普段のことであっても、超常的なことであっても、超能力と言われるようなことであっても、偶然の奇跡と言われることであっても、
自らの周囲の現象はすべからく、自らの想念に従って現われているのが事実である。
我々が平均的な観念に縛られているならば、その通り行き当たりばったりの偶然の世界にいるような感覚しかないということだ。
それもそのまま、今、実現しているということだ。
例えば、
『あいつは嫌なやつだ!・・みるのも胸くそが悪い・・・』という他者はいないだろうか。
そう・・、嫌な想い、嫌な実感、嫌な現象・・・はもう既に起きているのだ。
相手の言動、自分に対する影響、それから不利益を被る・・・という本能的な反応が、「嫌い」という思考になってしまい、それを固定化することで、既に確かに嫌な体験をしていることに気づけるだろうか。
思考、そしてそれに合わせた感情、すなわち想念が我々の世界を知らず知らず創り出している。
それがそうと明確に解らないのは、
思考を想いを、それ、「思考・想い」として観ていないからである。
どういう「想い」がどういう「現象」を生み出すのか?
そんなみじかな真実に時をかけ、生活の中で探求しないからではないだろうか。
自分という存在を肉体だと思いこみ、肉体・物質面、その方面ばかりの維持に明け暮れていなかっただろうか?
まずそれが先だ・・という観念である。
忙しくて、こころなんかにかまっていられない・・状態である。
そんなことより、物、金、生活の維持が第一優先であったわけだ。
そうやって眼に見える結果、現象の世界への対応に明け暮れるわけである。
人生の多くは、物量の加算、減算、反発等といった物理的なイメージばかりが支配していたのではないだろうか。
また、こころというものに気づいている人も、
こころの働きがどう関与するのか、一般の心理学的な概念のみでしか考えていなかっただろうか。
すなわち現象として出ているもののみを、苦労して外側から何とかしようとする行為だけにその「意識」を固定していたのではないだろうか。
それを称して、物質次元に固定されているといってもいいだろうか。
3次元的な、あるいは物質偏重であるといわれる世界は、大勢の意識がそういう物質偏重観念でもって、共通現実を創り上げているということである。
銭・物・金・権威・富の追究・・・・これらは行き過ぎた<自己保身>の為の想い以外の何物でもない。
それらを成した者が勝ち組だとか、そうでない者を負け組だとか、・・
途方も無い・・愚かさであろう。
まったくもって、愚かさにも限度があるというものである。
しかしながら、そのような世界は既に終わりかけているようだ。
・・・・
今はもう、人とは本来何だろうか・・わたしとは何か・・?
という原点に立ち戻らなければならない時に至ったのだ。
人それぞれの原点は、どこかに有るわけではなく、
それぞれが原点であるということである。
これは1人1人の社会的個人の権利だとかを含めて、もっと大きな意味合いがあるのだ。
意識的存在すなわち人、その1人1人が個別化表現をしている『創造者』であるということである。
創造参画者、あるいは共同創造者、とも言えるだろう。
意識を有する存在は、鉱物、動物、植物含め、謂わば宇宙の膨大なるオーケストラの演奏者である・・とも言えるだろう。
そんなこと、途方も無いことだと感じるだろうか。
途方もないのがこの宇宙というものではないか。
我々は、自らを規定する思考、観念、感情の虜(とりこ)になっていただけのことだ。
集合せる思考によって自作自演の檻を造って小さく遊んでいただけのことなのだ。
途方も無いと思われる可能性は、今までも何度となく、無数に示されてきたのだが、常識的な小さな観念以外を、どうしてかこうしてか観ないようにしてきただけの話である。
それはまた、集合意識的、あるいは常識的な慣性によって振り落とされてきただけのことだ。
我々はそれに気づき、1人1人がその集合せる『固定観念』から脱出しなければならないのだ。
・・・・
我々には、今は 想像も難しいような表現も可能な潜在力があるのだ。
ある意味常識から逸脱していると見える人々の振る舞い、
例えば超常的な現象をもたらすといわれる能力者の行為は、
それを賛美する、あるいは恐れる、あるいは無視する必要も無く、
自らも出来るだろうことの例示であるとわきまえるべきであろう。
物を空中から出現させることがいともたやすく出来たサイババのような人も、
月の裏側の念写をした三田光一も、
スプーン曲げで有名な超能力者ユリ・ゲラーも、
テレポーテーションをしたという人々についても、
単にその潜在力の例示なのだと思わないだろうか。
極端なパフォーマンスに驚き、怖れ、あるいは好奇の眼で見る必要も無く、
あるいは既成の科学で説明できないからといって、現象そのものを無きものとしてしまう思いこみも妥当ではなく、
あるいは彼らが特別な人間だと、別枠にカテゴライズする必要も無い。
排斥したり、あるいは祭りあげたりすることも愚かなことである。
嘘と真実を見分けるのも、自らの意識の眼であり、耳である。
そんなことよりも何よりも、
あなたは「自分が自分と考えている」、そのこと自体の奇跡的な有り方に気づいているだろうか。
わたしは、今、ここに有り!!
わたしは私である・・・という、気づきそのものは、
あなたやわたし達自体をこの世界にも生じさせ、
また、見はるかす世界の全ての方向への知覚をも生み出す、途方も無い事実を示している。
今までは、
我々の多くは、生まれおちた瞬間から、相当に低いレベルの観念で生きてこざるを得ず、今の社会通念が本当であると思いこんでこざるを得なかった。
素では神なる意識的存在が、人間社会に下生した瞬間から不自由な時空で人生を送る体験をするわけだ。
よく例に出されるように、何不自由のない王様が自分をこじきと思いこんでいるようなものだ。
この世界は、生れることと逝くことを含めて全て思いこみが現象化しているということである。
地球の文明は、集合意識による3次元的「共通現実」の創出された世界であるということだ。
実のところ、この世界、3次元的制約は、集合意識の現象化である。
地球の文明世界は、3次元時空によって規定されているということではなく、
そこにいる意識的存在達の集合せる観念による、共通現実の創出形態のことであろう。
・・・
まさにこれも、思考はどんなものでも現実化するということの証左であるが、
思考、それ自体に、本当にそれ自体に・・・気づけることでその集大成である常識観念を超えることができるのだ、
気づくこと、それがまず唯一の問題だ。
例えば、日常的な例であっても、
思考、イメージは製品やシナリオや様々な物質的表現の設計図となり、
あるいは人の間の約束や取り決め、スケジュールとなり、
その設計や仕様、約束事と言われるものが、
実際に行われることで日常業務やら日常の生活となる。
どこかに行くにしろ、何をするにしろ、大なり小なりその意図がある。
それらはもともと、アイデアや思いつき、考えや、ヒント等と呼ばれる、人間の意識的行為、想念と呼ばれるものである。
これらは誰でも理解できることである。
行為という現実化の1つの手段も、元は「想い」に他ならない。
・・・
多くの人々の日常生活も、その重合された社会生活も、
それらの元ににあるものは想念、「思考」と「感情」なのだ。
「そんなはずは・・ない・・・」と思っている人々は自らを見ていないかもしれない。
「あるいは・・そうかも・・・」と思っている人々は、目覚めかけた人々であろう。
「確かに・・そうだ」と知っている人は、目覚めた人々である。
集合的であろうとそうでなかろうと、自らのことは結局自らが決めているということである。
誰かの、社会の、国の・・考えや方向を採用してばかりであれば、その良し悪しに関わらず、洗脳で動いているということである。
面倒なので他者の「想念」を採用している・・ことを自らが決めているのだ。
このように、何がどうであろうと、自らのことは自らが決めているのが人間である。
なぜならば、人間には思考があり、感情がある、即ち意識があるからである。
目に見えない想念が、どうして具体的に見えるものになるのか?
というかもしれないが、
眼に見えないからこそ、眼に見えるものを生み出すのだということに気づかなければならない。
思考や感情は力であり、
思考や感情はまた情報を含むものであり、
思考は情報を含んだ潜在エネルギーであり、
存在世界として顕在化するための、
大いなる意識の自己顕現法則なのである。
I AM that I am
これは抽象的な隠喩でも、禅的な比喩でもない。
また単なる楽しい夢でも、未来へのそこはかとない希望でもない。
厳然たる事実であり、もっとも身近な真実であり、
そして、隠され続けてきた公然たる秘密である。
全ての人々は、それによって毎日の生活を行っていながら、
ただそれ自体に気づいていない、
水の中で、水を求める魚のようなものであり、
豊かさを探して放蕩する、富者の子供のようなものであり、
何を言っても聞く耳を持たぬ「幼子」のようなものであったのだ。
思考はあるいは想像、イメージは宇宙で最大のパワーである。
これが真実である。
我々が囲まれているこの宇宙、常にその向こうを見ることができない無限の宇宙も、神の想いによって生み出されているといえる。
思考と言えば人間臭いというならば、無限の「意識と意図」で生みだされているのだ。
それを神と言い、創造主と言い、あるいは一なるものという。
それを根源といい、ソースという。
狭い宗教観念は、もういい加減お役御免にすべきだろう。
常に古い観念カテゴリーに捉われてしまうこころの癖は、もう金輪際放り出すことだ。
問題は、唯一の問題は・・・
それぞれの1人1人の・・こころの癖、 思考のかたまり、 記憶のわだち、今まで培ってきた嘘の観念、刷り込み、刷り込まれたプリント地のような、あなたやわたし達の先入観なのである。
他の人の意見や価値観ではない。
・・・・
それぞれのわたしの世界の唯一の根本原因は、
他者でもなく、外の社会でもなく、国家でもない。
あなたやわたし達が、
何を・・・どう・・・思っているか、
何を・・・信じているか、
まさにちょうど、その通りの具現化を続けているところの、
それぞれの<わたし>なのである。
今起きている、そしてこれからやってくる激動は、その目覚めを求めているようだ。
たとえ外の世界で、
何があろうと、無かろうと、
こころを静めて汚れを祓い、原初の意識に繋がっていることが大切である。
無限に繋がるそれぞれの<わたし>に気づくこと。
そして、
それぞれの<わたし>は無限の、無条件の<愛>で繋がっていることに気づくこと。
これが宿題であり、また卒業のテーマではないだろうか。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
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