今、人間のやるべきことはいったいなんだろうか。
それが「目覚めること」であるならば、やるべきことは一体なんだろうか。
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それは、
ある意味で、「深刻さ」の全てを潔く、捨て去ることである。
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深刻に思えること、深刻に見えること、深刻な人間関係、深刻な社会状況、深刻な世界の様相・・・・
そういう世間的な歪んだ価値観念を見破り、さっさと捨て去ることである。
深刻さを無理に大切にするならば、
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あー、困った困った・・どうすればいいのか・・
あー弱った弱った・・何とかしなければ・・・
どうして親はあーなんだろうか・・、
どうして子はこーなんだろうか・・
どうして彼や彼女はあんな風なんだろうか。
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どうして生活が苦しいのか、
だから、どうしてもリッチになりたい、
どうして世間は愚かなのだろうか、
どうして世界は無知と汚濁に満ちているのだろうか、・・
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ダメだ、これは何とかしなければ・・何かがどうにかならなければ・・
そうだ、改革だ・・革命が必要だ・・!
この・・汚れきった世界をばら色に変えなければならない!
あー、いやこの世界が滅ばなければ不幸に終わりが来ない・・。
・・・等ということになるかもしれない。
真面目な人々は、どこかそういう風に考えているのかもしれない。
多分あなたにも、どこかそういう観念があるかもしれない。
いわゆる真面目な人ほど、ことほど左様に深刻に世界をとらえているかもしれないということだ。
そういう人は、身近なところでも、拡大された世界でも、様々な確執と無理解に取り巻かれていると感じているかもしれない。
たとえそれが経済社会、人間関係、あるいは例えばスピリチュアルな観点であろうと、いつもいつも、そういう当たり前のような「深刻さ」があるかもしれないということだ。
その深刻さは、一体どこから来ているのか?
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例えば、
深刻な孤独を解決するために、理想の男女を探し求め、
国の深刻な政治状況を改善するために、黄門様のような政治家を探し求め、
世界の混乱に満ちた有様を終わらせるリーダーや体制を期待しつづけ、
あるいは、地球上の深刻さを解消するために、昨今は宇宙に救いを求めるような人もいるだろうか。
気付けばこの世は、なぜかそのような、改善されなければならない深刻さに満ち満ちているようではないか・・
そして、そういう深刻さが、さも当たり前とされているようでもある。
そうしていつも外に救いを求めてはいないだろうか。
多分あなたもそれに気付けるだろう。
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しかしながら、
そのような、あらゆる克服すべき深刻さを、さも真実であると勘違いしていることに気付かなければならないのだ。
そうして、世界を「深刻さ」からとらえているそういう観念によって、
また大勢の人々の想念によってその「深刻さ」を拡大再生産していることに気付かなければならない。
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繰り返し言えることは、外にあると見える深刻さは、
あなたの内面に映し出されているものに相違ないのだ。
外にあるもの、社会の様相、すなわち集合した人間達の思考や行為や出来事は、善も無く、悪も無く、
それはそれで<あるがまま>なのであり、
それに対する認識としての「深刻さ」や「悩み」は、あなたやわたし達という「意識」によって映し出されているということである。
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例えば、子供たちが公園で泥んこになって遊びまわっている姿を観て、やつらは馬鹿な遊びをしていると嘲笑するはずもないだろう。
カラスが1匹空を飛んでいても、それを孤独でかわいそうな奴よと涙を流すことはあるまい。
蟻達が何かをせっせと運んでいるのを見て、必死で働いている哀れな生き物として同情する人はいない。
あなたが見に行った映画が、自分の都合と違うと言って癇癪を起し、スクリーンに石を投げつけることはしないだろう。
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つまるところは、
いつの間にか、全てに<良し・悪し>のジャッジを加え、
良いと思えば快さを感じ、
悪いと思えば不快に感じ、
あげくに、その不快さが集積されて「深刻」さになってしまうのである。
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外に映し出される有様に対して、
あくまでも世俗的な価値観を加えて裁断し続けている限りは、
不都合や深刻さが残りつづけ、それに眼を奪われることに終始し、
その原因である世俗的な善悪・二元性の価値観の奴隷となっていることに気付けないかもしれない。
自らが無意識に選択しつつ、
深刻さに満ちた古い価値観、想念の塊、観念の檻の中にいるにもかかわらず、
そこから必死で出ようとしていることの可笑しさに気付けるだろうか。
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大勢の深刻な価値観の投影されたものが、
すなわち共通現実としての、この「深刻」な世界であり、
これを嫌悪しながらも、あろうことか、その因となっている共通信念を保持し続け、
それによって深刻さが繰り返し投影されているような、
そういう自らの落ち込んだパラドックスに気付かなければならないということである。
あれは良くて、これは悪い・・・・というような二元的な観念こそが、
あれは良くてこれは悪い、という現象を再生産しているということである。
大勢の人間達が、深刻に認識していることで、・・深刻さが現象として投影されているということだ。
世界の騒ぎは、単にこの深刻さのマクロ的な投影の結果なのである。
そういう世界は、いつかその騒ぎの頂点に行きつき、それを終わらせなければならない羽目に陥るのもまた自然の成り行きであろう。
なぜならば、大自然は本来変化し続ける<あるがまま>であり、
いわば人類の執拗なまでの<わがまま>はそれと調和しない有り方であり、
そうであるからこそ、いわば文明そのものが自然から脱輪して外れてしまうことになるのも、また当然の成り行きであるということだ。
あるいは、それを期待して待っているというのも、また筋違いと言えよう。
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人の周囲はあたかもダイナミックな立体スクリーンのようであり、
その立体映像は、その人の観念によってフィルタリングされ投影されている。
その集合が我々の世界という、マクロな立体スクリーンなのである。
我々の周囲、立体スクリーンというべき時空は、
科学でいうところのミクロな量子場、即ち可能性の海によって構成されており、
その量子場を様々な現象として顕現せしめている、
その根源にあるのが「意識」なのである。
我々が人として在るというこの現実は、すなわち意識的存在として在るという真実にほかならず、
自らの「意識」によって、自らを創造しているということだ。
「認識」「思考」という働きは「意識」によって行われる、言わばシナリオライティング作用であり、
そのシナリオによって周囲の時空が変調されているとも言えるのである。
簡単に言えばあなたの世界に、あなたの「こころ」というフィルムが投影されているのである。
世間というひとくくりによって、人々は古く重たい価値観念、共通認識によって、
その無限の可能性に、極めて小さいの枷(かせ)をはめられつつ、不自由極まりない、深刻な投影内容に終始していることに気付けるだろうか。
人を縛っているかもしれないのは他者の支配ではなく、当のその人の「意識」に他ならない。
あなたは未だ、外の誰かを悪者だと信じ込んでいるのだろうか。
また誰かに都合よく支配してもらいたいのだろうか。
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さまざまな深刻といわれる状況は、あなたやわたし達の眼で見える現実ではなく、そういう風に思いこんでいる「観念」からきているのである。
ここちよい風が吹こうと、
時には嵐が吹き荒れようと、
太陽が毎朝空に上ろうと、
春には春の花が咲き乱れようと、
雲がその形を千変万化に変えようと、
時には黒雲が厚く垂れ下がろうと、
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それも自然のあるがままなのであり、
その中にいる人間も本来あるがままであり、
その中に、感情的ともいえる善悪の裁断によって生じる、
様々な「深刻さ」を無理やり持ちこむ愚かさにこそ気付かなければならないのだ。
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その為に人の行うべきは、自らの世界の因たる「こころ」に気づき、「こころ」を観察し、「こころ」の働きを統御することである。
我々は今まで外の何かが良いとか悪いとか考え、また信じ込み、
結局は自らのこころに振り回されてきたのだ。
そうしてそれを外の何か、誰かのせいにしてきたのかもしれない。
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自らの意識の作用、こころは、自らの立体スクリーンのシナリオライターであり、
言葉を変えれば、
意識的存在たる人間は、意識的・無意識的にかかわらず、自らの時空を構成する量子場に、その顕現の為の仕様を与えているのである。
簡単に言えば、
信じていること、思いこんでいること、実感していることに従って、その通りの時空周囲が顕現しているということである。
深刻さばかりの創造は、実はもうどうでも良いはずである。
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眉間に皺を寄せ、
陰謀に怯え、
苦しいことを耐え忍び、
ある時は騙され、
ある時は騙し合い、
苦悶の表情を真摯な姿と見間違え、
それでも頑張ることが美徳とされるような、
人類の深刻さの演出は、もう十分に過ぎたのだ。
深刻さに対する執拗なまでの執着は、度が過ぎ、またおバカすぎたようでもあり、それこそ心の底から笑えるだろう。
そもそも本来、楽しくなければ、宇宙など出現しないではないか。
もう、深刻さの遊びから卒業し、
本来の「楽しさ」を探し出す遊びの時代になったということである。
それがいわゆる巷で言われるアセンションと言ってもいいだろう。
あらゆる深刻さへの執着を、今、全て、内から捨て去るべきなのだ。
その捨てるべき執着は・・・あなたやわたし達のマインド、こころのなかにある。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。