瞑想と聞くと、何か特別な所作を伴なう修業のようなものだと思いがちだが、
瞑想とは、単に自己自身の「内面」を観ることだ。
内面と言っても、身体の中を見ることでも、姿形を見ることでもない。
肉眼で見るという事ではなく、意識内面を観る、観察するということだ。
物質的、肉体的な所作ではなく、意識的な働きのことである。
ところで、
自分が肉体個人である・・という常識的観念が刷り込まれている場合は、
肉体を良く見せて、他者の高評価を獲得しようとして、
姿を整えるだとか、綺麗に見せるだとか、いい服を着るだとかが中心になり、
内面を観るとか、意識に気付くとか、そういうことには意味を見いだせず、
ましてや静寂の中で「瞑想」?・・など非生産的なものだという事になって、
「ボケっとしないで働け・動け!」という掛け声を聞きつつ、いつも走り回る事になる。
主(あるじ)「なにやっとるんじゃ?さっさとせんか、この、ボケッ!」
僕(しもべ)「へ、へえ!、えらいすんません・・」みたいな、あれ?ちがうか・。(笑)
そして毎日毎日、疲れ果てて、就寝時にはただ単に眠るだけになる。
まったくもって、どこでもある話。
現代は、忙しく走り回ることや、多くの情報を得ることで優位に立てるという宣伝が行き渡り、実に忙しい世界となっている。
そうではないか?
あまり良い言葉ではないが、・・それは一種の経済「奴隷」社会のようなものである。
みんながそうだから、そうなのだろう・・と思って多勢に流されることで、
人間様達が「働き蜂」に洗脳、降格されているようなものかもしれない。
1%の女王蜂のために、せっせと奉仕している99%の働き蜂達の世界、
蜂社会はそれであっても、これは人間社会ではない。
ネズミの空回りのように忙しい世界、
これを断ち切るためには、まず動きを止めること。お金は関係ない。
動きを止める、宣伝や風潮の楽曲、ハーメルンの笛で踊って流されるのを止めるには、
楽曲に合わせて「踊ること」を止めること。
ここで「楽曲」というのは、世間や世界に垂れ流されている様々な宣伝やプロパガンダ、
あるいは流行や風潮、主義主張のこと、あるいは常識だと言われている様々な支配的観念である。
ある一定方向に誘導されないことである。
・・・
人生を鉄砲玉のようにして、生死を通過してはまったく意味がないはずだ。
人間の命が、例えば3000万円の生命保険の価値なのか?
ばかばかしい。
時が熟した時、あるいはどうしようもなくたった場合には、
<動>・・から・・<静>になる事がある。
あるいは、「やーめた!」
または、「潔くあきらめた」・・かもしれないが、
突き進めば突き進むほど、
プライドや執着さえも、手放さざるを得ない瞬間があるもの。
往々にして、エゴにとってかなり厳しい状況を乗り越える場合にそれは起きる。
エゴにとって、それが故に苦しくなって、その苦しさを手放す必要が生じ、
そういう執着を外さざるを得なくなったときに、そのエゴ自体も消え去ることになる。
これからこの世界で起きそうなことはそれである。
世界中で肥大した壮大な物欲エゴが、自ら木っ端みじんに爆発して消尽するか、
物欲エゴを棄て去ってリセット、リスタートするか・・・
3次元世界の卒業時期には、そういう激しいイベント騒ぎが起きやすい。
そういうイベントまであと10年はもつまいに。
・・
矛盾しているようだが、手放し、脱落でしか生き延びる術が他にない場合、
飽和したエゴならば、反転間近(まじか)のエゴならば、我が身可愛さでそうすることになる。
手放すのだ。
エゴが手放すだって?
そう、矛盾だ。
エゴとは、様々な世間的執着やプライド、極度の保身意欲等で出来ており、
それが故に、エゴが苦しくなる・・ことが起きてきたとき、
それらを放り投げることしか、ほかに手が無くなったとき、
始めてバサリとエゴ自体が落ちてゆく。
そう、エゴとはまさに矛盾、幻想なのである。
この世界独特の艱難辛苦はそのためのもの。
まさにローリング・ストーンのようなものだ。
今必要なのは静けさであり、空(くう)なる自己の無限性に帰還することだ。
いつでも、どこでも在った・・それ、今・・在ること、
そこから・・・全てが、人生が、宇宙が出てきている・・それに戻ることだ。
それが本質の<わたし>・・・。
瞑想はそのためのもの、ただ在る・・ことで、在る・・。
慌ただしい動きを止め、外の騒がしい幻想世界でなく、
その幻想世界を観ている・・主体である・・当の自己に落ち着く必要がある。
世界を観ている、その中心はわたしの意識以外にない事に気付く、
わたし・・に帰還すると言っても良い。
「わたしは今までいったいどこに行っていたのだ?」・・、
瞑想とは、
わたしは・・今・・在ることに・・気付くという事だ。
そして、今・・在る・・ことに焦点を合わせるということだ。
焦点を合わす・・意識する・・気付いている・・のである。
そうすると、自然と今ここに座って、五感を閉じ、ただ在るがままの、
今この瞬間のわたし・・の在り様を・・観察する・・という姿勢になる。
全く当たり前の・・在る・・こと。
瞑想とは、眠ることでも、外界の何かに焦点を合わせることでもなく、
それぞれの、わたしの世界の全ての起動点である・・・
<自己の在り様>を・・観ることなのだ。
常日頃、誰も皆、私が、私の、私に・・等と意識している、
その「私」というものを造っているその<発源元>を観ると言えるだろうか。
「わたし」の発源元は、・・・・肉体そのものではない。
例えば、肉体それは車の「車体」であって、内部の「運転者」ではないようなものだ。
なぜなら、意識を失った場合、あるいは熟睡中には、
私の肉体も知覚せず、見る聞く感じることで得られる外の世界の五感情報も存在しない。
あなたがぐっすり寝ている時に、あなた自身の自覚意識は全くないはずだ。
例えば、ずっとそのままであったなら、二度と、あー世界が有る・・という認識は生じない。
永久にそのまま、・・それを「死んだ」と言う風に言っているだろう。(笑)
いや意識のない植物人間とでもいうのだろうか。
誰かに「おいっ。起きろよ!」等と、タタキ起こされれば、
また眼を覚ます、つまり意識が戻るのだが、
ぐっすり寝ている間は、その間は、「わたしの意識」は・・そこには存在していない。
誰かが、「あなたは寝てるだけだよ・・私が見ているから」と言っても、
それは第3者から見て、あなたの「身体」がスヤスヤ寝息を立てていることを、
観察しているということであって、
その間、あなたから見る・・世界は、<全く消え去っている>ということである。
・・・
「えー?消え去っている?・・そりゃオーバーな表現だ」、と言うかもしれないが、
あなたの意識・・が無くて、あなたの世界は決して現れないということを言っているのだ。
またそれは、あなたの世界、・・それは見はるかす宇宙をも含むので結構大きいが、
あなたの世界には・・あなたしかいないということなのである。
肉体個体を3次元的に測って、1人2人と勘定するのは、
わたし・・意識の不在の思考であり、つまりそう、3次元的なマトリクス観念である。
あなた自身は、あなたの内面から眺めているにもかかわらず、
ありもしない外の誰か「他者の見地から」自己を観てしまっているということだ。
外の他者から見れば、あなたは単なる肉体個人であると見える、
そして、あなたは外の他者の見地から、<わたし>を見ているということ。
ちょっとややこしいが、
他者がなんと言おうと、あなたはあなたであって、
あなたが在るからこそ・・あなたの世界があるということなのだ。
寝ること、起きることも、
これは毎日毎日起きていることなので、まったく当たり前のようにして、素通りしている事だろう。
眠って・・起きて・・、ただそれだけのことだ・・と思っているのは、
あなたは「身体である」としていて、その身体のサイクル、就寝、起床・・の繰り返し、
身体が休んでいるか、活動しているかの違いとでも思っているということなのだが、
そういう場合には、全く「意識」というものが考慮されていないのである。
「意識」が無くて、肉体を知覚することは出来ない。
「あー私の身体があるな・・」という想いも生じないのだ。
またそれは、あなたの世界、・・それは見はるかす宇宙をも含むので結構大きいが、
あなたの世界には・・あなたしかいないということなのである。
これを釈迦は「天上天下、唯我独尊」と言われた。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
瞑想とは、単に自己自身の「内面」を観ることだ。
内面と言っても、身体の中を見ることでも、姿形を見ることでもない。
肉眼で見るという事ではなく、意識内面を観る、観察するということだ。
物質的、肉体的な所作ではなく、意識的な働きのことである。
ところで、
自分が肉体個人である・・という常識的観念が刷り込まれている場合は、
肉体を良く見せて、他者の高評価を獲得しようとして、
姿を整えるだとか、綺麗に見せるだとか、いい服を着るだとかが中心になり、
内面を観るとか、意識に気付くとか、そういうことには意味を見いだせず、
ましてや静寂の中で「瞑想」?・・など非生産的なものだという事になって、
「ボケっとしないで働け・動け!」という掛け声を聞きつつ、いつも走り回る事になる。
主(あるじ)「なにやっとるんじゃ?さっさとせんか、この、ボケッ!」
僕(しもべ)「へ、へえ!、えらいすんません・・」みたいな、あれ?ちがうか・。(笑)
そして毎日毎日、疲れ果てて、就寝時にはただ単に眠るだけになる。
まったくもって、どこでもある話。
現代は、忙しく走り回ることや、多くの情報を得ることで優位に立てるという宣伝が行き渡り、実に忙しい世界となっている。
そうではないか?
あまり良い言葉ではないが、・・それは一種の経済「奴隷」社会のようなものである。
みんながそうだから、そうなのだろう・・と思って多勢に流されることで、
人間様達が「働き蜂」に洗脳、降格されているようなものかもしれない。
1%の女王蜂のために、せっせと奉仕している99%の働き蜂達の世界、
蜂社会はそれであっても、これは人間社会ではない。
ネズミの空回りのように忙しい世界、
これを断ち切るためには、まず動きを止めること。お金は関係ない。
動きを止める、宣伝や風潮の楽曲、ハーメルンの笛で踊って流されるのを止めるには、
楽曲に合わせて「踊ること」を止めること。
ここで「楽曲」というのは、世間や世界に垂れ流されている様々な宣伝やプロパガンダ、
あるいは流行や風潮、主義主張のこと、あるいは常識だと言われている様々な支配的観念である。
ある一定方向に誘導されないことである。
・・・
人生を鉄砲玉のようにして、生死を通過してはまったく意味がないはずだ。
人間の命が、例えば3000万円の生命保険の価値なのか?
ばかばかしい。
時が熟した時、あるいはどうしようもなくたった場合には、
<動>・・から・・<静>になる事がある。
あるいは、「やーめた!」
または、「潔くあきらめた」・・かもしれないが、
突き進めば突き進むほど、
プライドや執着さえも、手放さざるを得ない瞬間があるもの。
往々にして、エゴにとってかなり厳しい状況を乗り越える場合にそれは起きる。
エゴにとって、それが故に苦しくなって、その苦しさを手放す必要が生じ、
そういう執着を外さざるを得なくなったときに、そのエゴ自体も消え去ることになる。
これからこの世界で起きそうなことはそれである。
世界中で肥大した壮大な物欲エゴが、自ら木っ端みじんに爆発して消尽するか、
物欲エゴを棄て去ってリセット、リスタートするか・・・
3次元世界の卒業時期には、そういう激しいイベント騒ぎが起きやすい。
そういうイベントまであと10年はもつまいに。
・・
矛盾しているようだが、手放し、脱落でしか生き延びる術が他にない場合、
飽和したエゴならば、反転間近(まじか)のエゴならば、我が身可愛さでそうすることになる。
手放すのだ。
エゴが手放すだって?
そう、矛盾だ。
エゴとは、様々な世間的執着やプライド、極度の保身意欲等で出来ており、
それが故に、エゴが苦しくなる・・ことが起きてきたとき、
それらを放り投げることしか、ほかに手が無くなったとき、
始めてバサリとエゴ自体が落ちてゆく。
そう、エゴとはまさに矛盾、幻想なのである。
この世界独特の艱難辛苦はそのためのもの。
まさにローリング・ストーンのようなものだ。
今必要なのは静けさであり、空(くう)なる自己の無限性に帰還することだ。
いつでも、どこでも在った・・それ、今・・在ること、
そこから・・・全てが、人生が、宇宙が出てきている・・それに戻ることだ。
それが本質の<わたし>・・・。
瞑想はそのためのもの、ただ在る・・ことで、在る・・。
慌ただしい動きを止め、外の騒がしい幻想世界でなく、
その幻想世界を観ている・・主体である・・当の自己に落ち着く必要がある。
世界を観ている、その中心はわたしの意識以外にない事に気付く、
わたし・・に帰還すると言っても良い。
「わたしは今までいったいどこに行っていたのだ?」・・、
瞑想とは、
わたしは・・今・・在ることに・・気付くという事だ。
そして、今・・在る・・ことに焦点を合わせるということだ。
焦点を合わす・・意識する・・気付いている・・のである。
そうすると、自然と今ここに座って、五感を閉じ、ただ在るがままの、
今この瞬間のわたし・・の在り様を・・観察する・・という姿勢になる。
全く当たり前の・・在る・・こと。
瞑想とは、眠ることでも、外界の何かに焦点を合わせることでもなく、
それぞれの、わたしの世界の全ての起動点である・・・
<自己の在り様>を・・観ることなのだ。
常日頃、誰も皆、私が、私の、私に・・等と意識している、
その「私」というものを造っているその<発源元>を観ると言えるだろうか。
「わたし」の発源元は、・・・・肉体そのものではない。
例えば、肉体それは車の「車体」であって、内部の「運転者」ではないようなものだ。
なぜなら、意識を失った場合、あるいは熟睡中には、
私の肉体も知覚せず、見る聞く感じることで得られる外の世界の五感情報も存在しない。
あなたがぐっすり寝ている時に、あなた自身の自覚意識は全くないはずだ。
例えば、ずっとそのままであったなら、二度と、あー世界が有る・・という認識は生じない。
永久にそのまま、・・それを「死んだ」と言う風に言っているだろう。(笑)
いや意識のない植物人間とでもいうのだろうか。
誰かに「おいっ。起きろよ!」等と、タタキ起こされれば、
また眼を覚ます、つまり意識が戻るのだが、
ぐっすり寝ている間は、その間は、「わたしの意識」は・・そこには存在していない。
誰かが、「あなたは寝てるだけだよ・・私が見ているから」と言っても、
それは第3者から見て、あなたの「身体」がスヤスヤ寝息を立てていることを、
観察しているということであって、
その間、あなたから見る・・世界は、<全く消え去っている>ということである。
・・・
「えー?消え去っている?・・そりゃオーバーな表現だ」、と言うかもしれないが、
あなたの意識・・が無くて、あなたの世界は決して現れないということを言っているのだ。
またそれは、あなたの世界、・・それは見はるかす宇宙をも含むので結構大きいが、
あなたの世界には・・あなたしかいないということなのである。
肉体個体を3次元的に測って、1人2人と勘定するのは、
わたし・・意識の不在の思考であり、つまりそう、3次元的なマトリクス観念である。
あなた自身は、あなたの内面から眺めているにもかかわらず、
ありもしない外の誰か「他者の見地から」自己を観てしまっているということだ。
外の他者から見れば、あなたは単なる肉体個人であると見える、
そして、あなたは外の他者の見地から、<わたし>を見ているということ。
ちょっとややこしいが、
他者がなんと言おうと、あなたはあなたであって、
あなたが在るからこそ・・あなたの世界があるということなのだ。
寝ること、起きることも、
これは毎日毎日起きていることなので、まったく当たり前のようにして、素通りしている事だろう。
眠って・・起きて・・、ただそれだけのことだ・・と思っているのは、
あなたは「身体である」としていて、その身体のサイクル、就寝、起床・・の繰り返し、
身体が休んでいるか、活動しているかの違いとでも思っているということなのだが、
そういう場合には、全く「意識」というものが考慮されていないのである。
「意識」が無くて、肉体を知覚することは出来ない。
「あー私の身体があるな・・」という想いも生じないのだ。
またそれは、あなたの世界、・・それは見はるかす宇宙をも含むので結構大きいが、
あなたの世界には・・あなたしかいないということなのである。
これを釈迦は「天上天下、唯我独尊」と言われた。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます