気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

続・意識の話(2)観る者は誰か?

2019-04-24 06:32:38 | 語り部の章
間違いなくこの記事・文章・あるいはメッセージを読んでいる人も、

今この世界に生きて、存在している。

いやこの世界に存在していることに・・”気付いている”と言い変えよう。

繰り返すが、存在していることは・・「気付き・意識」に依拠している。

3次元的時空世界や様々な物質が、そこにただ独自に存在しているのではない。

それに気付くこと、意識することが無ければ、世界も物質も存在しえない。

深く観察、吟味しなければならないのはこのことだ。

毎日行われていること・・それに気づかないのは・・実に愚かしいことと、

あなたはプライドが許さないだろうが、そう言われても全然おかしくはない。


あなたが熟睡モードにあるときには、あなたにとってどんな世界も存在していない。

つまり意識が目覚めていない、どんな世界も現れない。

それは単に ”眠っているだけ”・・で終わっているが、

意識が何ごとへも気付いていない状態では、世界は出現・投影されないということだ。


かなり”余計なお世話的”な表現であるが、

人々は自分が物質的肉体存在だと思い込んでいるため、

気付いていること、意識していることという、

”ことの重大性”に何千年も気付かなかったかもしれない。

この地球という世界で、

何千年も繰り返し同じような人生という「夢」を観てきたのだと思えないだろうか。

そう、

わたし・・意識が、わたしの世界のすべての土台にあることに気付かなかった。

そういう想いはしっくりくるだろうか?

ならば目覚めたと言っていいだろう。


わあ、何という事だ!

常に・・いま、それが・・そこに・・在るにもかかわらず・・だ。


意識から生じる様々な想念・観念・概念・・

それは意識という木から生じる無数の枝葉のようなものであり、

その無数の観念の集団体系がこの世界であるが。

それは「現実」というよりは、想念・こころ・観念で出来た幻想である。


「そうはいってもねえ、・・この体の現実がねえ・・」
「毎日のこと、何とかしないとねー」

そうやっていつも引き戻されるのかもしれないが、

たしかに、それは観念に束縛されている状況のままであることを意味している。

今の現実とは、逃れるべきもの、変えるべきものではなく・・

まず、それが幻想であると見破るためのものだ。


「いや現実だ」という信念があるから・・

真剣になってより良きものに変えなければならない・・となり、

現実だという信念があるから・・それから真剣に逃れなければならない・・となる。


よく例えで言われるが、

映画に見入ってしまった人は、想念・感情も顕(あらわ)にこぶしを振り上げ、

あるいは恐怖におののき、必死に逃れようとする。

映画は始まり・終わるものと知っていて、

観賞しているのはわたしだと知っているため、

一時の視聴覚体験を楽しむわけだが、それとは次元が異なるだけの、

この現実という世界ではそうもいかない・・と”集団で”考えている。

「だって、この現実が・・~!」・・頑張れ・・変革せよ!


あなたが真実を探し回っているかもしれない無数の情報世界、

この世に溢れ、氾濫する想いの群れはまったくそれである。



しかしながら、それさえも誰しも一時の人生でのことだを知っているだろう。

いや、それとも、永遠にその世界で怒り、嘆き、あるいは逃げ惑うつもりだろうか?

誰しも、そんなことは出来るはずもないことは知っている。


現実という「夢」、そこから目覚める話なのだが、

悟りを勧めるようなこの話は、・・さて、これは一種の逃避だろうか?

あなたが寝ている時に、観る夢から覚めたこと・・これは逃避だろうか?


いや、無数に観る実に現実的な夢・幻の1つから目覚めることが、

それが責任回避や逃避ではないと”真に”気づけるならば、それは「悟り」である。



宇宙・世界を観ているのは・・誰か?

世間という他者の群れか?

この体か?

頭脳か?

この想いか?

いいや、違うだろう。


誰だろうか?







ここで、
黒い人型シルエットは、そうではない白い全体がなければ存在できないことを意味している。
我々は皆、個人だ、私だと自負し、競争心やプライドを持っているが、空(くう)がなければ有限の形など存在しえない。
また空(くう)であるからこそ、そこにどんな映像も描き出すことができる。
そんなことも気づかず知らず、ただただ黒いシルエットだけの、分離した”肉体個人の集合体”の中で、繰り返し、繰り返し、気づけば一瞬の生命を、なぜかお互い同士闘いながら生きていたということであろう。
気付けば、面白いではないか?