●今、自分を再発見せよ
我々は、我々の生きている生の有様にもっと「意識的になる」必要があるのではないかと思う。
我々はいつの間にか外の世界の歯車になっていることに気づく必要があるのだ。
毎日、毎瞬、繰り返し繰り返し訪れる、人生を通じたこの時空内の諸物との遭遇は、それが日常的で、ありきたりのものであると感じているのは、こころの眠れる有様を物語っているのではないのか。
我々は意識を有する存在として、我々を取り巻くと見える世界を観察する意識を広げなければならない。
そして我々がいかに狭い観念の世界に自らを呪縛している有様を発見しなければならないのだ。
大勢の中で安穏と眠ってはならない。大勢の価値観念を全て正しいこととして鵜呑みにし、自己の人生を無条件に色付けしてはならないのだ。
大勢の無意識に眠れる社会の中でこそ、苦悩と後悔が醸造されるものだろう。
人のその意識発露の「質」自体が変わらなければ、何千年を経ようと文明文化の本質は変わらないだろう。
●人は物質的存在ではなく、意識的存在である
人間は物質的な歯車などではなく、意識的存在として、それらを超えている存在形態を持つものだ。
全ては大いなる意識の現れであり、その意識は自然、宇宙、森羅万象を顕している因そのものである。
因そのものが、結果の中に閉じ込められるようなことの滑稽さに大笑いしても良いではないか。
因そのものは、物質のように分割計量など出来るものではないのは明白であろう。
常に、わたしは「わたし」であるところの者である。
これが意識的存在の原理であろう。
おのれで創るのが「おのれ」であるということでもある。
まさに、本然の有り方である。
●こころの中の闇に気づけるか
古い時代の仏画には、鬼のような者達が人々を色々な地獄の責め苦を強制しているものがあるが、あれは地獄世界の有様を描いたものではないだろう。
それは、いつも疎まれるこの世界の様々な現象の背後にある、人々の想いの陰影を、ことさら強調して描いたものに違いない。鞭で打ったり鋸で引いたりする極悪の鬼は地獄のような世界にいる生き物ではなく、人のこころにある「恐怖」を表わしたものに違いない。
どこの誰でもなくあなたやわたし達のこころの中にある「恐怖」である。
それは、「恐怖」なるものに強制され、苦痛に泣き叫び、責め苦から逃げようとするこころの有様を図柄に現しただけのものに違いないのだ。
人が人を責め苦にあわせるなど、一体全体、誰が誰にそんなことをすると思うのか。どんな権利や意味があるのか?
あろうはずもない事すらも気づかないとすれば、それは自らが溜め込んできた「恐怖」「不信」というこころのパターンの暗い歪がゆえである。それを正面視することを避ける為に、いつまでも恐怖として我々を追い続けるようなものなのだ。
毎日の精神的な雰囲気や、気持ちの浮き沈みの中には、それを促すところの、何がしかの怖れや不安があることに気付けるだろうか。
●覚醒とは、まず自己の想いの重大さに目覚めること
こころの中には宇宙以上に膨大な波動情報が記憶されており、その中をいかに検索しつつ理解に置き換えてゆくかが、いわゆる死活の問題であろう。
いかに世界の仕組みの知識や情報があろうとも、宇宙に遍満する意識の個別発露の集合であるところの、人の、こころの仕組みと理解が得られなければ、それは役に立たない百科事典にしかすぎないのだ。
あなたは、あなたであるところの根本原理である意識の作用自体に、意識的になる必要があるのだ。
わたしは「わたし」であるところのものである。それに気づくことである。
「 I am that I am 」
その「わたし」のところに、どんなものを入れているのか注意すべきである。
わたしは「恐怖にさいなまれる」弱いものである。・・・というのだろうか?
汝自身を知れ・・・とは、汝が汝を創り出す仕組みを理解せよ・・ということではないのか。
これは単なる抽象論ではなく、意識、大いなる全体のこころの創造原理を示す古来からの叡智を示す言葉なのだ。
●内面の影を探しだせ
我々は自らの内面にある「怖れ」を見つけ出し、その歪を解かねばならないのだ。
解脱とは、世間からの遊離などではなく、自らの永遠の魂の発露であるその時々の人生での錯誤した観念、まずもって「恐怖」を「理解」に変質させることである。
内面におのれの作る歪がなければ、どうして外の世界を怖れる必要があろうか。
覚者たちの特性である、執着のなさ、自由闊達さ、悠然たる立ち居振る舞いは、決して余人にはうかがい知れないような「謎」ではなく、自らの呪縛を解き放ち、本来の生まれたままの素のあり方に戻っただけの有様のことである。
幼児の純真さと、大人の歪のない知恵がそこに現れているのだ。
これは我々の本来の有り方である。
●自己からの逃避は怖れがゆえのもの
「恐怖」から派生するのは即ち「逃避」であり、また逆に「攻撃」ともなって現れるのだ。
いずれも、いわゆる重いカルマといわれるものを紡ぎだすものだ。
今の世界の権力者たちの有様を良く観てみればいい。
科学も宗教も「人間」「世界」というものを模索する1つの方策にすぎない。
誰がそれらに、あなたの人生の方向付けを権威を与えたのか。
・・いいや・・誰も与えてはいないのだ。
人生を幸せの百花揺籃の花壇にできるのは、権威と称す者達の指示や命令を待つことによってではない。
ここに生まれ、そしてここから去るのは、一体誰なのか。
人生を生きるのはそれぞれのわたしであり、それぞれのあなたなのだ。
そして生きていくということは、あなたが自身の想いとそして与えられた身体による行動によって表現をしてゆくということである。
我々を取り巻く世界の本質を見るには、まず絶対的に、その世界を映し出すところの各自のこころを観る必要がある。
誰にも頼らず、誰に依存することもなく、「あなた」から出て来る想いを観ることが、水や食べ物と同じく我々に必要なことなのだ。
我々が「物」ではなく、意識的存在であることの自覚の視座にしっかり登らなくて、どうして世界を俯瞰することが出来ようか。
どうして意識次元の上昇・拡大ができようか。
●あなたも唯一の者である
あなた通じて映し出される世界は、あなたのこころ、意識の働きにおいて認識されるものであり、決して他者や他の諸物が認識するものではないのは自明であろう。
あなたは「あなたの見・聞き・感じる世界にある唯一の存在」なのだ。
同じく他者は「他者の見聞き・感じる世界にある唯一の存在」なのだ。
わたしは「わたしの見・聞き・感じる世界にある唯一の存在」なのだ。
自己の拠り所を、外に求める行為は、
あたかも電球の光源よりも、
その光によって投影される影、
遠くにうごめく光影を原因と考えるようなものだ。
光源がなくてどうして光と影が出来るだろうか。
光源とは「あなた」自身であり、光源の傍にある陰影の元は「こころ」であり、空間に投影される「陰影」は、あなたの見る「世界」のことである。
あなたはいま、ちょうどそのとおりを、まさにこの時空で行なっているのだ。
●自己の想いを意識すべし
こころを観る・・・とは、その光源のすぐそばにある、あるいは光源の周囲にある、あるいは付着している様々な光と影の原因を観るということだ。
影絵芝居のような様々な光と影を作り出すのは、究極的にはあなたの「想い」なのだ。
例えば、光源たる電球等に黒い影をマジックペンでマーキングをつけるとどうなるか。
光が放散し、それで照らし出されたものには間違いなくマジックペンで描かれた黒い影が現れるだろう。マジックペンは、そう、あなたの思い描くことなのだ。
すなわち、各自を取り巻く世界の現実の因となっている、各自の意識、想いに気づくべきなのだ。誰のせいでもない。
さまざまな外の世界、物質の綾なす世界にいつまでも気をとられてはいけない。
いつもながら真に理性的なありかたは、その現象の背後にある因に気づくことである。
人為的な世界は全て人の想いの表出にすぎないのだ。
宇宙森羅万象は、因たる意識の表出であるように。
物質、素材の様々な現象も法則があり、その法則は謂わば大いなる意識の設計思想の現れである。
神様が天に座して、下界を操っているという無責任な想いに浸ってどうするというのか。
多分・・神も苦笑しているだろう。
想うこと自体が、そのような世界を投影せしめる因となることに気づくべきなのだ。
遠く神であるところのあなたは、もう気づいているだろう。
我々は何者か、世界とは何か、人生とは何か、その意味は何か、
多分全ての人々が青年時代に感じ、あるいは日常の生活の中において、いつも潜在的に気にし続けているその「問い」の答えを、自らの意識の表面に浮かび上がらせよ。
そのために、古来から口酸っぱく言われてきたように、こころを無にする必要がある。
心を無にする・・という言葉に誤解すべきではない。
無にするといって、必死に無意識になろうとする努力こそは愚かな行為に違いない。
あなたもわかるだろう。
人が生きている限り、こころは働き続けるものだし、そのこころを無することは出来ない。
まずこころの作用、今のありのままを観る根気と勇気がいるのだ。
そのために今という時がある。
こころは想念の湧き出すこと、またその積み上げられた履歴のようなものであり、ことさら消し去ろうとすることは、実のところは、こころ本来の働きを理解していない証拠なのだ。
大切なのはこころの働きを認知しそれを理解することなのだ。
そのためには、自ら発し続ける想いに出来るだけ気づいている状態を多くし、それら様々な想念を、単に眺めることが必要である。
それは古来から言われる「内観」とも言えるだろう。
瞑想やその他の意識の積極的な拡大の前に、その意識の作用に気づかなければならないのだ。
自分のこころの働きを自ら観ること無しに、創造の進化の道は進むべくもない。
それは、単にかんなやノミの使い方を知らずして家を作ることが出来ないようなものだ。
●自己の想念・感情を謂わば看護すべし
例えば、
あなたは人から受ける言動から「怒り」を発するところの、あなた自身の「こころ」の動きを観ることができるだろうか。
それともその怒りという想い自体をすぐさま無条件に、感情と表情と行為に結び付けてしまうだろうか。
そうして更に怒りを更に増幅して、面倒な人間関係になり、結局悩んでしまうことはないだろうか。
怒りが怒りを呼ぶ、親和、同調作用に過ぎないのだが、そのパブロフの犬ともいうべきこころの無条件反応があることに気づくべきなのだ。
こころの無条件反応は「こころの習慣」ともいう。
それは、人生で無意識的に培った、こころの反応の集合である。
我々の多くが、自らの「こころの反応」を観ることが出来ず、それを単なる思いの発露であると眺めることが出来ない間は、どんな社会規約で固めようと、どんな制約を課そうとも、いつもながら不本意で後悔すべき事を体験し続けることになるだろう。
原因がわからずどうして現象が論じられようか?
自分のことがこれっぽっちも解ろうとしないで、どうして他者や世界のことを論じられようか?
人のこころの習慣が、ひいては人類の共通意識として集合、重合され、この地球生命圏を熱い雲の様に覆っているのだ。
馬鹿馬鹿しい、嘆かわしい争いや破壊、戦争は人々の集合された無条件反応によるものであり、またそれが、ことさら扇動されることによって増幅されることになる。
自らの行為の元になる「想い」を自ら認識していないからこそ、そこから出てくる結果や現象に戸惑い、また嘆くことになるのだ。
●迷いとは、原因が見えないこと
戸惑いは無知を表し、嘆きは後悔を表す。
いつも自己自身を観ることを拒み続け、他者や外ばかりを観ている人々は、いわば迷える子羊であり、それを御す者を探しているようなものだ。
そこには必然的に支配が生まれ、支配者を招くことになるだろう。
人々が自ずから自己を支配できない他者を求める烏合の衆であればこそ、その烏合の衆を鞭打つような支配の構図が映し出されてしまうだろう。
その元にあるのは、自らを自らと表現し続ける人間の行為の「因」である想いに気付いていないという過ちに他ならない。
おのれの人生の良し悪しを他人、社会のせいにすることは、まさに己の創造行為自体に気付いていないことを明示している。
●意識の進化・人の道
眠ったままでこの世界を出ることは許されない約束ではなかったか。
誰か他の存在がその問いに答え、それについていけば良いものでもない。
因で一者である自己たちは各自が独立独歩の、いわば神人なのだ。
その神人ともいえる自己への自覚のなさこそが、その住まうところの次元の相として表れ、特に、この物質的な支配の3次元的観念世界では、その意味では、いつも時間が残されていないのだ。
時間はいくらでもあるように見えて、実は存在しない。
自らが発する問いに対して、自ら答えを発見してゆく過程を意識の進化という。
地上における様々な体験と思考と感情を通じて、内面にある可能性を現実化し続け、より広い見識と表現の仕方を学んでいるのが我々であろうか。
進化とは物質形態の変化のことではなく、その物質形態の背後にある、因たる意識の進化・拡大のことである。
人間においてはその意識作用、すなわち想いと実感をより広く、深く、無限のかなたにまで広げる必要があるのだ。
今この瞬間における、無限者たる可能性を、知覚と想いと実感によって創造してゆくのだ。
●自己で作る観念の鎖を消すべし
外の世界の真実であると妄信している観念の綾のなかで、たった数十年の人生を浪費する繰り返し、すなわち「カルマ」という鎖に気づく必要があるのだ。自己で創り上げる仮想のカルマ、想念と行為の不完全さを完全にしようとあせる行為自体が、鎖を生み出してしまい、さらにそれを嘆いてしまう有様に気づけるだろうか。
我々の五感という機能と、その機能の主体であるところの「意識」の窓を、広く大きくまた深く、本来の清らかな容(カタチ)に仕上てゆくことが肝要である。
それをこころの浄化という。
人間を一箇所に呪縛させる鎖など、本来どこにも存在しない。
人の「今」の想いの中にある光と影を、全霊で観る必要があると思う。
●世界は我々という意識存在の光の反射影
本来自然(じねん)である体験者、観察者としての我々は、対象自体ではないことを忘れてはいないだろうか。我々の周りにある諸事、諸現象は我々の体験、観察する対象であり、こころの働きでしっかりと色づけされているにすぎないのだ。対象たる世界は、我々自身ではなく、我々の実感する生きた想いで変調されるということに気づけるだろうか。
「対象」とは我々の「意識」によって反射せる「結果」のことであり、別の表現をすれば、意識によって生じるエネルギーが物質的事象を生み出しているのだ。
意識~エネルギー~物質、
物質(事象)はエネルギーで変幻変化しつつ、青写真たる意識の作用、人間においてはこころの働きを現し続けているのだ。
この瞬間に、
そう、
この瞬間に生ずるものは意識の形、
即ち想いであり、
その想いで描かれるのがあなたのいる世界なのだ。
それは、心底楽しい世界であろうか。
・・・・
そうかも知れない。
今はそうでないかも知れない。
・・
しかしながら、
その時は、全てそれで良いのだ、
そう、それが創造の雛形であるからだ。
いつもその時々で全ては オーケー。
●「一」なる者は分割できず
我々は世界に在っても、決して世界の一部分になってはいけない。
いや、本来それは出来ない相談なのだ。
自然も宇宙も、大いなる全包容的叡智の現れであり、我々人間はそれに自ら気付くところの意識的存在であり、全包容的叡智そのものであるからだ。
全包容的叡智を神と言おうと仏と言おうと変わりがない。
因たるものは現象の表れである計量や分割など出来るものでない。
法則、原理というものは分割、計量できるものではない。
我々は、そして全てはいわば「ひとつの創造原理」と一体である者である。
元の元は、一、ひとつである。
一は 即ち 無限なのだ。
今、あなたやわたし達は無限の中のひとコマを今ここで生きている。
あなたやわたし達が「生きている・無限の意識である」ことに気づく手段が「自己感想」である。
意識を内面に当てることで観えてくるのが外の映し世の世界のあり方である。
それは、神なる者の創造の在りかたの雛形そのものを体現することに繋がるのだ。
本日も、いつもながらの拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。