●私個人は実在するのか?
個人は実在しない?・・等という概念は、あり得ない架空の話のように聞こえるものだ。
そうではないか?
<私>という個人だらけの世界、地上に73億もいる人間の、
その個々人が・・実在していないわけないではないか。
「アホか?、そんなこと話の外だ、論外だ!」、
変な話やめてくれない?・・ということになるだろう(笑)。
つまりそう、
こういう問いかけ自体、まったくの論外で、
つまり・・・よくよく吟味してこなかったということに他ならないのだ。
そんなの哲学者か宗教でやるべきもので、私とは関係がない・・みたいな。
私の本質的なテーマが、私とは無関係、手の届かぬものにいつの間にかなっていた。
本来は「おいおい、正気かよ?」なのだが、それが当たり前の風潮社会で、
外れるとつらい思いをするよ等という、
静かな恫喝を含んだ今までのマトリクス世界に気付けるだろうか。
なんのために生きているのか?という、若いころは誰にも湧き上がる本質的な疑問も、
学校の先生でもわからないのだから・・私が考えても無駄・・そんな経験ないだろうか。
全てではないが通常は、ここで自己探求意欲が失われるということだ。
そのうち、生活の為と急き立てられるように、外の世界、競争世界にハマりこんでゆく。
でも学校の先生のせいでもない。(笑)
・・・
個人は実在しない?・・等という概念は、あり得ない架空の話のように聞こえるものだ。
個々人が肉体を持ち、考えがあり、街中を何千人も歩いているのを毎日見ているし、
その1人1人が<私>という自意識を持ち、名前や経歴や性別、性格があるわけで、
そんな個々人が・・・実在していないなんて・・「あり得な~い!」と思うわけだ。
そりゃそうだろう。
実際、個々人が・・それぞれ別個に独立して存在しているというのが、
擦り込みの激しい、マトリクス観念なのである。
そういうのを「分離」の観念という。
●私個人は現象である
ここで「実在しない」というのは、「仮の存在」であるというような意味であり、
現象として在るが、「それが永久不滅のリアリティーではない」というような意味である。
それぞれの私・個人も、・・変化変遷し、留まるところのない現象であるという意味。
であれば、なんとなくわかる気がするかもしれない。
個々人は「実在しない」という意味がなんとなく分かるかも知れない。
あなたやわたし達という個々人は、やはり、変化・変遷する現象の中にある。
そうではないか?
私という個人は、一時の、仮の存在であるということだ。
生れては死ぬ定めの、
人生にいつか現れ、そしていつか去ってゆく、それが個人という<現象>だ。
これなら誰でも理解するはずである。
●今在る事実から逸れていただけのこと
私個人は、一時の仮の現象ということも、
気付けば当たり前の説明なのだが、常日頃そんなこと思わないからこそ、
「何それ?」ということになるものだ。
しかしながら無意識にあったこと・・・忘れている類の事実を言っているだけの話だ。
生活大変、仕事大変、人間関係大変、ローン大変、世界情勢大変・・
そんな中に放り込まれていたからこそ、集団で素通りさせられて、
それに気付かなかった、結構切実な・・事実を言っているに過ぎない。
そう、「個人」は<実在>していないのである。
意味深いところがあるが、
結構来る!(笑)・・表現ではないか?
言葉の意味合いで、そういう風に表現するだけではなく、
それぞれ、<私個人>は一時の現象、仮の存在であるというのが「事実」なのだ。
ちょっとドキリだが(笑)、はっきり言って、あなた達や私という個人は、
実在しない、仮の現象なのである。
頭で概念を素通りせずに、感じて観たらいい。
「私という個人は・・実在せず!」(えー?!)
OH MY GOD!
・・・
だが、しかし・・
私個人が、一時の仮の<私>だとしても、
私は存在しているという・・感覚がある。間違いなく。
別にロボットでも夢遊病者でも植物人間でもない。
私は・・今ここに存在している・・在る・・という実感があるはずだ。
私は今生きている・・という想いや、皮膚や五感を通じた知覚での、
自己存在感があるはずだ。
(2へ、つづく)
個人は実在しない?・・等という概念は、あり得ない架空の話のように聞こえるものだ。
そうではないか?
<私>という個人だらけの世界、地上に73億もいる人間の、
その個々人が・・実在していないわけないではないか。
「アホか?、そんなこと話の外だ、論外だ!」、
変な話やめてくれない?・・ということになるだろう(笑)。
つまりそう、
こういう問いかけ自体、まったくの論外で、
つまり・・・よくよく吟味してこなかったということに他ならないのだ。
そんなの哲学者か宗教でやるべきもので、私とは関係がない・・みたいな。
私の本質的なテーマが、私とは無関係、手の届かぬものにいつの間にかなっていた。
本来は「おいおい、正気かよ?」なのだが、それが当たり前の風潮社会で、
外れるとつらい思いをするよ等という、
静かな恫喝を含んだ今までのマトリクス世界に気付けるだろうか。
なんのために生きているのか?という、若いころは誰にも湧き上がる本質的な疑問も、
学校の先生でもわからないのだから・・私が考えても無駄・・そんな経験ないだろうか。
全てではないが通常は、ここで自己探求意欲が失われるということだ。
そのうち、生活の為と急き立てられるように、外の世界、競争世界にハマりこんでゆく。
でも学校の先生のせいでもない。(笑)
・・・
個人は実在しない?・・等という概念は、あり得ない架空の話のように聞こえるものだ。
個々人が肉体を持ち、考えがあり、街中を何千人も歩いているのを毎日見ているし、
その1人1人が<私>という自意識を持ち、名前や経歴や性別、性格があるわけで、
そんな個々人が・・・実在していないなんて・・「あり得な~い!」と思うわけだ。
そりゃそうだろう。
実際、個々人が・・それぞれ別個に独立して存在しているというのが、
擦り込みの激しい、マトリクス観念なのである。
そういうのを「分離」の観念という。
●私個人は現象である
ここで「実在しない」というのは、「仮の存在」であるというような意味であり、
現象として在るが、「それが永久不滅のリアリティーではない」というような意味である。
それぞれの私・個人も、・・変化変遷し、留まるところのない現象であるという意味。
であれば、なんとなくわかる気がするかもしれない。
個々人は「実在しない」という意味がなんとなく分かるかも知れない。
あなたやわたし達という個々人は、やはり、変化・変遷する現象の中にある。
そうではないか?
私という個人は、一時の、仮の存在であるということだ。
生れては死ぬ定めの、
人生にいつか現れ、そしていつか去ってゆく、それが個人という<現象>だ。
これなら誰でも理解するはずである。
●今在る事実から逸れていただけのこと
私個人は、一時の仮の現象ということも、
気付けば当たり前の説明なのだが、常日頃そんなこと思わないからこそ、
「何それ?」ということになるものだ。
しかしながら無意識にあったこと・・・忘れている類の事実を言っているだけの話だ。
生活大変、仕事大変、人間関係大変、ローン大変、世界情勢大変・・
そんな中に放り込まれていたからこそ、集団で素通りさせられて、
それに気付かなかった、結構切実な・・事実を言っているに過ぎない。
そう、「個人」は<実在>していないのである。
意味深いところがあるが、
結構来る!(笑)・・表現ではないか?
言葉の意味合いで、そういう風に表現するだけではなく、
それぞれ、<私個人>は一時の現象、仮の存在であるというのが「事実」なのだ。
ちょっとドキリだが(笑)、はっきり言って、あなた達や私という個人は、
実在しない、仮の現象なのである。
頭で概念を素通りせずに、感じて観たらいい。
「私という個人は・・実在せず!」(えー?!)
OH MY GOD!
・・・
だが、しかし・・
私個人が、一時の仮の<私>だとしても、
私は存在しているという・・感覚がある。間違いなく。
別にロボットでも夢遊病者でも植物人間でもない。
私は・・今ここに存在している・・在る・・という実感があるはずだ。
私は今生きている・・という想いや、皮膚や五感を通じた知覚での、
自己存在感があるはずだ。
(2へ、つづく)
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