●無知の知
わたしは「わたし」である、という言葉を表面的に捉えれば、なにを言っているのかわからないだろう。
それは、至極当たり前のことである。たしかに、わたしは「わたし」なのだから。
まさに当たり前のことのようであるが、しかしながら、わたしは「わたし」である、という「わたし」とは何であるか、それを理解している人はそう多くないだろう。
投影された外世界のみを見て、自己自身を観ていない間は、ヒントすらも見えないかもしれない。
その昔、デルフォイの神殿の前に掲げられていたという言葉、
「汝ら、汝自身を知れ」 という問いかけに感じるものはなんだろうか。
それは永遠の未来でしか解らない謎かけだと感じるだろうか。
いかにも哲学的で、思わせぶりな無理難題・・と感じるかもしれない。
●汝自身を知れ・・への一つの答え
・・・
あなたとは何か。・・
えっ!わたし?・・そういえば・・わたしは一体・・なんだろう?
あなたとは多分、生まれてここまで生きてきた経緯のこと、すなわち記憶を指して「あなた」を説明するだろう。それ以外は、多分・・「記憶にございません(笑)」ということであろうか。
すなわち、通常自己だと認識しているあなたは、「あなた」の生きてきた、過去の記憶のことであろう。
・・・
あなたは何か。それを知るすべは、
「汝ら、汝自身を知れ」という謎の言葉のなかにある。
「汝は何者か?」
と問われて、答えるべきは、
わたしは「わたし」であり続けるところのものである。・・・
という当たり前の、しかしながら根本的なあなた自身の存在原理のことである。
わたしは「わたし」を知り続けるものであり、あるいは自らを発見し続けるところのものであり、また「わたし」は、自らを探求しつづけるところのものである。
それを面白くも無い、平たい言葉で言えば「自己認識」という。
またそれは、自己を自己として観ている有様のことを言うのだ。
これは個人主義ではなく、コスモポリタニズムでもない。
皆々が生きて在る、原点たる、今のこの瞬間に気づくことなのだ。
本然のわたしである・・ことへの目覚めである。
それはまた、
神なる者たちの集団自己催眠を解き放つための、
また三次元という遊び場からの解脱の必須なプロセスでもある。
限りない宇宙、また数多の海の砂のごとくある諸世界は、それら全てを含む大いなるものの自己観想、自己認識によって現前している。
それを神の宇宙創造とも言っているのだろう。
低次元も高次元も、無限小も無限大も、その中に全てを含む根源たるものの自己観想であると言えようか。
そう、神とは「神自身」を知り続けるところのものであり、
同じく、
また、あなたは「あなた」を知り続ける者である。
「今」が常に永遠の瞬間であると悟れるものにとって、
わたしとは・・・、
永遠に「わたし」で有り続けるところのものであるということを知るだろう。
そう、あなたは「あなた」でありつづける者である。例えば、今生で思い浮かぶ過去という記憶は、その1断片にしか過ぎないのだ。
あなたが「どこの、何々という者で、どうこうして、こうして、こういう名前である者だ・・」という通り一遍の答えは、
言わば、自身の相対的な投影の数々の断片、単にそれを言っているだけのことなのだ。
田中太郎、山田花子・・という世間に存在する通り一遍のあなたは、あなたの一面であり、全てではないということに気づくだろうか。
それは人生という道を、振り返り、ここまで来た「軌跡」を眺めているということを示しているだけのことなのだ。それに終始していれば、我々は体験の「記憶」の集まりであり、その体験をもたらすところの「肉体」であると考えているに違いない。
あなたとは、過去であり、また記憶でしかないという想いが、「あなた」を「今」の瞬間瞬間に固定定義付けしているのだ。またその体験群の基盤となる身体を「あなた」と認識している。
今のこの時空における集団的な自己認識作用の流れに浸かっていることに気づけるだろうか。しかもその流れからは、ほんの数十年で離脱しなけらばならない定めだ。
単に、世間の価値観や信念体系を取り入れている・・というやり方で、自己を認識・規定し続けているだけのことである。
あなたは、いつもあなたと自己認識している存在なのだ。
今という瞬間に、永遠のなかの1コマに描かれた自己の姿を観ている、「あなた」自身に気づいただろうか。
●人間とはいわば自由自在神
自己を観るということは、自己を認識し続けているということであり、自己をその都度創造している・・ということなのだ。
いわゆる三次元的なあり方とは、自己認識作用、すなわち創造に参加していることに気づかない無意識的な在り方のことであり、自己は1小片の肉体であると・・と思い込んでいる有り方である。
また、それから逃げようとする行為と、そこに無意識に自己投入しょうとしている行為とは、同じ次元の単に方向の違う動きでしかない。
遥かに見晴るかす位置にあるためには、自己の意識で創りあげる梯子を上るだけのことである。
自縄自縛も解脱も、まさに、自由自在であるからこその選択の結果でもあるのだ。
心底笑えるような、宇宙的な冗談であろうか。
人とは、
想いという無限に多彩な波動を通じて、
部分から全体を眺めるべく、自らの次元を自在に調律する存在のことであり、
全体を常に全体として観ている大いなる意識、
すなわち「一なる創造の根源」から放たれた無数の「不壊(ふえ)の光」であり、
またそれは根源からの愛という波動ともいうべきものである。
その光・波動は、あらゆる可能性を内包し、
無数のあなたやわたし達という存在に結実しているのだ。
汝自身を知る・・・・当の者は、
知識の多さではなく、
分別の多様性ではなく、
経験の過多でもなく、
今のこの奇跡の瞬間を感じている者のことである。
「わたし」というものの無限性を観じていることである。
それは検証も証明も論理性も不要の、
素のあり方のことである。
素のあり方とは、
有限でありながら、いつも無限を感じているあり方であり、
全ては究極でひとつと、識(し)っていることである。
それは、感謝が普通に溢れる感情のあり方であり、
あるがままとは、
人も岩も川も草も、太陽も、月も、惑星も、銀河も、銀河団も、
そして、父も母も、教師も同僚も、悪人も善人も、すべて仲間たちであり、
無数の仲間と一緒に参加し生きている、
この今の一瞬に
こころの底から感動出来ることである。
●いつもある「あるがまま」
生きていることは、
決して労苦ではなく、そのままで楽しいことなのだ。
また、それを悟るまでの、
今までの人類の長い道にも、非難と中傷ではなく、
感謝と賛辞を捧げるしかないのだ。
・・
今はもう、
勇気と潔さをもって、静かにこころを観想し、
ありもしない「労苦」というオモチャを片付け、
こころ固まるだけの「執着」という糊を手放し、
おのれの影法師である「死」や「怖れ」を放り投げ、
生存競争という建前、我欲という看板をたたみ、
・・
いつも在った、また常にそこに在る、
「あるがまま」に帰還すべき時なのだ。
確かにそれは、いつも「今」という瞬間でしかない。
あなたや私たちが、何事にも区別を設けず、分類せず、
また、どんなものにもその意味を感じ、
どんなことにも感謝が出来れば、それは「あるがまま」の道にいるという証である。
流水、
無心にして、
落花を送る (「従容録」)
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有り難うございました。