気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

悟りの道標 (11)瞑想の薦め その1

2016-07-02 11:27:51 | 人間とは何か
瞑想と聞くと、何か特別な所作を伴なう修業のようなものだと思いがちだが、

瞑想とは、単に自己自身の「内面」を観ることだ。

内面と言っても、身体の中を見ることでも、姿形を見ることでもない。

肉眼で見るという事ではなく、意識内面を観る、観察するということだ。

物質的、肉体的な所作ではなく、意識的な働きのことである。


ところで、

自分が肉体個人である・・という常識的観念が刷り込まれている場合は、

肉体を良く見せて、他者の高評価を獲得しようとして、

姿を整えるだとか、綺麗に見せるだとか、いい服を着るだとかが中心になり、

内面を観るとか、意識に気付くとか、そういうことには意味を見いだせず、

ましてや静寂の中で「瞑想」?・・など非生産的なものだという事になって、

「ボケっとしないで働け・動け!」という掛け声を聞きつつ、いつも走り回る事になる。


主(あるじ)「なにやっとるんじゃ?さっさとせんか、この、ボケッ!」

僕(しもべ)「へ、へえ!、えらいすんません・・」みたいな、あれ?ちがうか・。(笑)



そして毎日毎日、疲れ果てて、就寝時にはただ単に眠るだけになる。

まったくもって、どこでもある話。

現代は、忙しく走り回ることや、多くの情報を得ることで優位に立てるという宣伝が行き渡り、実に忙しい世界となっている。

そうではないか?

あまり良い言葉ではないが、・・それは一種の経済「奴隷」社会のようなものである。

みんながそうだから、そうなのだろう・・と思って多勢に流されることで、

人間様達が「働き蜂」に洗脳、降格されているようなものかもしれない。

1%の女王蜂のために、せっせと奉仕している99%の働き蜂達の世界、

蜂社会はそれであっても、これは人間社会ではない。


ネズミの空回りのように忙しい世界、

これを断ち切るためには、まず動きを止めること。お金は関係ない。

動きを止める、宣伝や風潮の楽曲、ハーメルンの笛で踊って流されるのを止めるには、

楽曲に合わせて「踊ること」を止めること。

ここで「楽曲」というのは、世間や世界に垂れ流されている様々な宣伝やプロパガンダ、

あるいは流行や風潮、主義主張のこと、あるいは常識だと言われている様々な支配的観念である。

ある一定方向に誘導されないことである。

・・・

人生を鉄砲玉のようにして、生死を通過してはまったく意味がないはずだ。

人間の命が、例えば3000万円の生命保険の価値なのか?

ばかばかしい。



時が熟した時、あるいはどうしようもなくたった場合には、

<動>・・から・・<静>になる事がある。

あるいは、「やーめた!」

または、「潔くあきらめた」・・かもしれないが、

突き進めば突き進むほど、

プライドや執着さえも、手放さざるを得ない瞬間があるもの。


往々にして、エゴにとってかなり厳しい状況を乗り越える場合にそれは起きる。

エゴにとって、それが故に苦しくなって、その苦しさを手放す必要が生じ、

そういう執着を外さざるを得なくなったときに、そのエゴ自体も消え去ることになる。

これからこの世界で起きそうなことはそれである。


世界中で肥大した壮大な物欲エゴが、自ら木っ端みじんに爆発して消尽するか、

物欲エゴを棄て去ってリセット、リスタートするか・・・

3次元世界の卒業時期には、そういう激しいイベント騒ぎが起きやすい。

そういうイベントまであと10年はもつまいに。

・・

矛盾しているようだが、手放し、脱落でしか生き延びる術が他にない場合、

飽和したエゴならば、反転間近(まじか)のエゴならば、我が身可愛さでそうすることになる。

手放すのだ。

エゴが手放すだって?

そう、矛盾だ。

エゴとは、様々な世間的執着やプライド、極度の保身意欲等で出来ており、

それが故に、エゴが苦しくなる・・ことが起きてきたとき、

それらを放り投げることしか、ほかに手が無くなったとき、


始めてバサリとエゴ自体が落ちてゆく。

そう、エゴとはまさに矛盾、幻想なのである。

この世界独特の艱難辛苦はそのためのもの。

まさにローリング・ストーンのようなものだ。


今必要なのは静けさであり、空(くう)なる自己の無限性に帰還することだ。

いつでも、どこでも在った・・それ、今・・在ること、

そこから・・・全てが、人生が、宇宙が出てきている・・それに戻ることだ。

それが本質の<わたし>・・・。


瞑想はそのためのもの、ただ在る・・ことで、在る・・。

慌ただしい動きを止め、外の騒がしい幻想世界でなく、

その幻想世界を観ている・・主体である・・当の自己に落ち着く必要がある。

世界を観ている、その中心はわたしの意識以外にない事に気付く、

わたし・・に帰還すると言っても良い。

「わたしは今までいったいどこに行っていたのだ?」・・、


瞑想とは、

わたしは・・今・・在ることに・・気付くという事だ。

そして、今・・在る・・ことに焦点を合わせるということだ。

焦点を合わす・・意識する・・気付いている・・のである。

そうすると、自然と今ここに座って、五感を閉じ、ただ在るがままの、

今この瞬間のわたし・・の在り様を・・観察する・・という姿勢になる。

全く当たり前の・・在る・・こと。


瞑想とは、眠ることでも、外界の何かに焦点を合わせることでもなく、

それぞれの、わたしの世界の全ての起動点である・・・

<自己の在り様>を・・観ることなのだ。


常日頃、誰も皆、私が、私の、私に・・等と意識している、

その「私」というものを造っているその<発源元>を観ると言えるだろうか。

「わたし」の発源元は、・・・・肉体そのものではない。

例えば、肉体それは車の「車体」であって、内部の「運転者」ではないようなものだ。


なぜなら、意識を失った場合、あるいは熟睡中には、

私の肉体も知覚せず、見る聞く感じることで得られる外の世界の五感情報も存在しない。


あなたがぐっすり寝ている時に、あなた自身の自覚意識は全くないはずだ。

例えば、ずっとそのままであったなら、二度と、あー世界が有る・・という認識は生じない。

永久にそのまま、・・それを「死んだ」と言う風に言っているだろう。(笑)

いや意識のない植物人間とでもいうのだろうか。


誰かに「おいっ。起きろよ!」等と、タタキ起こされれば、

また眼を覚ます、つまり意識が戻るのだが、

ぐっすり寝ている間は、その間は、「わたしの意識」は・・そこには存在していない。

誰かが、「あなたは寝てるだけだよ・・私が見ているから」と言っても、

それは第3者から見て、あなたの「身体」がスヤスヤ寝息を立てていることを、

観察しているということであって、

その間、あなたから見る・・世界は、<全く消え去っている>ということである。

・・・
「えー?消え去っている?・・そりゃオーバーな表現だ」、と言うかもしれないが、

あなたの意識・・が無くて、あなたの世界は決して現れないということを言っているのだ。


またそれは、あなたの世界、・・それは見はるかす宇宙をも含むので結構大きいが、

あなたの世界には・・あなたしかいないということなのである。


肉体個体を3次元的に測って、1人2人と勘定するのは、

わたし・・意識の不在の思考であり、つまりそう、3次元的なマトリクス観念である。

あなた自身は、あなたの内面から眺めているにもかかわらず、

ありもしない外の誰か「他者の見地から」自己を観てしまっているということだ。


外の他者から見れば、あなたは単なる肉体個人であると見える、

そして、あなたは外の他者の見地から、<わたし>を見ているということ。

ちょっとややこしいが、

他者がなんと言おうと、あなたはあなたであって、

あなたが在るからこそ・・あなたの世界があるということなのだ。


寝ること、起きることも、

これは毎日毎日起きていることなので、まったく当たり前のようにして、素通りしている事だろう。

眠って・・起きて・・、ただそれだけのことだ・・と思っているのは、

あなたは「身体である」としていて、その身体のサイクル、就寝、起床・・の繰り返し、

身体が休んでいるか、活動しているかの違いとでも思っているということなのだが、

そういう場合には、全く「意識」というものが考慮されていないのである。


「意識」が無くて、肉体を知覚することは出来ない。

「あー私の身体があるな・・」という想いも生じないのだ。



またそれは、あなたの世界、・・それは見はるかす宇宙をも含むので結構大きいが、

あなたの世界には・・あなたしかいないということなのである。

これを釈迦は「天上天下、唯我独尊」と言われた。





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。







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