「神」という言葉は宗教的な、そして様々な意味合いが含まれるために、不思議に誤解の多い言葉であるとも言えようか。
いつのころか神とは・・・支配者的、ジャッジする者、褒美や罰を与える者というような、人間を律する見えない存在とでもいうようなイメージがあるのではないだろうか。
願いを聞き届けたり、幸福をもたらしてくれたり、悪い人には天罰を与えたり、そういう風な人間を越えた存在の様な、そんな漠然としたイメージであるかもしれない。
あるいはまた、お正月にお参りする社(やしろ)に関係する何か・・・そういう薄い観念での神かも知れない。
あるいは言葉に出すのもはばかられる、厳粛で威厳のあるべき、冒すべからざる存在とイメージしているのかもしれない。
それとも何か理想的、完全な、最強の・・・人間を超える何か?・・・そんな感じかもしれない。
包括的に言えば、全知・全能・遍在せる実在・・・言葉で言えばそんな捉え方かも知れない。
いずれにしても、そのイメージの及ぶ範囲や質の違いがあっても、我々人間を大きく越えて、それを見守り宇宙全般、全てのソース・根源としての何か、突き詰めればそういうものとしての理解であろう。
ところで、あなたの神はどうだろうか。
相変わらず、外側世界のどこかに居る、あるいはその外側世界の全部の統御者なのだろうか。
いいや、いいや・・・多分・・それは、見えても観ていないと言うことなのではなかろうか。
あなたが外の世界を観る、
見て、感じてそれに物理的に精神的に反応しているこの知覚世界の、
例えそれが多次元的と言えども、
そのどこかに神がいると考えるのも・・・無理はないのであるが、
しかしながら、それこそ物質レベルの理解、現象世界レベルの観念でしかない。
神とはそこ、ここ、あちら、こちらに、あらゆる全てに・・・・自らを現出させている根源であり、
決まりきったどこかに「他人を装って」鎮座まします個別の存在ではない。
そうではないか?
そうなのだ、
その世界を観ている<あなた>こそが、・・その神なる者の眼なのである。
神とは<あなた>から、あなたを・・・・通して・・・生じているのだ。
世界であなたが・・・わたし・・と・・・自覚している「意識」、
我在り・・・という意識、まさにそれが神の存在の証明なのであるが、
これが・・・なかなか気づけない。
それをいつも見逃してきたのかもしれない、そういうことは一切ないと言えるのか・
外の世界は外の世界で、何かどこかの神様が勝手に創造している・・・、
私・・達はその中の偶然の生き物である・・・という「意識」に固まっていたという事は一切ないと言い切れるのか。
全てのあなたに・・・・一番身近にあるもの・・・それは何だろうか。
・・・
「おーい、バカもいい加減にしなよ、
えー?・・わたしが神なもんかね、わたしゃそんな理想的な存在どころか、生きるために小ずるく振舞うし、たまには嘘も言うし、金には眼がないし、おバカで小さい存在だよ。
いったい何を言っている?おだてて何か含みでもあるのかいな。(笑)」
・・・・せいぜいがそんな風なこころの反応があるだろうか。
しかし、それはあくまでも歪なイメージ、完成された理想形、全支配系、最強最大という物理的、物質的な極大イメージと自己との不一致感覚ではないのだろうか。
神というものを、3次元的、物量、範囲、距離、価値の大小などという現象の中での最高最大的存在としてイメージしていることに気付くべきだろう。
あなたが無自覚であろうと無意識であろうと、世界の中に居て世界を観ているという事実は、
<神>が「あなた」を通して観ているということである。
今まで、あなたは「あなた」という小さな「自意識」で、漠然と外の世界、社会、人々の生業を観ていたのであるが、
実にそれは、
神なる全体・・ひとつ・・が敢えて個別のポイントから創造を眺めているということなのである。
全体が個別化し、その次元からも創造に参加しているとも言えるし、
個別の中には全体が投影されており、個別は全体、全て、あらゆる可能性があるという事なのだ。
また別の言い方で表わせば、宇宙にある全ての個別は、全体を含んでいるとも言えるし、
全体が個になり、また個が全体へと回帰する運動だとも言えるだろう。
個別の生命とは・・・・
空(くう)とも言うべき無限の可能性の中に、神が自らを自己投入しているということに他ならない。
そうであればこそ、その個別の生命は全て「意識」を有しており、
さらに個別で様々な階層、レベル、形態、存在諸世界を通じて、
それが全体で<ひとつ>の意識を構成しているのである。
個別の生命とは神の自己投入であるからこそ、それは魂とも言われる不滅の根源生命なのであり、
その段階、目覚めのレベルに応じて、どのようにも転生や自己転換を行うのだ。
そうして、次第に神なるわれ・・・に目覚めてゆくという、宇宙開闢の再現をしているとも言えるだろう。
あなたもわたし達も、その道にある。
・・・・
翻って、
世間や世界の動きを観るならば、相も変わらず自己自身を観ず、世界のうごめきにこころ取られ、そこでいかに生存するかに汲汲としているのではないか。
あれが美味しい、これがまずい、お金が多い、少ない、自国は全て正しい、あの国は愚かだ、税を上げなければ潰れる、放射能が怖い、地震が怖い、兵器が怖い、政治が悪くなった、あの人は良い人、この人は悪い人・・・、そういう情報に満ちてきた。
いずれにしても、それは外の世界に投影された、様々な想念形であるにもかかわらず、
それから悪い影響を受けるのではないか、財産や生命の棄損があるのではないか、このさき悪くなるのではないか、そんな恐怖からくる想いを更に倍加しているようなことになっている。
そして、そういう認識の存在達であれば、大体そのとおりの方向に動いてゆくだろう。
例えば、行き過ぎてもうすでに破裂している経済も明確な崩壊音を出し始めており、そして崩れ去るだろう。
でも、ただそれだけのことである。それがどうしたのだろうか。
如何にメディアで何も無いように、今まで通り、なんにも変らない風に装っていても、
既に古い観念世界は崩壊を始めているのだ。
個我でない、大いなるわたしという・・・根源意識に気付かす、外の誰か、何かに自己意識を預けているような、いわゆる目覚めぬ存在達と、
そういうバラバラの個人エゴの私・・・ではなく、閉じこもった個人我の私・・ではないところの、
普遍意識である<わたし>、そのより拡大した自己に・・・自ら目覚めた存在との明確な色分けが起きていることに気付くべきであろう。
・・・
他者がどうであれ、
あなたは決して他者にはなれない、
その他大勢の人々がどうであれ、
あなたはその中に沈み込むことは出来ないのである。
それをやろうとしてどれだけ苦しいことになるか、
十分にこの世界の転生で味わった者たちは、
大いなる神なるものが現れるところの<わたし>に戻る、魂のプロセスにあることに気付く時がきている。
それぞれの存在達は皆ともに、神の自己投入によって存在しているからには、
自らの神なる意識を起動させ、
小さな極限個体、肉体個体、バラバラの個人我という観念世界から抜け出して、
より広く、より自由度の拡大した、意識レベルに再び上がる時である。
それを言うならば、
そういう存在への道を歩み始めた人間生命達のことを、
単なる人ではなく、神人と言うのである。
神話にある八百万の神々とは、本来あるべきあなたやわたし達の姿であり、
架空の神話、絵空事や単なる1つの理想等と今まで認識して来たこと・・・・
この意味が分るであろうか。
自身の実相を忘れて、また思い出すという、なんというかそういうゲームに打ち興じていたということでもあろうか。
わたしが実際・・・何か知らないというわけではなく、忘れてしまったということに気付けるだろうか。
地球という生きた書のなかの、時空の折込ページに「次元降下」した、勇気ある魂達よ
自らを猿の子孫だとか、肉体自我でしかない存在だとか、卑小で平均化された平等存在だとか、
そういう閉じられた固定観念の世界、次元降下した世界、
そういう1つの言わば、観念マトリクス世界の味わいはどうだったろうか。
広大な内面意識から湧き上がる感慨が、それがもう素晴らしく十分であるとする者は、
<神人>へと戻ることになるだろう。
混濁と無明、汚濁と想念の混乱に満ちた世界は魂の経験と成長に欠かせぬものであれ、
春が来て、陽光が燦々と降り注ぎ、
花が咲くとき至れば、おもいきり背を伸ばしていいのである。
嗚呼、魂達よ・・・・、今はそういうターニングポイントにある事に気付けるだろうか。
あるいは外の世界の一見何事もなさそうで、既に生じ始めた大いなる時空の急流に流されるのだろうか。
外の世界はリアルな幻影であることに気付き、
それを投影するところの光源、自らの魂・意識に自らをポジショニングする時なのである。
・・・
汝ら・・・汝ら自身を観よ!
古い言葉であるこの問いかけを、はたして理解可能だろうか、それとも意味不明だろうか。
あなたは単なる死すべき肉体個人であるのか、
それを表わしているところの、時空を超えた普遍的な根源生命であるのか。
意識すべき時なのである。
なんとなれば、意識する、イメージすること、それが現れてくることが・・・
すなわち、創造なのだから。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。