とっちーの「終わりなき旅」

出歩くことが好きで、趣味のマラソン、登山、スキーなどの話を中心にきままな呟きを載せられたらいいな。

2021第5回熊野古道ジャーニーマラニック:大辺路編その2-2日目(古座~那智)

2021-04-27 23:39:56 | 熊野古道
今回泊った宿は、創業明治初期という老舗旅館の「やまさき屋旅館」だ。古座川町の玄関口にあり、四代目女将のアットホームなおもてなしと、自慢の手づくり料理がとても良かった。旅館という名前が付いているが、館内は、おしゃれな飾りがあったりしてペンション風な雰囲気もあり、くつろぐことが出来た。玄関前で記念写真を撮り、スタートする。


旅館のすぐ近くある神戸神社(こうどじんじゃ)に寄っていくことにしたが、旅館の女将さんがここまで見送りに来てくれた。


用水のすぐ前にあるのが、神戸神社だ。鳥居も社殿もなし、森そのものが神社だという。とにかくクスノキの巨木が素晴らしい。まさにこの鬱蒼とした森は、荘厳で畏敬の念を抱かずにはいられないような雰囲気に満ちていた。


古座川沿いに下っていくと、渡し場跡に出た。


渡し場跡を過ぎると、国道42号に出る。


しばらくは、車に気をつけながら国道沿いに進む。海岸がずっと見えているので、気分がいい。




紀伊田原駅を過ぎると、国道の下を潜り、遊歩道を進む。


清水峠の入り口に着いた。入り口にはスタンプ台がある。


10分もかからず清水峠に到着する。


清水峠から下ってくると紀伊浦神駅だ。


再び山道に入り、峠らしきところに着く。休平の標柱があり、一息つくにはいいところだ。地図で見ると、ここが浦神峠でもあるらしい。


里山の景色を見ながら進む。


市屋峠入り口までくると、東屋やトイレがありちょうどいい休憩場所があった。お昼近くにもなっていたのでランチ休憩する。大辺路の看板の横には、キリンやお地蔵さんがいて一緒に写真を撮っていく。


市屋峠を通過する。


高速道路の下を通り抜ける。


与根河池の前に出た。標柱には、與根河の池と刻まれている。


二河峠(にこうとうげ)の入り口に入る。


二河峠を通過。


迂回路もあったが、古道歩きらしく川の浅瀬を渡渉する。


ゆかし潟(ゆかしがた)は、周囲2.2kmの汽水湖であり、ほとりには古湯・湯川温泉の温泉街がある。名称は湖の静かな景観に心ひかれた詩人佐藤春夫が命名したという。また、坂には『よばずの坂』という名称が付いていた。説明板を読んでみると、『この坂は、明治の始め頃、この村にやってくる郵便配達員が、坂の上から、村人を呼んで取りに来させていた(坂を下る手間をはぶくため)。この坂の辺りでは、郵便屋と間違われないため大声をあげて人を呼ばなかったそうです。』と書いてある。


大辺路最後の峠、駿田峠を通過。もう後は平坦な道が続き、大辺路のゴールは近い。


紀伊天満駅からは、地元の人の勧めで、景観がいい海岸沿いの道を進む。




那智海水浴場の裏手から那智駅に抜けることが出来るが、その入り口には、ヤタガラスと炎を模したようなモニュメントがある。


那智駅の正面に出たところで、大辺路全コース制覇のゴール記念写真を撮る。


電車の時間まで時間が十分あったので、補陀落山寺に再び立ち寄って行く(伊勢路の最後にも立ち寄った)。


この補陀洛山寺は「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の出発点だったことで知られている。「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある観音菩薩の住まう浄土のことをいい、『華厳経』にはインドの南端にあると説かれている。日本においては南の海の果てに補陀落浄土はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して船出することを「補陀落渡海」といった。この補陀洛山寺からは25人の信者が補陀落を目指してこのような船で船出したと伝えられている。


その後、那智駅前の丹敷の湯に入って汗を流し、帰路についた。これで、伊勢路と大辺路の2コースを完走できた。次は、中辺路を目指す予定だ。

参考1.2日目のコースマップ


参考2.2日目の高低図&コースタイム

2021第5回熊野古道ジャーニーマラニック:大辺路編その2-1日目(田並~古座)

2021-04-26 23:05:47 | 熊野古道
大辺路編その2の再開だ。前回、ゴールとした田並駅に着いたのは、午後2時過ぎになっていた。JRのダイヤ改正が4月にあって、当初予定した電車がなくなり、田並駅への到着が遅くなってしまった。


とりあえず、駅前でスタート前の集合写真を撮る。


田並駅をスタートしたところ。すぐ前に、劇場があるというので、どんな劇場なのだろうかとさっそく寄り道していく。


この建物は、田並劇場という。昭和20年代に田並の有志によって建てられ、娯楽の少なかった当時、映画や演劇、町内会や学校などの出し物などが開催され、多くの人々に娯楽を提供してきたそうだが、過疎化に伴って劇場として使われなくなり、建物全体に蔦が絡み、廃墟となって十数年の月日が経ってしまっていた。しかし、田並劇場を貴重な建造物としてとらえ、『田並劇場』をもう一度、人の集う場として蘇らせ、文化的な交流スペースとして再生し活用しようという『田並劇場再生プロジェクト』で蘇った劇場だった。あまり長時間見ていく余裕はなかったが、熊野古道のマップなどが展示されていたので、少し見学していった。


田並から有田の旧国道沿いの飛渡谷を通る道は、飛渡谷道と呼ばれ、387mの区間が世界遺産に登録されている。苔むした石畳道があり、古道の雰囲気が醸し出されている。


途中、猟銃を持った猟師とすれ違う。害獣駆除のため、付近を巡回していたようだ。


岩穴の奥に小さいお地蔵さんが…。


展望所から有田漁港を臨む。




国道42号線に出ると、海岸沿いの道を進む。


お地蔵さんにもマスクが掛けられている。


道路際に不思議な円盤状のものが見える。これはトルコでよく見られる「ボンジュック」と呼ばれるトルコブルーの目玉のお守りだ。ガラスや陶器などいろいろな材質で作られ、形は円盤状のものが多い。毛髪が毒蛇で、見た物を石にすると言うギリシャ神話のゴルゴン3姉妹の末娘「メドゥーサ」の『目』であると言われている。英雄ペルセウスに退治された「メドゥーサ」のこの『目』は、他人の邪悪な目や悪意からこのお守りを身につけている人を守ると信じられているそうだ。




瀬浜橋の手前から国道42号線を離れ、籤野川沿いの道を進んで行く。


籤野川辻地蔵の分岐から橋杭岩方面に向かう。熊野古道からは外れてしまうのだが、串本の観光名所「橋杭岩」を見て行かないわけにはいかない。


海中に約850mの列を成して大小40余りの岩柱がそそり立っている。その規則的な並び方が橋の杭に似ていることからこの名が付いたそうだ。海の浸食により岩の硬い部分だけが残り、あたかも橋の杭だけが立っているように見えるこの奇岩には、その昔、弘法大師と天邪鬼が一晩で橋を架ける賭をして、一夜にして立てたという伝説も伝わっている。


近くにある神社の階段を上って、高い場所から橋杭岩を臨む。


再び国道42号線沿いを走っていく。


振り返ると橋杭岩の裏側が見える。


古座駅を過ぎ、古座川の上流沿いにしばらく進むと、この日の宿に着いた。到着は18時半くらいになる予想だったが、18時ちょっと過ぎで、まだ明るいうちに着くことが出来て良かった。

参考1.1日目のコースマップ


参考2.1日目の高低図&コースタイム


「2021第5回熊野古道ジャーニーマラニック:大辺路編その2-2日目(古座~那智)」に続く。

2021滋賀・小谷山周辺観光&登山

2021-04-19 22:51:59 | 山登り
滋賀県長浜市出身のNさんの呼びかけで、先週末は、滋賀県の低山登山に行くことになった。1日目は小谷山、2日目は山本山~賤ケ岳縦走という予定であった。ただ、残念ながら1日目は、1日中雨という事もあり、登山は中止となり、周辺を観光して回ることにした。

まず、最初に小谷城戦国歴史資料館に寄っていく。小谷山は滋賀県北東部にある山で、戦国の武将・浅井長政の居城だった小谷城跡のある山だ。小谷城は、日本五大山城の一つに数えられる国指定史跡の名城とされ、山城マニアの中では、特に注目されているらしい。また、NHK大河ドラマ第50作の「江~姫たちの戦国~」のロケ地になった場所としても有名であり、戦国時代の歴史を物語る上で、歴史マニアには聖地であると言ってもいい。そんな小谷城の歴史的背景を資料館で勉強していく。

1時間ほど歴史資料館を見学するとお昼になり、Nさんの案内で鮎料理の店に立ち寄る。滋賀県の琵琶湖は、日本を代表する鮎の産地でもあり、琵琶湖を海代わりにしている鮎は有名だ。滋賀県長浜市にある名店「鮎茶屋 かわせ」で、鮎の食べ放題という夢のグルメを味わっていく。




その後、地場産品の店や佃煮の工場に寄ったあと、滋賀県指定文化財である西野水道(にしのずいどう)に向かう。相変わらず雨は止まず、駐車場に着くと雨具とヘルメットを着用して西野水道の入り口まで歩いていく。


入口手前には、管理事務所があり、西野水道見学の案内を読んでいく。


事務所には、防護用ヘルメット、長靴、懐中電灯などが置いてあったが、3~4人分しかなく、全員分はないので事前に持ってきておいてよかった。


西野水道モニュメントの横を通り抜ける。


水路のような場所に降りていくと、西野水道の入り口だ。


西野水道は、西野の西山という山の麓に、琵琶湖へ向かって貫かれている高さ約2m、幅約1.5m、長さ約220mの排水用の岩穴だ。今から170年前、たびたび洪水に見舞われていた西野地区を、洪水から守るために、充満寺の第11世・恵荘上人の発起により行われた土木事業で、能登、伊勢から石工を招き、実に6年の歳月をかけてノミだけで掘り抜かれた手堀りの岩穴である。現在は、排水路としての役目は終えていて、見学できるよう通り抜けができる。


奥に入っていくにしたがって狭くなり、頭上や両脇に注意しないと岩にぶつかってしまうのでヘルメットは必需品だ。


長さ220mというが、暗い岩穴の中を手探りで進んで行くとなると、かなり時間がかかったような気がした。前の方が明るくなり、岩穴を出るとホッとした。


後続のメンバーも次々と出てきた。


西野水道は、全部で3つある。初代が、我々が通り抜けてきた放水路だが、その隣にあるのが2代目の放水路だ。


こちらも、現在は琵琶湖側への連絡通路として使用されているので、帰りは安全な2代目の西野水道を通って元の場所に戻る。因みに、3代目の放水路が、さらに近くにあり、実際に放水路として利用されている。


1日目は、結局観光だけで終わり、この日の宿となるウッディパル余呉に宿泊する。翌日も、あまり天気が良くない状態だったが、朝方だけ晴れ間が出ていたので、朝食前に余呉湖の周りをランニングする。7キロほど走ると雨が降り出し、急いで宿に帰り朝食を済ます。

2日目は、雨に降られても小谷山には登るという事で、登山口となる戦国ガイドステーションに車を止め歩き出す。「NHK大河ドラマ 江~姫たちの戦国~」放映記念の大兜が目印だ。


この日も、雨が降ったり止んだりと不安定な天気だ。


小谷城の案内看板から登山口が始まる。


しばらくは舗装道路を進む。


出丸跡。最初の城址だ。要所要所にかつての様子が図示されている。


望笙峠からの展望は今一つだ。


番所跡に着くと一転して晴れ間が出た。小谷城跡絵図の前で記念撮影だ。


大広間と呼ばれ、浅井長政の妻や子が居住したとされる場所。


桜馬場からは、琵琶湖、竹生島、山本山が一望できる。


本丸跡。


その後、山を一旦下って登り返すと大獄と呼ばれる場所に着く。ここが、小谷山の山頂495mだ。


あとは一気に下り福寿丸、山崎丸と呼ばれる場所を通り抜け、獣害防止柵を出ると水道タンクのある場所に出る。


清水神社の鳥居を抜けると、スタート地点の戦国ガイドステーションまで僅かだ。


3時間弱の山行であったが、戦国時代の山城の様子を垣間見ることが出来、歴史探訪の意味合いが強く今までとは一味違った山旅となった。

参考1.小谷山のコースマップ


参考2.小谷山の高低図&コースタイム