気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

生と死の真実(2) 地球三次元映画館

2010-09-26 10:55:10 | 覚醒意識

●常識の根底にある恐怖の観念

 

明確に言えば、大人の多くは生と死の何たるかを知らないし、また生を、生き生きとした輝くものにするところの「死」を、逆に怖れるような「観念」に染まっているだけのことなのだ。

 

死についても本当の事は知らず、ただ死を怖れている、あるいはまた生をも怖れているということであろう。

 

大人は知ったかぶりをしているだけのことで、生も死も何も知らず、知らないがゆえにこそ怖れているだけのことであろう。

 

大人が騒ぐ低レベルの経済・GDP成長信仰や政治や、国家間のくだらぬもめごとも、たいがいは自己保身毀損への怖れが元にある。

 

 

●身体=自己という刷り込み観念

 

死への恐怖とは、突き詰めれば、すなわちまず身体を失うことへの恐怖である。

 

違うだろうか?

 

しかしながら、身体は、元々生れた時に備わったものであり、それが成長する体験を経るとはいえ、いわば地球からレンタルしているようなものでしかない。

 

身体など、もともと持ってはいなかったのが事実である。

ここでの、この生自体も元々なかったわけである。

身体も生命も、借りものである。

 

これが事実ではないのか。

 

生や死を怖れるのは、この事実から眼をそらしているからだ。

何も持ってはいけないことが理解出来れば、執着のない、清々しい生が体験できるだろう。

 

死とは怖れ、忌み嫌うものではなく、生を全うするための生命の1側面なのだと気付けるだろう。

 

生と死は同じく「生命」の表現のことなのだ。

 

 

●肉体個人:エゴの幻想

 

大自然から借りた有機組織:身体を、いつの間にか自分自身であるという観念に固まってしまうような程度の文明であったこともまた事実ではあるが、

 

人は皆、この一見まともそうでありながら、実は虚妄の、現文明の垂れ流す観念を超える必要がある。

そのうち世界では、科学や技術を使って、生や死を超えるような何か特別のものが出来るかも知れない・・などという嘘を期待してはいけない。

あなたは既に特別な存在なのだ。待つことも恐れることも、また期待することも必要がない。

 

自己を貶める必要など全くない存在が、すなわち、あなたなのだ。

 

汝自身を知れ・・・という深遠な言葉を知っているならば、

自ら問いかけるべきであろう。

 

わたしとは何なのか?

まさか私とは肉体である・・と言うのが最終結論ではあるまい。

 

汝は肉体である・・という観念は、あなたは単に有機的物質にすぎない、という観念のことなのである。それが世間一般の漠然とした通念であろう。

 

しかしながら、

 

私は、わたし自身を身体であると思っている・ところの存在であるというのが真実なのだ。

 

それをR・モンロー流にいえば「フォーカス」している、あるいは焦点を合わせている、あるいは自己投入している・・ということだ。

 

このように、あなたもわたし達も「意識的存在」であり、単なる物的存在ではない

そう、

そうであるがゆえに、わたしは肉体だ、と思い込むこともまた可能なのだ。

 

 

●恐怖はエゴ的自己の抱く虚妄の観念

 

どこか唯物論的な固定観念を、正しいものとして無意識的に信じ込んでいるがゆえに、身体の毀損や喪失を最も怖れるのは、至極当然の成り行きである。

 

人類の多くの活動・非活動は、『自分の身体』を維持するための方策でしかない、といえば言いすぎだろうか。

 

経済も社会も、仕事も人間関係も、この『自分=身体』をいかに安楽にするかということで行われているといっても過言ではない。

 

気付けば、多くが身体:自己を失う怖れが根底にあるようだ。

 

失策を怖れ、競争での敗北を怖れ、失業を怖れ、地位の転落を怖れる。

 

仲間はずれを怖れ、病気を恐れ、怪我を怖れる。

 

ましてや身体を丸ごと失う「死」は最も怖れられ、忌み嫌われることになるのも、当然だろう。

 

生存のための駆け引きや自己への利益誘導、他者より優位に立とうという欲求は、個人でも社会でも、また国家でも、それがあからさまに行なわれるような世相になっている。

 

これらは多くは、肉体を毀損し失うことへの恐怖から来ているのだ。

 

怖れをベースに存在している私、それを称して個我、エゴの自己という。

しかし、なるほどとはいえ、一体全体何がそれほど怖いと言うのだろうか?

 

 13

 

●人は意識的存在である 

 

人間とは意識的存在であり、物質的存在ではない。

 

それは普段のあなたやわたし達の在り方を見れば理解が出来るはずだろう。

 

そう、常に何かを意識しているはずだ。「想い、感情、想像・・」すべて意識の働きのことである。

 

その『意識』とは、宇宙を顕し続けるところの『根源意識』と同質であり、その意味で我々は「根源意識」と違ってはいない。

 

人の意識の拡大が未だ途上にあるだけのことである。

 

宇宙、森羅万象は根源意識のダイナミックな自己認識であり、人間の有り方はその根源意識に含まれる、同質の意識のダイナミックな自己認識なのだ。

 

 

●あなたは否応なく、常に自己を創造している 

 

わたしは「わたし」である。  あるいは、

 

わたしは「わたし」であるところの存在である。 あるいは、

 

わたしは有る。

 

これら全て、意識的存在としてのその存在原理を言い表したものであるが、

その「わたし」の処に、肉体・・を挿入して、固定化してるだけのことだ。

 

すなわち、わたしは「肉体」である。という、意識による固定化である。

 

わたしは○○という名前である。わたしは○○の経歴である。・・・・

 

我々が、その現れた刹那の自己の投影物に、自己同化してしまうお陰で、その「投影物」が変化し、あるいは消えて行くこと自体に恐怖を覚えることになる。

 

投影物が自分自身であると錯覚しているがゆえに、その、おのれの投影物自体の消滅、肉体の消滅、すなわち『死』に恐怖を覚えるのだ。

 

あなたが「それ」そのものに自己を投入しているからこそ、それが失われることを怖れるということである。

 

人間の生とは、根源意識による生命表現の1つであり、死とは同じく生命表現の切り替わりであり、死それ自体も生命表現に他ならないのだ。

 

 

●皆、地球映画劇場の主人公のようなもの

 

例えていえば、我々は映画館にいつの間にか入り、客席に座って映画を観ているようなものだ。

 

周囲は暗く、周りに他の観客がいるのはわかるが、たった一人でスクリーンを見ている感じは普通の映画館と同じだ。

 

その映画の主人公は、それぞれの観客自身であり、常にスクリーン上の主人公たる自分に自己投入しているわけである。映画が面白いのは、いつの間にか銀幕上の主人公に自己投入してしまい、その中で行なわれる物語にハラハラドキドキすることにあるからだ。

 

またその映画は実に三次元的立体感を持ち、身体の知覚機能によって、我々の周囲が全てスクリーンのようなものなので、なお更のことリアリティを感じるものがある。

 

例えていえば、

  

あなたもわたし達も、この地球という生命圏で、三次元的な立体スクリーンを観ているわけであるが、往々にして、その中に完全に没入・自己投入することになり、その上映している内容が全てだと錯覚してしまうようになっている。

 

数十億の人々が、上映されている映画の、それぞれの主人公に自己投入しているわけだ。

 

映画での恐怖や快楽の遊びを体験しているというわけだ。

 

あなたも今、そうではないのか?

 

その上映の一定時間後の幕引きは、即ち「死」といわれる幕外での休憩である。

 

多くの存在が、その映画を堪能したと考えるまでは、その続きを観たいと思うものだろう。

 

その場合、上映館の周囲の休息場所から再びスクリーン席に戻り、観客席で再び目覚め、その続きを観ることも出来るのだ。

 

続きといっても、再び何か別の興味あるストーリーの映画に再登場するという形をとるものだ。

 

例えて言えば、それが霊界・地上界経由での輪廻・転生ということになるだろうか。

 

その繰り返しの映画鑑賞の間に、いつの時にか、その映画を観ている「当のわたし」を思い出すことになる。

 

 

あるとき、何かのきっかけで、我(われ)に帰ることもある。

 

それは覚醒や悟りと言われる、本質的な気づきのことでもある。

 

わたしは、即ち「わたし」である・・

 

自己投影している先の映画上の主人公ではなく、スクリーンに投影している当の主体である「本来のわたし」に気付く時が来る。

 

そう、わたしを観ている「わたし」に気付くのだ。

 

その本来の「わたし」とは、投影された者、現象化した者ではなく、その因たる「わたし」のことである。

 

あなたは「投影物」でなく「投影システム」そのものであるとも言えるだろうか。

 

あるいは、

 

あなたとは、映画の陰影を創り上げる元の「光源」自体のことである。

 

すなわち我々は「光源」自体である、また根源自体でもあるのだ。

 

あらゆる形態を顕す事ができる無限の振動波とも、根源波動とも、あるいは「光」ともいえるもの、それが当の「わたし」である。

 

あなたやわたし達が「光」であるというのは、そういう意味でもある。

 

光とは、根源から発せられた不滅の命(いのち)のことを謂う、

 

すなわち、今の、あなたのことである。

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


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16 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Pじゃ いや Pです。 ()
2010-09-28 20:56:09
Pじゃ いや Pです。

こんばんわ!あー 重い 重い
人生は、重いです。
この年齢で 3度目の転職・・・
自分の過去たちが繰り返す 対立
ふー いつまで続く カルマ物語

そして何より、自分との闘いにも負け続けです。
自分を許し過ぎて、ゆるゆる です。

だけど、少しはシンクロもあったりで
自分は一体どんな状態なんじゃろ? と。

今日出てきましたのは、人生の特別なタイミングだったからです。

そのタイミングに 重く沈んだ言葉たちを 少し起こすには

この峠の茶屋が最高の場であります。
あーそれでも本調子とはほど遠いです。
しょうがないですね。そんな時もあります、人生は・・・。

精神世界の言葉はどれも美しい。
しかし、現実とはほど遠い・・・。
この世をニルバーナとみなせる境地からは
はるか遠くに居ます。

まーそれで良いです。
大学入試みたいなアセンション狂想曲に
落ちたとしても 笑

いつになったら、自分の情熱が盛り上がってくるのか・・・
わかりません。悩む!

以上、つまらん近況報告でした。

Pより
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Pさん おはようございます (マッチョマン)
2010-09-30 07:08:09
Pさん おはようございます
 やあやあ、P爺さんお久しぶりでございます。

重い・・
なるほど、人生確かにそんなもんですよね。
わたしもどちらか言えば、真面目一方でやってきました。
そうであるためには、いつしかこころのノウハウ・・重武装
を身につけていたようです。

しかし実のところ、重いのは自分の「観念」です。
社会でも他人でもなく、
重いのは我々が内面に刷り込んできた「観念」です。

重い『思い』で処する人生、これが本当のところですかね。

まだ大勢の人々は問題だらけの重い世界を見ています。
それもこれから段々に重くなると言われていますね。
戦々恐々、わくわく・ドキドキ・・みたいな観念遊びでしょうか。

・・・
良く良く考えたら、一体全体?
なにが、どうしたというのだろうか?

どこにも何も問題はなかった。
あると思ったのは、それ自体の重い思いしかなかった。

これは誤解を生むかもしれませんが、ありのままを観るためには、
自分という我の曇り・余計な観念群をぬぐう必要があるということですかね。
人生は重い思い・「我」を下ろして行くプロセスではないかと・・。

単純ですが、
そんな感じです。(大笑)
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マッチョマンさんこんばんは (メイ)
2010-10-03 19:57:28
マッチョマンさんこんばんは
映画は 昔のほうが面白かったような気がします。
役者がうまかった上、存分に感情移入し自己投影していることに満足していました。
Pさんだ^^ すごくお久しぶりです。
お元気で嬉しいな・・・ほんと もう2年ぶりくらいでしょうか。
どうであっても、お元気だと伝えていただける事が嬉しいです。
そして変らず 温めのお茶を用意して開いていて下さるマッチョマンさんには心から「ありがとうございます」を 言うために参りました。
つまらないコメントですみません。
最近とても無口になりましたので^^ 他所様のところにコメントするのも結構緊張します。^^;ごきげんよう
返信する
メイさん おはようございます (マッチョマン)
2010-10-04 08:49:38
メイさん おはようございます
 遅くなってすいません。

あーっと・・いつもの温めの玄米茶どうぞ。
峠の茶屋なのに、忘れるとことでした。てへっ

一挙に秋になりました。
大気には、昔のような絶妙なマイルドさが影を潜め、
荒々しさが目立ってきた感じもします。
変わらねばならない時には、「自然に」変わるということでしょうか。
・・・
 
そうですね。
映画を映画と知らない、役者を役者と知らない面白さでしたかね。

今の時代では、荒々しく、感情の嵐吹きすさぶような、粗いこころをもつ人々世の中に登場するわけですが、それに巻き込まれながらも、そこからこそ本来の輝きを発することが出来るようになるということでしょう。

巻き込まれながらも、決して巻き込まれていないことに気付く。
なるほど人間は本来、
役者であり、・・そして観客であり、また監督であり、原作者でもあるわけです。
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Pです。 ()
2010-10-04 23:21:07
Pです。

メイさん、今晩わ。
声を掛けて頂きありがとうございます。
いつぞやは、「暗に」 つまらん事を書いてしまい
申し訳ありませんでした。
ですが、まあ、私に御意見下さる時は
名指しでお願いしますね。

鎌倉武士のようなところがありますもんですから・・・。
それと気づいてほしい、シークレットメッセージも
あったのですが、言いません。(笑)

メイさんに同じく、言葉が超重いです。
気が合いますね。

多分、新しいエネルギーに対して
何かが引っかかっているのでしょう。

マッチョマンさん御指摘のとおり、「我」なんでしょうが・・・。

この前書いたのも、別に相談というわけでもなんでもなく
まー正直に、俺はこんなもんです
みたいなことを書きたかった次第です。
自分を救えるのは自分しかいない・・・これが真実だと思います。

自分の現状は、全くもって、さやしんさんの予言通りでした。

そして自分としては
政府系機関=特殊法人(現 独立行政法人)の係長
父親の経営する会社の専務取締役
を経て
現在某会社の見習いのような平社員
という変転に対して、ついていけているようでついていけてない
ような次第でして、通勤時間も20分から1時間越え等
色々しんどいです。
それでも経歴的には、キャリアアップできていて
さらなるキャリアアップが可能な環境で仕事ができていることは
本当に感謝すべきことなのだと思っております。

とにかく、何か気忙しく、精神世界にゆっくり浸る余裕がない感じです。

なんなんでしょうか?カルマでしょうかね。(笑)

それではまたの機に・・・
返信する
やや~我こそはメイなり~~ (メイ)
2010-10-05 10:31:54
やや~我こそはメイなり~~
マッチョマンさんお邪魔します。
風邪をひいて重いメイですが、 やっぱりもう一度お話の機会がやってきましたとても嬉しい! 待ってた日がこんなに早くやって来たという感じです。

Pさん それそれ・・・あの色のお話のことですよね。
Pさんに対してじゃなかった・・・とマッチョマンさんにお話してから、でもきっとこれはいつかPさんに伝えられる日が来るから、誤解だと今はコメントするのをやめますとあの時内緒でお伝えしたんです。
もうどうだったのかも忘れましたが^^;
でも、こうしてやっぱりお話出来た事が何より嬉しいです。

Pさんを勝手に兄弟か同士と私は思っています。
Pさんは心外かもしれませんが、似ているなと思うことが多かった。
近寄らないほうがいいときがお互いに多い(笑) それもいつも感じていました。
姿はなくとも いつもどこかで元気にしていらっしゃるとなんとなく感じるので、実際に言葉は交わさずとも安心していられました。

シークレットメッセージ? 気になるな(笑)
予言どおり? もう変った?
Pさん ありがとうございます 
この世の過去での気になったままのこと 何一つなくなりました 
おかげさまです。
通勤ご苦労様です 近くになったのかもしれませんね。
返信する
メイさん ()
2010-10-05 22:55:54
メイさん

>Pさんを勝手に兄弟か同士と私は思っています。
>Pさんは心外かもしれませんが、似ているなと思うことが多かった。
 

このように思って頂いている方に、随分な思いをさせて
すみませんでした と 再度 謝っておきます。
 
今日は、色々な対立が妙に溶ける日であります。
こんな日が長く続くといいなと思います。
   

たぬきになりましょう。たぬきに。
余裕(「空」)を持って自分をうまく化かす たぬき に。
マッチョマンさんも おおだぬき です。
峠の茶屋の おおだぬき主人 です。
あとから あとから 化かしの術を繰り出す おおだぬきです。
知ってました。お会いした時からずっとです。
化かしあいにもそろそろ負けそうですが・・・。
  
眠くなったので、終わります。何じゃこの文章の終わり方は・・・。
返信する
Pさん メイさん おはようございます (Unknown)
2010-10-07 07:06:09
Pさん メイさん おはようございます

昔むかし、にらめっこ・・という
お金を掛けない遊びが有りました。(笑)
今でもありますが、

相手の顔をにらんだり、ひょっとこ顔をしてみたりして、
笑ったほうが負け・・という遊びです。
 
何とかして相手を笑わそうとして、
自分の顔をいろいろ変えるのですが、

子供ながらに、
相手の「必死」の形相や、そんなはずない・・ほどの
「可笑しな」形相をを観て、
自分も同じようなことをやっているんだな~・・と思って、
 
お腹の底から笑いがこみ上げてきた覚えがあります。
 
人生でいろいろあるのも、まったく同じようなものです。



ぽんぽこたぬきの合唱団・・登場
・・・・・・・・・
たんたん♪ たぬきの~~♪
 
き●●ま・・・は~
  
かーぜに揺られて、ゆーらゆら・アア~♪♪
  
そーれを・・見ていた~♪  ●ちゃんは~~
  
お腹をかかえてっ~[E:happy02] わーはっは~♪
・・・・・・・・・♪
  
うわーはっは~♪


返信する
マッチョマンさんですか↑?? たぬきの? (メイ)
2010-10-07 23:32:48
マッチョマンさんですか↑?? たぬきの?
大変失礼しました。

おそらくですね・・・Pさん お誕生日だったんじゃないかと(特別なタイミングって) 
遅ればせながらおめでとうございます。
私と丁度反対側の星座でしたよね。

にらめっこも 大好きだった遊びの 「だるまさんがころんだ」も、だるまですけど、マッチョマンさん!
このだるまさんは 達磨のことですよね?
遊ばれてますやん 達磨 daruma
考えてみれば、こういう遊びの中にも意味があったりしたんですね。
返信する
メイさん こんばんわ (マッチョマン)
2010-10-08 21:56:43
メイさん こんばんわ
 あれー、さすが気配りメイさん・・みたいな。
朋友の誕生日とは・・気がつきませんでした。

・・・・
 そうですね。
達磨大師は壁に向かって行をしていたのでしょう。
それを見ていた一般の人達が、
達磨の、壁とにらめっこしながら座り続ける姿を見て、
その不可思議さと、どこか感じる滑稽さを伝えたものでしょう。
・・・
それは1つの精神統一の修行とも言えるものでしょうが、
実のところは、
溢れる感情や想念を浮き彫りにするための工夫のようです。
 
外からの五感の刺激をなるべくセーブしながら、
内面から湧き出る様々な想念を浮き彫りにするためです。

条件付けされた、その時々の想念に翻弄されることなく、
わたしが「わたし」であることを見出す為なのですかね。

普通の一般的な「現実」と言われる、他者が造ったストーリーを演じるしかない不自由な登場人物から離れ、
本来の観客に戻ること、人生という映画を観て自分で感動できる存在に戻るための真摯な修行なんではないかと・・。
・・・・

達磨さん♪、だーるまさん・・

にらめっこ~しましょ~う

あっぷっぷ~♪
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