浄化とは、汚れを洗い流すことだ。
なんの汚れか?
それは「こころ」の汚れだ。
お風呂や家の中の床の汚れ、
眼に見える生活上の汚れを落とすのとは次元が違う。
人類の浄化とは・・・
人類のマインドの浄化・歪の解放であり、
あくまでも・・それは一人ひとりが、自覚的・自主的に行うものであり、
集団で、まとまって皆で一緒・・もあり得ず、
人類個体数の削減が浄化だという悲惨な嘘も全くの見当違いである。
見当違いどころか、さらにカルマの歪を蓄積することになる。
・・・・
浄化とは何か特別なところで行われるのでもなければ、
お金を出せば誰かが代わりにしてくれるものでもない。
どこか良い世界に飛んでいくことでもない。
何もせずそのままいつか自然に良い世界に住むわけでもない。
普段の生活こそが、そのこころの浄化の道場だ。
こころの浄化プロセス、実はこれがアセンションの階段である。
どこに行っても、在るのは・・わたし・・なのだ。
そのわたし・・の次元が上がるのである。
次元が上がるという事は、はるかに視野、観点が拡大し、
今まで見えなかった領域が、今ここで観えてくるようになる様を言う。
例えば身近な話、
マインド、こころ、思考上の歪(ひずみ)をそのままにしている場合、
人間関係が常にギクシャクするだろう。
気付かないエゴの汚れが染み出している場合、
いつも誰かと大なり小なり諍いになり、
不愉快で不利益な状況が現れる。
しかしながら、そういう時は、
通常は、絶対相手が悪いからだ・・の一点張りになるもので。
「ムムム、あの人、何よ!、絶対許せない!」
「これは、どう考えてもあいつが仕掛けたことだ、そうだろ?」
何をどう考えても、自分は悪くない・・と思うものだ。
そして怒りや憤りの感情の振動波で震えることになる。
そうではないか?
じぶんは絶対に正しい、どこをどう見ても絶対に正しい。
悪いのは相手以外にない・・・多くの場合そう思うのである。
これは絶対といって良いほど、多くの人が信じていることだ。
しかしながら、それは
自分の利己的、あるいは防御的な観点でしかない。
このままでは自他のバトルフィールドにからめとられたまま、
感情エネルギーのもつれが増大し、
そこから決して浮かび上がれない。
・・・
「あー、しまった、自分も悪かった・・・」
そういう瞬時の反省や後悔、謝罪などが出来る人は希少である。
そういう人は、相手にまで、
少なからず観点(意識)が広がっている人であり、
自分のこころのエゴ的歪み、こだわり、葛藤が少なく、
すなわちかなりな部分浄化出来ている人である。
こころの頑なさ、塊がほどけて開放が進むと、
浄化され意識が広がるのだ。
この世で培った利己的思考・感情の闇が浄化され、
様々なことをよりよく理解することが出来るということだ。
人との葛藤の場合ならば、
”ひょっとして相手の観点” ならどうか?・・そういう風に、
「自分「の居る‥意識のポイントを「相手」にまで拡張すべきなのだ。
そうすることで、相手の視点が垣間見えてくる。
それは、自分と相手とを同時に見える立場ともいえるし、
また自分が相手へと(意識的に)拡張したともいえるのだ。
これはつまり、「意識の拡大」なのである。
わたしが・・・相手を含む、より大きなレベルまで意識を拡大する。
意識が・・自分を超えて相手の周囲にまで及ぶのである。
肉体が相手に及ぶ?のではなく、
意識が自己と相手を含んだ、より高い視座に移行するということだ。
それは(意識の)次元上昇の大きな要素となる。
高次の真実の面では・・あなたは・・わたし・・なのだ。
・・・・
(新約聖書 マタイ伝 25章34~36)
さあ、わたしの父に祝福された人たち、
天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、
のどが渇いていたときに飲ませ、
旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、
病気のときに見舞い、
牢にいたときに訪ねてくれたからだ。
・・・・
イエスの言うわたしとは、個人のことだけではなく、
すべての・・父・根源・わたし・・であり、
その観点であれば、他者にした施しや善意、理解は・・、
すべてわたし・・自身にしたことに他ならない。
他者への攻撃は、自己への攻撃であり、
他者への善意は、自己への善意ということだ。
これは生易しい感傷論ではなく、
思いや行為が、常に自分に降りかかってくる
いわゆるカルマの法則としても現象化する。
・・・
日常でも、
「あー、しまった、自分も悪かった・・・」
そういう瞬時の反省や後悔、謝罪などが出来る人は希少である。
そういう人は、相手にまで観点(意識)が広がっている人であり、
自分のこころのエゴ的歪みが少なく、
すなわち、かなりな部分浄化出来ている人である。
こころの頑なさ、塊がほどけて開放が進むと、
浄化され意識が広がるのだ。
この世に、何も問題ない聖人君主など、そうそういるはずもなく、
マインドと行為の歪が直ちに観察され、
大局的な見地から察知、反省などの必要な行為・行動の出来る人は、
スピリチュアルで言う「アセンション」を達成している人である。
そう、
アセンションとは、
どこかのストレスのない天国に行くことだとか、
お金の苦労のない世界に住まうだとか、
悪人の支配しない世界になるだとか、
漠然と思っている人もいるかもしれないが、
そういう自分の知覚する対象世界が、
自分と無関係に改善されるということではない。
知覚する・・主体である・・それぞれのわたし、
発信源・光源の覆い、歪、汚れが除去されることで、
必然的にその投影・知覚する世界が変化するという事だ。
主体たる意識が変わらずして、決してその住まう世界、
知覚される現象世界は変わることはない。
高次の思考・マインドを駆使して、
歪(ひずみ)いわゆる闇のエネルギーを無意味に蓄積しないこと。
エゴで歪んだエネルギーが少ない人、
逆にポジティブな結果を具象化できるエネルギーが多い人
そういう人が集まってこそ、
いわゆる楽しく嬉しい生活圏が出来るのだ。
そして、それは1つの天界、天国と言っても良いだろう。
・・・
しかしながら、
3次元的認識レベルのままの集合体においては、
個々が別個の単独の実体としてとらえるため、
その個々の己だけの生き残りが最重要な課題となり、
そのバラバラの利害ある個々の間のぶつかり合いにより、
歪んだ感情エネルギーを昇華せず、溜め込むことで、
膨大な歪(いわゆる闇)エネルギーが蓄積されることになる。
そして、そのひずみに歪んだエネルギーは・・
溜まりにたまったエネルギーは、
いつか必ず解放されなければならないのだ。
従って、人類文明がいわゆる3次元的認識レベルのままで、
行き着くところまで行った場合には、
その歪んだエネルギーが爆発的に開放される時が、必ず訪れるのである。
それは必然的に様々なネガティビティ―の解放となり、
すなわち蓄積された歪んだエネルギー(カルマ)の、
一時期でのカタストロフィー的な現象化となるものだ。
ここでは、それが起きる時のことを「浄化の時」と言っているのである。
・・・・
人に惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名乗る者が大勢現れ、
『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、
慌てないように気をつけなさい。
そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。
また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
そして、御国のこの福音はあらゆる民への証として、
全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。
(マタイ伝24章3~14)
・・・
いちじくの木から、この譬を学びなさい。
その枝が柔らかになり、葉が出るようになると夏の近いことがわかる。
そのように、すべてこれらのことを見たならば、
人の子が戸口まで近づいていることを悟りなさい。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、
誠に有難うございました。
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