気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは何か? の考察 その12

2019-02-11 07:03:04 | 語り部の章
わたしが眠ると世界は消え、わたしが目覚めると世界が立ち現れる。
これが毎日の基本中の基本である。

世界・宇宙があって・・その中に”わたし”がいる・・は、
いわゆる「3次元的世界認識」である。
事実・真実ではなく・・認識の1形態である。

わたしとは・・、
この身長何cm、体重何kgの物質形である、という認識であり、
その肉体が世界、時空間の中にいて動き回ることからきている。
時空間の中にある様々な物質が存在して動いていることを、
五感の知覚によって、”認識している”ということだ。

つまりこの世界は、知覚・認識の1様式にすぎないということ。
絶対的な現実なんかではない。

ようやく昨今になって、科学的認識の一部では、
この世界は幻想、あるいは仮想現実などとも呼ばれるようになった。

目の前にある様々な物質も、
”あなた”が”知覚し”ているからそこに”存在”する。
また誰かがそれを認識しているからこそ存在している。
存在があって次に、認識する・・と思っていたが、そうではない。

これは・・時間というものは存在しない・・とも密接だ。
あるのは今・・という瞬間であり、
そこには、先も後もない・・、
物があってその後で、それを認識する・わけではない。

パソコン、こたつ、食物、机・・すべて物質と言われる硬いものは、
目で見て、触ってそこにあることがわかるが、

でも、それを・・”認識する”こと・・がなければ、
そこに存在するとは言えない。

もちろん科学的な視覚認識の説明として、
物に光が当たり、その反射によってその物が「見えている」とされているが、
見えている・・その”認識”・・がなければ、
いかに様々なものに光が当たろうと、反射しようと、
そこにどんな物があると知るのだろうか?

物と物がいかにぶつかり合おうとも、どんな化学反応をしようとも、
ぶつかり、反応しあうことが・・勝手に、起きて、
それを自己主張している・・わけではない。

物質が・・それ自身だけで、勝手に存在することはできない。
物質への・・「きづき」や「認識」・・がなければ、物質など存在しないということだ。

これは、
意識がなければ世界はない・・を、
わたしがいなければ私の世界・宇宙もない・・を、
誰にでもある身近な経験を通じて話しているだけだ。

世界・宇宙があって・・その中に”わたし”が存在する・・は、
いわゆる「3次元的世界認識」にすぎず、
事実・真実ではなく・・単なる認識の1形態である。

さらに、それは人間の高度な頭脳が行っているはず・・も、
そういう認識の1様式である。

物質が物質そのもので存在できるわけはなく、
同じく、それがたとえ高度な神経細胞組織であっても、
神経細胞組織・・それ自体で存在しているわけではない。


知覚・認識されざるものは、存在しえない。
逆論理で言えば、
存在とは・・知覚認識の対象として存する・・それ。


言い換えれば、意識があって物質・時空、世界があるということだ。


外の世界でアワアワしているだけでは、決して気づかないこと。
だって、みんなそうしているよ・・に流されて、
人生映画のスクリーン上に展開される物語の中に入り込んだまま、
物質肉体としてへたり込んでいる間は、気づきようがない。
あれがおいしい、これは美味い、これは気持ちよい等という、
集団的な肉体感覚のだまし劇場で浮かれている間は気づきようもない。

余計なお世話ではあるが、例えば、それは
3次元的時空物語の最終フィナーレを、感覚マヒでやり過ごそうとする、
無意識的行為と言えなくもないが、
どんな体験劇場を選択するかが可能な意識の深化
魂レベルの向上進化には何の役にも立たないだろう。


わたしとは何?という、意識存在としての基本中の基本に立ち返ること、
世界が現れるその光源の方向に振り向いて・・初めて悟れることだ。

世界・宇宙があって・・その中に”わたし”が存在する・・は、
私個人の肉体の存在様式を語っているだけであり、
いわゆる「3次元的世界認識」にすぎず、
事実・真実ではなく・・単なる認識の1形態である。

言い換えれば、この世界・宇宙も、”意識”の1様式に過ぎない。

そして、
わたしとは、知覚対象、認識対象物である「この肉体」ではなく、
それに気づき、認識し、意識している・・「それ」である。