気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の話(3)空(くう)とは意識の充満

2017-06-08 05:33:47 | 真我実現シリーズ
色即是空の、空(くう)は、身近にある空間、宇宙の空間と認識されている。

目に見える物質と物質の間のことを「空間」と言っている。

現代文明は、とにかく物質大好きで、物質のことしか頭にないが、

その間の空間のことは、何もない空間・・で済ませている。

何も五感で映じるものがない、今の測定器で検出できるものがない、

単なる真空・・真の空(くう)、カラっぽだと思っている。

そうではないか?

この真空とは何か?といっても、
何もないので、どうしようもない・・そう思っている。

だって、何もないじゃないか・・!(笑)

これは、現れたものだけを後生大事にする思考でしかない。


物質とは、空間があるからこそ、そこに物質であることができる。

そもそも、我々の肉体も、岩石も、宇宙の星も、波動エネルギーでできているが、

その空間占有率は、0.0000・・・1(0が15こ程度)でしかない。

なので、我々の肉体は物質だ~・・というのは、かなりおバカな思考である。

我々の肉体は、物質だ・・ではなく、99.9・・9%、空(くう)であるというのが正解。

多くの人はそんなこと考えてもみないだろうが・・。

・・・
空間と物質は同時に存在している切っても切れない関係性である。

片や目に見える、かたや目に見えないだけの話、

空(くう)だけの空間も存在せず、物質だけでも物質として存在しない。

空(くう)なくして物質は現れない。

また物質(エネルギー形態)がなくて、空間も存立しえない。


まったく、すっきりはっきり・・

色即是空、空即是色なのである。

・・・・

これはまた、「意識」なくて「対象物」は存在しえない、

あなたの意識がなくて、あなたという存在は認識できない、

観るものが存在して、初めて対象物が存在している・・のと同義である。


宇宙そのものは、無限大の空(くう)であり、

様々な恒星をその中に宿している。

あらゆるそれは、宇宙という「意識」の中の「知覚対象」物である。

そうではないか?



さらに、空(くう)は大きさも重さも何もない、

空(くう)自体には、距離も時間もない。


空間の距離とは、物質と物質の相対的関係であって、

空(くう)自体は距離がない!


また、

時間とは、様々な物質の運動の相対的関係であって、

空(くう)自体には、時間がない!


まずわたしは何者か?・・といえば、

99.999%が空(くう)であり、

またその”空(くう)そのもの”には、時間も空間もない。

そして、わたしは・・自らに・・気づいている・・「意識」だ。

その意識が、「私は肉体である」という想念を創り出し、

それをそこに、ここに顕在化しているだけの話である。

地球というカテゴリー世界のどこかの国に住まう、人間として。


つまり、

あなたは、時間空間に縛られているわけではない。


ただ、0.00・・001%分の物質要素である肉体は、

重さや距離という時間空間の制約があるということだ。

わたしが、その物質なるものを自分だと・・認識する、

いや思い込むことで、その時間空間に縛られた<私>がそこにある。

それが今の・・あなたであり、この文章を、そこで読んでいるということだ。

わたしは肉体である・・と思い込んでいる人は、

それを言うならば、ほとんどが空(くう)であり、

ほとんどが時間空間の制約がない・・存在であるということである。

意味不明だろうか?


宇宙がわたしの中にある・・わけないと思う人は、

あくまでも私個人、肉体がわたしと思っているわけで、

そこから見れば、わたしの無限性、霊性など、

まったく埒外の考え・想念であろう。

しかしながら、

こういう内容は古い事実認識から大きく逸脱しているように見えて、

実際には、今までの科学的成果を、文学的表現ではあるが、

それをパズルの組み立てのように説明しているだけなのである。


わたしとは何か?

それは、神とは何か?

次元とは何か?

宇宙とは何か?

それらは、同じ問いかけなのである。


わたしは無限の空(くう)であり、

その空(くう)は意識・気づきそのものの充満である!

かように壮大な宇宙は、それゆえ顕現している。




意識の話(2)わたしの中に宇宙がある!意味

2017-06-04 19:13:05 | 真我実現シリーズ
意識する・・とは・・何かの対象に気付くことだ。

そして、気付く対象が、物的な物とは限らない。

感情に気づく、思考にきづく、アイデアに気づく・・などもある。


そう、気付き、あるいは意識するとは、何かを「存在」として「知覚」することだ。

知ること、知覚すること自体が・・気づき、意識といえるのである。


そして、気付き・意識は、何かを存在としてクローズアップすることである。


何かの物体があって、誰もそれに気づかなければ、それが存在しているとは言えない。

何かの考えがあって、誰もそれに気づかなければ、それが有ったとは言えない。

いやいや、あるけれども知らないだけだ・・とは言えない。

認識すらしないものは、どこにも存在していない・・という事だ。

つまり、知覚、知ること、認識・・・⇒ 存在・・と言えるのである。

存在物があって次に、知覚がある・・のではないということだ。


知覚があるからこそ、「知覚対象」がクローズアップする・・

「存在としての姿を現す」のである!


簡単すぎて、ちょっと、ややこしいが、

物体があって・・知覚があるのではない--という事である。

光を当てなければ ⇒・・物体は見えない・・と同じなのだ。

意識、気づき、知覚の働き・・が無ければ、何も存在しない

そういうことである。

決して物体が単独で・・存在してはいない!・・ということだ。

有るけれど、見えないのではない・・・!


知覚、意識、気づきがあるからこそ、その対象物が「現れて」いる・

知覚、意識、気づきが無ければ、どんな対象物も「現れて」いない。

物質、非物質なども全て、・・わたし・・の知る対象、知覚対象。

また知ること、知覚すること・・意識すること、気付くこと、

まとめて意識というそれらすべてがわたしである。

決して目の前の物体、花瓶、パソコン、

そしてそれを触っている手足、肉体そして頭脳さえも、わたしではない

それらは全て・・わたしの・・知覚対象なのである。


つまり、わたしとは<観る者>のことで、観られるものではないということだ。

・・・

これが理解できると、

宇宙(知覚対象)があるから、⇒ わたしががいるのだ・・は大間違いで、

観ている者がいるからこそ、⇒ 対象としての宇宙がある・・ことが分かるのである。

あなたが「意識」によって観ているから、あなたのその世界、壮大な宇宙がある!






宇宙の中の現象の1つである人間の「肉体」も、

さらに「月も星」も、星雲さえも、わたしの知覚対象である。

だって、それらが何だかかんだかで、知っている、意識にあるではないか!


たとえば、それを全て頭脳に帰すというのは、逆に理論、思い込みたい論であって、

未だに誰も証明していないし、出来るわけもない。


頭脳を含めた身体は、あくまでもわたしの使っている、意識の対象物であり、


わたしは・・それらが見る聞く感じる、様々な情報を処理して記憶していること、

それをも知覚・認識している・・・存在・・である。


わたしが毎朝、意識が目覚め、起きだして、社会や世界や宇宙を観ることで、

瞬間同時に、社会や世界や宇宙は・・”現れる”のである。

(今までそうでない、その逆だと・・この世の信念体系によって、そう思わされてきた)


わたしに関係なく、社会や世界や宇宙が常時、ずーっと在って、

わたしは眠ったり起きたりしているのではない。

世界が先にずーっとあって、私個人がそこに個体として生まれてきたのではない。


<意識>としての<わたし>が、

わたしの世界そのものを出現・消滅させている原因であるという事だ。、




わたしの見る、観察するこの大宇宙も、わたしの中にある。

なぜなら、


<わたし>とは、あらゆる知覚対象を出現させる、

その・・意識、気づきであるからだ。

それは、一つの創造主というべきものだ・・



つまり、わたしの中に、わたしの知覚する宇宙がある・のであって、

宇宙の中に、わたしがいるのではない、と言うことなのだ。


簡単に言えば、わたしとは何かという視点・観点の「根本的違い」なのである。


あー、そうか・・ではまた元の木阿弥である。

これらを深く熟考し、生活のあらゆる事象を考えつつ、

明らかな事実としての認識を深めなければならないのである。


未だ大勢の、気づかぬ人たちの中に居て、騒ぎばかりの世界にいて、

それに本当に気付いていることが、どれほど大変なのか・・・、

多分、あなたには分かるはずである。




気付けば、これは明らかなのだが、

何十年も、何百年も、何千年も・・・

そうでない想念体系で刷り込まれた観念が、重くのしかかっている。

そうであるからこそ、いつも何も変わり映えしないと嘆くことにもなる。

それを気づかず知らず、

何十回、何百回と繰り返される、この時空場、地球というカテゴリー世界での、

短い生死のサイクルを「輪廻転生」という。

そう、その気になって・・、はまっていたのだ(笑)

気付けば、もう十分ではなかろうか?


その時空・次元から自由に在ることが、

本来の魂・意識の在り方なのである。


キリストの言う、

わたしは、この世に在りて、この世のものではないという意味だ。


意識には大きさもカテゴリーもなく、普遍意識、宇宙意識、神意識とも言う。

全てを知覚対象として映し出す、出現せしめている意識、

普遍意識は完全無欠、自由自在、無限の叡智、・・どんな心配があろうか?

いいや、ありはしない。







意識の話(1)宇宙が先?わたしが先?

2017-06-03 07:47:56 | 真我実現シリーズ

全てはつまり、<わたし>の・・誤解を解いてゆくことである。
それは、肉体個人我から真我への道、解脱の道ともいえるだろう。

・・・
わたしは何か?という話をしてきたのだが、
それを科学的、つまり物質探求的見地から見ると、

まず、『私の身体』は何かといえば、
それは原子でできているということになっている。

これはたしか中学でも習うこと、
思い出せば、私がそうであったように、
教科書に載っている原子の周期律表などを見て、
ここに何か法則性があることを感じた人も言えるだろう。
「へー、そうなんだ・・」

すべての物質なるものは、100種類以上の原子でできている。
そしてそれは陽子と中性子、電子で造られているということ。
さらにそれらは、さらに小さい素粒子でできている。
微小な素粒子は波動、振動エネルギーとして描写説明されている。
・・・
描写説明・・に過ぎないのは、それを誰も見たことがないからだ。
素粒子を突き詰めてゆくと、いつどこにあるのか明確にわからなくなるし、
またどんな形であるかもわからない。

物質なるものは、明らかな存在!とはいえず、いわば確率的な存在といえる。
確率とは・・当たるも八卦、当たらぬも八卦、のカテゴリー、
例えば、宝くじは当たる確率が非常に小さい仕組みの博打である(笑)。

話はそれたが、私の肉体を構成しているその原子は、原子核と電子で作られ、
原子核と電子の間の距離は途方もなく離れており、
その間はすべて空間であるとされている。
空間の中の、原子核、電子の存在確率密度といえば、
0.0000・・・1(0が15個程度並ぶ)ほどである。


(実際には白い球は全く存在しないに等しいくらい小さい)

なので、物質というもので作らている我々の身体は、
99.999・・・9(9が15個ほど並ぶ)が空間であるということだ。

なので、私は何か?
「わたしはこの肉体である・・」とする見解は、
つまり、
「わたしは空(くう)だ」と言っていることになる。

「わたしは肉体だ・・」と思っている人ならば、
「とんでも」・・ではない?科学的な見解を採用するならば、
「わたしは=ほとんど空(くう)だ!」という言明に他ならない。

・・・
つまり、
空(くう)の中にあるエネルギー粒子、肉体も物質も、宇宙はそれで出来ている。

そして、それを人間が解明するということだ。
それは、人間が観察、観測、理論化を行うという事だ。

理論も実証も再現も、何もかも人間の行う事。
そして、人間の何がそれを可能にしたのかというと、
現象観察に対する、想定、イメージの体系化、理論化・・思考体系である。
ここまでは常識で理解可能だろう。
・・・


ここからは根本的な「観の転換」が必要なのだが・・、

まず「物質」があるから・・「わたし」がそれを観測出来る・・
普通はそう思っているだろう?

言い換えれば、
まず、世界という現実があるから、
わたしはそれを観察している・・ということだ。

さらに言えば、わたしは肉体という、
考える機能を持った物質形であり、

物質で構成された広大な世界の中に、
小さく含まれている・・という事だ。

宇宙の中に・・わたしという肉体個人が存在している・・、
そう思っているという事である。

そうではないか?

何の役にも立たない、トンでも話もいい加減にしろや(笑)・・

バカな話だ!、そんなの当たり前だと・・思っているのではないだろうか?




世界は”わたし”の中に在る(ラマナ・マハルシとの対話)

神成りの仕組み

2017-06-01 05:20:22 | 真我実現シリーズ
「わたしとは何か・・・?」と気づけるときにはいつも、問いかけてみよう。
これを続けるだけで、何かが少しづつ変わっていくはずだ。
しかしそれは、物的、精神的な・・
何かを「獲得」することではないのである。

とはいえ、「こうすればこうなる」的な、功利的言い方ではあるが、

「わたしとは何か?」と自らに問いかけることで、
何が変わっていくのか?

それは、・・・
わたしの意識、いや意識である<わたし>が、
今までずーっとそうだったような、外側ばかりの観察でなく、
自らの姿、自分のことを見ようとする意識への<転換>が起きるのである。
派手さは皆目ないが、粛々とした本質的な転換である。

ところで、あなたがTVや映画を見ていたとして、
あなたはどこにいる?だろうか。

一時だが、あなたはそのドラマの中に集中している、
その時に、あなたは自分の肉体や環境のことに気づかない状態があるだろう。
これも自己観察できる人にはよくわかることだが、
「オトーサン、電話だよー」とか、
「おかーちゃん、ごはん!」と呼ばれて、はっと我に返るとか。(笑)

これは「意識を投影している」ことの具体例である。
意識を・・投射、投影して、そこに自己投入する・・・
これは、

神が・・今・・あなたに・・成っている・・仕組みを説明しているのだ!

I am That I AM.

創造者、創造主、神、真我は・・は何にでもなれる。

今のわたしたちのように、そう、
こういう風に、本当の自分を「忘れることだってできるわけ」だ!(大笑)

でも、「忘れっぱなしというのも、どうかしらねえ?」
そう、今は思い出す時期に来ているというわけだ。
なぜならばこの世界映画は、その一巻の終わりに来ているからだ。
政治経済に限らず、原子物質核崩壊、放射能の拡散など・・
あらゆるものが崩壊、変動・・しているかもと、
集合意識も気づいてきたが、なじんだ想念形に拘って、
いまいち覚悟ができていないせいか、時間を先延ばししているのも、

それは映画のあまりの素晴らしさ(深い意味で)に、
度重なるアンコールの拍手を送っているのかもしれない。

私はだれ?ここはどこ?・・こんな世界ってなに?
そういう取り残された感の自己没我経験も可能だし、
実に苦しく、ハラハラ、ドキドキで・・言うも後先になるが、
魂レベルでは、実にそれが楽しいのだ。
そうでなければ、誰も映画など観ないだろう?
あなたはどうだろう?

バシャールさんが言うように、
それがこれからワクワク・・になるというのは自然な移行ストーリー。

私は肉体であり、死んだら終わりの存在である・・としているのも、
あるいは一段進んだ考え方、
私は実は霊魂であって、死んだらほかの肉体に移るのだ・・としているのも、
そう、どんなわたしも可能なのだ。

しかしながら、それはすべて、「想念形」なのである。
すべて世界は、
意識が想念として展開する、様々な多次元映画という相対世界。

映画といっても、TVやビデオのように見る聞くだけでなく、
「見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる」の五感という臨場感と、
その映画の中でどういう役割をするかという「マインド」によって、
そう、いうならば五感でなく、六感でつくる世界なのである

今までの物質だけの認識形態、そこからくる
「わたしは肉体である」という想念に基づいた、五感中心の次元枠に、
想念、こころ・・という第六感的な次元枠が追加されて、
新たな世界が始まっているということである。

したがって、古い信念、想念が形として現れた、
物質ONLYの文明は消えてゆく定めにある。
摩天楼も、せっかくの遺伝子をじわじわ壊して行く、場違いの放射線も、
ドカン、ばこーンの生命破壊意図の大爆弾も、
その時至れば、あっという間に、意識の大海にその姿を消していく。

いやしかし、その前にあるのは、人間一人一人の中にある、
意識の表現型、想念の歪の解消である。
カルマの解消とも、大いなる気づきプロセスともいうそれ、
今・・それが起きているはずだ。
あなたは、きっと気付いているだろう。
・・・

意識を・・投射、投影して、そこに自己投入する・・・
どういう形にするかは、
意識によって描かれる「想念」によって演出されるのである。

これは意識の法則、
I am That I AM.
神が・・今・・あなたに・・成っている・・仕組みを説明しているのだ!


自らの想念を観ること、

これを実施する意識的行為は、実に重大な意味がある。

そう、想念の観察者は・・自らが真我・神に気づくものである。

それが象徴的に言われるところの、

今在る・・真我への、魂の帰還ルートでもある。


宇宙も地球も諸天体も、宇宙意識の外にはなく、内にある。
つまり、わたしの内に在る!
わたしは肉体ではなく、意識であるならば・・・。

あなたは、どちらだと思う?




シュリー・バガバーン・マハルシの教え