私達は昔子供の頃、親から買ってもらって着慣れた特定の衣服にこだわり、そればっかり好んで着ていたこともあるでしょう。新しい衣服には目もくれず、慣れ親しんだ古い服にこだわったり、西洋の漫画で出てくるように、いつも同じ毛布をひきづって歩いたりしたこともあるかもしれません。我々の肉体もそのようなものなのでしょう。物心ついたときから着ているのを発見し、それらの衣服の成長をも体験しながら年を経てゆきます。しかしその与えられた衣服は必ず新しいものに着替える時期があります。だだをこねる場合もありますが、必ず違う衣服に着替えることになっていますね。
親の切なる愛を推し量れば、子供の成長に合わせた。中身にあわせた衣服が与えられると考えて、ありがたく頂くのが本来なのでしょう。その衣服は次なるステージに合ったものになっているのです。我々の意識が明確になれば、ちょうどプログラム調整のように、衣服やそれに相応しい環境を観察・制御できるようになるでしょうが、その前に感謝して頂くという素直さがまず大切なのではないでしょうか。例えば中学生には中学生らしい衣服があるように、成長に合わせた衣服があってしかるべきでしょうか。やがて大人になればそれらの衣服は自分でデザインするのも自在になります。
地球の衣服は少し汚れてきているのでしょう、衣服自体にシミが出てきたり、緑豊かな大地がはげてきたりで、放つオーラも灰色がかって見えているようです。汚したのが人類であるならば、まず自身で洗濯してしかるべきです。人類の洗濯・清掃とは、まずいわゆる「心」を洗うことであると思います。洗心とも言われています。人がどうだということでなく、自分自身で出来ることですね。重たい大勢の人々をどうこうしようではなく、自分から率先して少しづつ心を洗っていくことが急務であると思います。
きれい好きな地球を責めることは出来ません。自身で洗うようになる前に、絶対に人類みずから洗濯・清掃をする必要があります。人類のみの大切な、経済・簡便さなどは今は論外でしょう。
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