今日は飯田史彦さんの著「生きがいの本質」から抜粋させて頂きます。
飯田さんの著は「生きがい」「生と死」「使命」「こころ」という、人にとって最も肝心要(かなめ)なものを思い起こさせるようです。今回のお役どころに、こころからの敬意を感じないではおれません。(極めてローカルですが、出身高が同じであったということで、勝手な愛着を感じてしまいます。ご本人は知りませんが(笑))
・・・・・ 飯田さんの頂いた、神様からのお守りのお話しです。 ・・・・・
「生きがいの本質」 PHP文庫 飯田史彦著
以下p348頁より抜粋 ・・・
~神様がくれたお守り
一九九六年の七月二十三日、わたしのもとへ、このようなお手紙が届きました。
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「 先生の本を読ませていただきました。
実は、息子が五歳の時、漢字も読めないのに、突然、不思議な文字を書いたのです。
息子は、無腐性大腿骨骨頭壊死という、骨が壊死するという難病です。
きっと息子には、何か使命があると思っていたのですが、先生の本に出会い、やはりそうだったかのと思いました。
これからは、親子で創造的に生きていけると思います。ありがとうございました。 息子の書いたものを同封します。 」
「 イノチヲカケテモ ヒトヲマモロウ。
ボクタチ ノ ココロヲ タイセツニ ソダテヨウ。
ユウキ ガ アレバ デキナカッタコトモ デキテクル
アキラメズニ キボウヲ モテ。
力とおかねがせいぎではないこころがせいぎだ。
空ハカミサマがスンデイルトコロダカラ
空ニハ モノヲホカラナイ (ほからない=投げ出さない、という方言)
山の月きれい しんでもたましいはのこる。
男ノ子モ女ノ子モ トテモイイ子。
いいことをして人をよろこばすなぐさめる
わるいひともいいこころになるみんな天ごくゆき。
いいことをたくさんすればかならずかみさまはおよろこびになって
せかいがへいわになるだろう。 11/8 にちよん 」
・・・ 「命を賭けても、人をまもろう」 「勇気があれば、できなかったこともできるようになる。
あきらめないで、希望を持て」 「力とお金が正義ではない。心が正義だ。」
・・・・・・まるで何者かから与えられたような、この言葉の中に、私が「生きがい論」シリーズ三部作を通じて読者の方々にお伝えしたかったことが、すべて言い表されています。
もしかすると、これらの言葉は、この男の子が人間として生まれる時に、「生きがいの源泉」(こころのエネルギー源)として、しっかり握りしめて生まれてきた言葉なのかもしれません。
まるで修行僧が、親から与えられた「お守り」を胸のところに首から下げて、厳しい修行の門をくぐるかのように、
そのありがたいお守りを心の支えに、意を決して、「人生」という名の修行に足を踏み出したかのように。
すでに、生まれた時から、誰の心の奥にも存在し、一本のキャンドルのように光り輝いている言葉・・・・・。
しかし、長年、人間として修行を積む苦しさの中で、しだいに曇りがかかって忘れがちになっている言葉・・・・。
・・・・それを、もう一度、思い起こして頂ければという願いを込めて・・・・
(以上「生きがいの本質」(飯田史彦著)から抜粋 p348~351)
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年のせいか?(笑) 涙が出てとまりませんでした・・・。
たった5歳の子供の切々たる言葉の中にも、深遠な意味を読み取ることが出来るものです。いわゆる神様は、そこらじゅうすべてがそうである存在のことです。あなたやわたし、その周りや無限の遠くまでが、すべて。
すべからく、人生も山あり谷あり、明あり影あり、大あり小あり、苦あり楽あり・・・過ぎればそれが得難い学びとなって、楽しさとなって、皆々に還って来ます。実に有り難いことではないでしょうか。
また、無限に展開する森羅万象の世界、それを、出来うるだけ歪みを無くする努力を通じて、その創造のあるがままを観ること・・・。そのために、今我々皆に与えられているところの「こころ」を磨いて澄ませてゆくことこそ、人存在としての、また心ある生命(いのち)としての使命なのでしょう。
<海岸で遊ぶ子供達 メアリー カサット(1845~1926)
本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました