この世界も仮想現実である。
人々が「これが現実である」と思いこんでいる物事は、すべてバーチャル・リアリティーなのである。
バーチャルなリアリティーとは、仮の、あるいは仮に想定される、一過性の想いによって現実化するところの、出来事や事物であるといえるのだ。
通常バーチャル・リアリティーというのは、3次元ホログラフィー等の光の干渉による視覚映像の創出技術全般をいう言葉であるが、
そこに物体が存在しているように見えても、実は光の干渉によって出来ている「物体像」を見ているにすぎないということである。
物体として見えるものは、光の干渉縞によって生ずる3次元的視覚の濃淡にすぎないということでもある。
すでに世にある、ある特殊な眼鏡をかけることで浮き出るように見える立体映画なるものもその技術を利用しているにすぎない。
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バーチャル・リアリティー、仮想現実とは・・有るように見えるが実は「実体」というものは存在しない現実的認識をいうのだ。
科学による追求によっても、確たるものと見ゆる物質、原子も、その確たる存在を捉えることは出来ず、ただ存在確率と波動の揺らぎによってその存在感を生じているだけであることが理解できるだけである。
原子核、電子等の物質要素の中身は空間だらけということもわかっているし、
その原子や電子やクオーク、サブクオークなども、波動形態でしか説明できない。
物理学で提唱されている「ひも理論」は、エネルギーのひも状のパターンの振動で時空、物質等の全てが出来ているという仮想理論である。
堅固と<言われる>、あるいはそういう風に多くの人々が<認識している>「物質」も、実はバーチャルなホログラムであると言われる所以である。
実は我々は、素晴らしく堅固なものと思いこんでいるところの、仮想現実を共同で創出しているというのが<現実>なのである。
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仮の・・・という意味は、あたかも存在するように見える「物」という意味であり、実は我々が絶対的に存在しているように「思いこんでいる」諸物、諸現象は・・・、
実は存在すらしていないということである!
ここでいう存在とは、何かの不変の確たるもの・・という意味である。
そこに世界が有る・・ということではなく、世界が有るという認識が有る・・ということである。
例えば、あなたも私たちも無垢な赤子で生まれ、物ごころついてここまで来ているはずであるが、それは、無意識から初めて次第に親、家庭、社会との関係によって自己への認識なるものを深めてきたということなのだ。
一般的に赤子のころの記憶はない場合が多いはずであるが、それはこの世界の多くの人々のこころで構成される共通認識という<常識>の学習経験と、その記憶の蓄積がないということを意味する。
誰でも、学校やサークルや組織などで、初めて入る環境では、何が何だかわからない状態で、どうやって良いかを模索した経験があるだろう。
そういう赤ん坊の時代の無意識の意識の状態ともいえる有り方は、
何がどうなっているのかの情報とその記憶が無い、何がなんだかわからない状態で、
その世界と・・その世界を認識をする主体である<意識>である自己とのインターフェースが明確でないために起きることである。
赤ん坊をよく観察するといい。
それを見ている大人からすると、
彼等、赤子はしっかり生きている・・・意識を有しているが、
この世界の言葉は未だ話せない・・・つまり世間的な応答はない、
すなわち、この世界の我々の共通認識の記憶が無い、
無意識的な生存形態と見えるはずである。
赤子に「今日は良い天気だね~」といっても、「・・・・」という応答しかないだろう。
彼等は、それを知覚しているが、世間的この世的な言葉と観念の集合である「記憶」が無いために、それに応えることが出来ないということである。
・・しかしながら、赤子はあなたの言葉自体はしっかりと知覚しているのだ。
知覚しているが、この世界とのインターフェース、すなわちこの世界的な応答の術(すべ)を今だ習得していないだけのことである。
そうでなければ、今のように意識を明確に持つまで至らぬはずだろう。
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こういう風にして、わたしもあなたも、誰も皆、この世界に入ってきたわけである。
そうして今、・・・あなたもわたし達も・・「私は存在している」という感覚、自我感覚を持っている。
それらのすべての<私感覚>は、赤ん坊の頃には無かったということも理解できるだろう。
もともと持っていなかった<私>を中心にして、今ではこの世界でのそれなりの生活をしているわけであるが、
かなり不自由で、ある時にはろくでもない有り方をせざるを得ない感じの生活かもしれないし、
何を無理して奮闘しなければ生きられないのだろうかという疑問符を背負いながらの生活かもしれないが、
実のところは、
それは現実的には、仮想現実の世界での生活であり、
あなたやわたし達は不自由とも見えるその世界の中で、
泣いたり、笑ったり、叫んだり、憎んだり、悩んだりしているということなのだ・・・。
往々にして世界に不幸や不自由が溢れているように見えるのは、
現実というもの、それが、どうしようもない現実・・という重たい「観念」が故にである。
要は、認識の仕方、観念の中身が問題なのである。
現実と称される3次元ホログラフィーを映し出す波動の鋳型は実は思考、観念であり、
一般に<こころ>と言われる、認識活動そのものなのだ。
不謹慎という観念をも捨て去れば良い。
気づけば、
不幸や不満や悲しみを醸し出すように見えるこの世界の出来事は、
バーチャルな自我という、この世界に合わせて成長してきた私の<こころ>の創作なのであり、
なるほど、
嫌々しながらも不幸や困難を必死で背負っているような自分の現実の姿を見れば、
それこそ、おバカにもほどがあることに気づくことができるだろう。
自分のこころで創っている、自分の重たい影法師を見て嘆いている有様は、
まさに自作自演なのであり、また、
実にそれは、こころの底から笑える話ではないか?
そうして、それがいわゆる<現実>という、仮想・リアリティーならではの醍醐味とも言えるのである。
3次元的現実世界という、今までのこの世界とは、
自分のこころ、意識の働きに、未だ気づかぬ認識レベルにある多くの人々の観念の集合せる共通現実のことであったのだ。
しかしながら、あなたは今はもう、それを超えているはずである。
(つづく)
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。