだそうだ。時は文久3年(1863)、時代が江戸から明治へと移る5年前の出来事だった。こうして境橋は、日本で許された最後の仇討ちの場所となった。


以後は、熊野古道だけあって王子社巡りの旅となる。最初は中山王子。


雄ノ山峠の不動明王の祠。


雄ノ山峠を越え集落が近くなったところにある山中王子跡。「紀の関守」を詠う万葉歌の歌碑がある。


山口神社。熊野古道の側にあり、山口王子や白鳥神社等を合祀している。


山口神社の鳥居。


鳥居からすぐ先にコンビニがあり、駐車場の片隅でランチ休憩する。


川辺王子旧跡。藤原定家の日記に出てくる王子で、祭神は力侍神社に遷座している。現在王子跡には小さな祠が祀られている。


力侍(りきし)神社。熊野古道九十九王子社の一つ・川辺王子跡として史跡に指定されている。


吐前(はんざき)王子跡。


川端(かわばた)王子は布施屋駅の南西にある。近世には一帯の氏神であったが,明治末年に近隣の高積神社に合祀された。江戸時代の銘がある石灯籠2基がある。


旧中筋家住宅。敷地の東側が熊野古道に面しており、江戸時代後期の和佐組大庄屋にふさわしい屋敷構えを残している。嘉永5年(1852)建築の主屋(おもや)は、三階の望山楼、二十畳敷きの大広間や広い接客空間などが特徴で、紀ノ川流域随一の大規模民家である。


屋敷正面の表門は、東西が約30メートルある長屋門形式の門で、江戸時代後期の建築だ。中央の門構えは総ケヤキ造りで、表門東側の座敷3室は、大庄屋の役所として使っていた。特に上の間には、天井に柾目板を張るなど格式が高く、中筋家当主が執務した部屋と思われる。


和佐王子を過ぎると、この日初めての山道となった。


矢田峠には、倒木もありやや荒れている雰囲気だ。


伊太祁曽(いたやそ)神社の入り口。


伊太祁曽神社は我が国に樹木を植えて廻ったと『日本書紀』に記される「五十猛命(いたけるのみこと)」を祀る神社である。植樹神五十猛命は一般には「木の神様」として慕われている。そのため、全国の木材関係者のお詣りが多い神社だという。


四つ石地蔵。小さなお堂の回りにだいたい1.5メートル程の平たい4つの大きな石が置かれている。案内板によると、かつてここにあった三上院千光寺の礎石を集めたとある。


松坂王子を過ぎ、くも池の堤防の石畳を進むと汐見峠にさしかかる。古の都人が旅の途中で、憧れの海を見たのがここだったということで、汐見峠と名付けられたそうだ。


峠には安政の大地震の時、人々を峠へ呼び上げて救ったといわれる「呼び上げ地蔵」が祀られている。大地震で、このあたりにも津波が押し寄せ、冬の夕闇が迫る中、村人たちが目指したのは汐見峠に差す不思議な光だった。「こっちへ来い」。峠から響く声を頼りに、多くの村人が坂道を駆け上がると、そこには地蔵の姿があった──。


日方川にかかる春日橋の手前に松代王子の説明板があり、左手の春日神社への参道を上ると青石に刻まれた「松代王子碑」がある。


菩提房王子を過ぎ、JRの線路を通り抜け、海南駅の西側に出る。1日目のゴールは、和歌浦の海に浮かぶリゾートアイランド「 和歌山マリーナシティ」にも近いホテルだ。この日の走行距離は32.2キロ。到着時間も17時を過ぎていて、いささか疲れた1日となった。

参考1.1日目の高低図&タイム


参考2.1日目のコースマップ


「2021第9回熊野古道ジャーニーマラニック:紀伊路編その1-2日目(海南~湯浅)」に続く。