気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

夢の話 (4)夢に出てくる人たち

2013-06-23 20:01:40 | 見えないものから見えるものへ

夢とは単なる夢ではなく、日常の3次元的観念レベルを超えた、変性意識常態で得られるビジョンというのがより正確な言いまわしであるかもしれない。

 

変性意識という表現は、変な、変わった意識状態という意味よりも、日常の五感レベル、常識観念レベルからシフトした意識ということを表わしている。

 

例えば瞑想、あるいは座禅などで得られる意識状態、昔から象徴的に言われる「境地」などもこのような変性意識のことであるといえるだろう。

 

夢は、その気になれば誰でも気づくことが出来る、当初は制御の効かない範囲ではあるものの、カテゴリーとしてはその「変性意識」へのシフトであり、また夢の内容は、その状態での「ビジョン的情報取得」または「意識的経験」と言えるだろう。

 

それは確かに「経験」に違いないのだ。

 

日常の五感を元にした狭い範囲の物理的経験だけが「経験」であると漠然と思っている人々は、その狭い範囲の3次元的現実のみにその意識を集中しているだけのことであり、

 

「自己」という主体意識の多次元的性質に気付いていないということを示しているかもしれない。

 

あなたの意識が・・・どこに集中しているのか・・・あるいは集中させられているのか、自分自身で気づくまでは狭い世界の籠の鳥のままである自己を選んでいるということだ。

 

誰かのせいではない。

 

・・・

 

 

夢の内容を憶えていることで、色々な夢で展開するストーリーや意味合いが、まさにジグソーパズルのようにより大きな輪郭を描き出すことは以前に示したところであるが、

 

また自分の場合は、それら内面情報をありきたりの夢占いや夢解釈などで翻訳せず、ただそういう一連の映像やら思考やらビジョンやらをそのまま覚えていたのである。

 

そしてその時に得られる直観的感覚情報を憶えていたというだけなのである。

 

当然と言っては当然なのだが、それらの夢の多くは日常的な観念から逸脱しているために、常識的観念によって無理やり解釈すること自体に「無理」があったためである。

 

ただそこに在る事実を観察する・・・そういう観察意識的な傾向が自分にあったと故とも言えるだろうか。

 

これは瞑想や禅において、意識に去来する様々な想念を・・・そのままただ眺めるというような、

 

自己の想念を観る・・・という内的傾向ともつながっているのだろうと思う。

 

日常生活でも様々な想い、想念が去来するわけであるが、その1つ1つに感情的に捉われないこと、一喜一憂するのでなく、また様々な感情的な反応に自己投入することなく、必要な表現や行動は行っていながらも、ある意味では無の境地よろしく、出来るだけしっかりとそれを把握している「意識的スタンス」がいつでもどこでも大切なのである。

 

あるがままとは、そういうことであるはずだ。

 

そう、これから少し、覚えている夢の内容と、得られた直観知を書き出すことにしよう。

 

・・・・

●大きな人格存在との邂逅

 

 目の前右方向の数m先に、大きな体の存在が見えた。その存在は体が大きく、ギリシア的なイメージをほうふつとさせる古代服のような、あるいはシンプルだが露出度のすくない貫頭衣のような衣装をまとっていた。 

 

そして、その存在には何か非常な懐かしさを感じたのだった。 

 

次に私は、なんとその大柄の存在に抱き上げられ、いわゆるハグしたのだが、その時まるで自分は小さな子供のような感覚であった。 

 

そして、その時私の左側の視野で映像のようなものを観たのだが(詳細は省く)、気付いたことは、その大柄の古代人?的存在が、私の意識そのものを注視している・・・ということだった。彼が・・私の意識を注視している・・・ことに・・私も気づいているという不思議な感覚であった。

200pxtoga_illustrationちょっと異なるがこんなゆったりした衣服である。


このビジョンの内容から言えることは、

 

夢に現れた大柄な古代人のような存在は、わたしの魂レベルの教師か知己か、前世の高い人格か、何かそういう親密な存在であるという直観である。

 

ロバートモンローやヘミシンクで云うところの、「 I there 」 (向こうのわたし)と言って良いかもしれないし、その中でも特異な存在ということでもあるだろうか。あるいは親しい魂グループの指導的役割を持った存在であるという言い方もあるかもしれない。

 

 

ここでいう「 I there 」 とは、異なる人格、異なる時代、異なる世界を経験しているところの、無数の「わたし」・・・という意味であるが、

 

ごく普通の一般常識で、いわゆる<わたし>とは、今ここでの個人的、肉体的人格である・・・としか考えていないわけなのだが、

 

本質のあなたやわたし達である「魂」には、それこそ無数の転生や人生があるとするならば、その膨大な記憶のなかには、当然ながら無数の「人格記憶」やあるいは人格間の絆や近しい間柄の魂の記憶があってもおかしくはないだろうということなのだ。 

 

あなたはこういう概念が理解可能だろうか。

 

誤解を招くかもしれないし、さらに意味不明となるかもしれないが、これを別の表現で云えば宇宙では何事も「一は即ち多なり」ということなのだ。

 

夢を一律人工的な解釈で落ち着かせるのでなく、またそれが常識外であったとしても、その時の自然な「素に」得られる「直観知」のようなものが重要であるということだ。

 

この夢からはそういう直観知がダイレクトに起きてくるのであった。

 

わたし自身にとっては、日常世界、外の世界、3次元的観念世界での経験をしていたとしても、こういういわゆる内面での経験も非常に重要な気づきとなっているのだ。

 

 

●死の恐怖の超克

 

 何か古い民家にいるようである。そして自分のすぐ右横、やや背面という位置あたりに、いつもの霊的ガイド?のような存在を感じている。

 

少し歩いてゆくと、民家の土間のようなところに大きなカメ、あるいは樽のような入れ物があった。歩いて行ってそれをのぞき込むと・・・・。

 

なんと!ミイラになったような骸(むくろ)が座った形で入っていたのだ。

 

「ギャー!!」・・という反応は起きてこないのが、不思議と言えば不思議だったのだが、これもそばにいる霊的ガイド・・の存在を感じているせいだとも思われる。

 

簡単に言えば、たった一人で見ているわけではないという安心感とも言えようか。

 

そして、

 

「これが中にあったんですね・・」 という言葉がわたしの意識に明確に響いてきたのだ。

 

 

・・・あーそうなのだ。

 

転生のいつかどこかにあったのか、単なる象徴なのかは別として

 

普段は表面に出ることのない「死への恐怖」が、自己内面のどこかに歪として存在していたということである。

 

そういう抑え込んだ歪が、夢の中のリアルな映像となって現れる、または再現されるようなものであろう。

 

そしてそれに恐怖を感じない<わたし>がいた!という事は、

 

本質のわたしにはそういう恐怖が全く見当違いであったことを悟ったということを示しているのだ。

 

またそういう魂的、霊的なテーマの克服や気づきのために、わたしの意識のそばに顕れた霊的ガイドに感謝が出てくるのである。

 

よく言われる指導霊、守護霊、スピリチュアルガイド等は、それがどういう概念で解釈されているかは別として、明確に存在していることがわかるのである。

 

ところで、あなたは・・・あなたを理解する存在は、宇宙でたった自分ひとりだと思っているのだろうか。

 

Th


本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


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