●当たり前の奇跡に気付けるか
我々はいつも我々以外のものに生かされている。
空気があるから、呼吸が出来る、それなしでは一瞬も生きてはいけない。
光があるから、様々な風景が見える、それなしでは暗黒の世界だ。
熱があるから体温を維持できる、それなしでは世界も瞬間に凍りつくだろう。
大地があるから、鉱物、植物、動物が造られる、それなしでは空(くう)のままだ。
水があるから、エネルギーの循環がある、それなしでは全てが干からびてしまう。
ふと思えばその通りだが、人はそれを『当たり前だ』と笑うだろうか。
しかしながら・・・、
我々は、いつもどこにもあるその当たり前の存在たちに生かされているのだ。
我々を根本で支えている大自然、大宇宙・・・、
それはあなたに代価の金銭を払え・・等とは言わないながらも、
無償で、無条件で、あなたやわたし達を生かしているのだ。
天、地、気、土、火・・・象徴的な言葉であるが、
我々も、これら全てに生かされて『今』在ることが出来る。
今、この瞬間にも、・・・
まさにこれが我々人類の置かれた、根本的な事実である。
それを言うならば、大自然、大宇宙とは無条件の『愛』の現象化であり、
我々人類自体も、その無条件の『愛』の現象化なのだ。
●『争い』は人間の観念でしかない
大気も水も大地も太陽も、決して人間が用意したものではない。
無条件に、いつもそこにある・・、我々の周りにある・・、我々の身体自体をも造っている。
我々が皆、後生大事に扱う身体も全て、その全てがそれらによって造られ、維持されているのだ。
どういう詭弁を用いても、どう言いくるめようとしても、この大いなる事実は変え様もない。
全てが全てを生かしあっているのだ。
空(そら)が雲と戦っているのか? 嘘だろう。
地球に溢れる水が大地を侵しているのか?
大気が太陽の高熱に犯されているのか?
大自然は勝利すべき相手であり、焼き払ってもいいのか? 嘘だろう。
一体全体、調和そのものである大自然に、闘いを持ち込んだのは誰なのか?
●自然から離れ、愛を忘れていた間
無条件の生かし合いという『意図』と『意識』の現象化の中で我々は生かされているのだ。
宇宙空間であろうと生態系であろうと、全ての形態が、大いなる全て形態の中で相互に生かされているのは明確である。
我々はそれを長い間、四六時中忘れてしまっていたのではないか。
最も当たり前のこと、最も身近なことのなかにこそ、
あなたを今生かし続けている『事実』があることを・・。
全てが生きて、全てを生かしている『事実』、それを『愛』とも言っていいだろう。
●愛は万物の間の響き合い
多くの人は『愛』を男や女の「情愛」や「性愛」と勘違いしているのかもしれない。
情愛や性愛で絡まる『執着観念』は、実のところは自己生存欲からくるものであり、
理屈抜きで『直感で響きあう』性質をもつ『普遍の愛』そのものが、
社会の渦の中で、いつの間にか欲得づくの自己存続の厚衣にくるまれたものだろうか。
相手に誠意がないから自分も誠意を出さないで良いという観念、自分だけ理解を示せば損をするという思い込み。
なるほど、誠意や愛も『損得勘定』の中の大きい銭のようなものに感じているかもしれない。
誠意や愛を求めてさ迷いながら、自分では決して誠意や愛を出したがらない人の群れ。
実のところは、
『愛』は普遍的であり、人為的な加工物、観念ではない。
愛は情愛でも性愛でも、自他の執着でもない。
それを言うならば
『愛』とは万物の間の『響き合い』と言っていいだろうか。
そう、ある意味で、
『愛』は、『響き合い』なのだ。
●人間としての役目
お互いがお互いを無条件に認知している在り方、意識している在り方。
言葉を変えれば、存在と存在の間の相互認識作用、『波動の共鳴』ともいえるものだろう。
それは人間の観念や理論や理屈など一切介在しない、直の『波動的共感』でもある。
『愛』、『波動の響き合い』
それを最も感じることが出来るのは、実は、意識的存在である『人間」なのだ。
あなたもわたし達も、人生のほんのチョッとした瞬間に感じてきたものでもある。
「意識」における響き合いは、男女の間、師弟の間、親子の間、他人との間に理屈抜きの感情としても生起するが、
決まってその後ついてくる社会通念、重い想念、観念によって執着へと変化する場合が多いことだろう。
愛が執着という泥沼になり、理解が非難という槍の切っ先になるのは、エゴという「我良し」の想いがいつの間にか入ってくるからだ。
全てに重い条件がついてくると、愛が執着にすぐに変化してしまうものだ。
確かに、執着によって重い想いを引きずりながら歩くのは疲れるものだ。
しかし、元にあるのは「愛」に違いない。
無条件の響きを感じたことは、愛であり、共感に違いないのだ。
どのような人生も、素晴らしく意味の深いものであるのだ。
●怖れが作る我良しの観念
あなたはもう理解していることだろう。
万物の愛はすっきりした、曇りのないこころでしかわからないものだ。
その為には、
全ては全てで、生かされているという根本的な事実に気づき、
こころの曇り、我良しの想い、我欲の歪(ひずみ)をきれいに落してゆく必要があるのだ。
その曇りとは、・・人、自然、宇宙への怖れである。
自己の肉体が全てであり、その個我を生かすためには、他のものは犠牲になっても良いとする想いである。
それを「我良し」の観念という。
人が人に、世界が世界にどこか敵対してあるという、わけのわからない「怖れ」であり、
自己存続は闘いで勝ち取るしかないという低次元の観念である。
怖れを排除するための闘い、それによる新たな怖れの繰り返しの車輪の轍を作り上げる。
自然界は闘争場であり、競走場であり、弱肉強食という、極めていびつな観念の轍(わだち)を、
今すぐ放り出せ。
たった数十年の人生を、人は人々の闘技場で過ごすのか?
嘘だろう。
●ただ、こころの汚れを洗うべし
愛、万物の響き合い、それは
それはどこにも遍満する、当たり前の在り方であり、あるがままの真実なのだ。
それが見えなかったのは、様々に、また幾重にも重なっていた、
あなたやわたし達の重い想い、先入観念、常識という、
不活性でネガティブな観念群の賜物である。
それは、
我々は、事物の『有りのまま』を見るのでなく、
我々の植え付けられた『観念』を見ていただけのことだ。
こころのざわめきの向こう側は、ざわめきでしか見えない。
水面が乱れていては、それに映る月も、本当のその姿を見せることはないように。
●天地全てとの和解
いつも天にある、あの青い空、白い雲は決して同じ姿はみせないが、いつもそこにある。
そこに『存在している』ことで、あなたにその姿を『見せて』いる。
あなたは眼で、それを光として知覚している。
つまり、彼らはしっかりとあなたの中に響いているのだ。
空や雲は、人のようにぺらぺら喋らないからといって、人はそれを無意味と感じるだろうか。
空や雲でさえ、あなたの為にいつもそこに在り、その『存在』をはっきり『示して』いるのだ。
彼らの存在の言葉は、ダイレクトにあなたやわたし達に映像として、体感として内面に響いてきているではないか。
あなたもわたし達も、その存在の響きを内面で感じているのだ。
響き合い・・愛がいつもそこにあるではないか。
見えるもの、聞くもの、嗅げるもの、感触で伝わるもの・・・すべては
波動による響き合いである。
例えば、野辺に咲く花たちは、同じくその姿をあなたの目を通して、
あなたの世界に存在していることを顕示しているのだ。
時には風とのコラボでもって、ゆらゆら揺られて見せてもくれるだろう。
彼らは、光と風によって、あなたの意識にしっかり響いているのだ。
あなたもわたし達も、その存在の響きを内面で感じているのだ。
それをそうと感じないのは、
常に、こころが何かの観念で騒いでいるからなのだ。
仕事、お金、親子関係、世界の出来事、あらゆるものが問題であるとして、
いつも、こころを曇らせていたのではないのか。
あらゆる事が本当に『問題』なのか? ・・・嘘だろう。
●本当は、森羅万象は愛・響き合いで満ちている
大自然、万物は、あなたやわたし達を批判もしなければ、挑発することもない。
ただそこに在り、
全ての人に、物に、事に、彼らなりの言葉を投げかけているのだ。
何万年も、何千年もそのようにして、響いていたのだ。
人の役目は、それに気づくこと、
その生命の響きに応じること、
響き合いの只中にいたことを思い出すことである。
全てが響き合うこと・・それを愛ともいう。
宇宙、森羅万象は、難しい分裂した小理屈で出来ているわけではない。
法則は極めてシンプルなものだ。
今すぐに、いつでもどこでも出来るのは、
まず、感謝なのではないか。
気付かないでごめんなさい。
無条件の愛を、響きをいつも、いつも
ありがとう。
全てが全てを生かし合い、響き合っていること・・・
これらは決して絵空事の、架空の美しい理念等ではなく、
あるがままの事実であることに気付くべきだと思う。
そうすれば、あなたの世界は、既にもう、変わっていることにも気付くだろう。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。