●人は思考する生命体
人が何かを考える・・いや目が覚めている間は常に何かを考えているものだ。
そうではないか?
そして、それ自体を意識的に自覚している、
あるいは自分の思考に気づいている瞬間がある人は、
その人は思考を見えている、いや観えている・・ということだ。
●自分の思考を見えるか?
自分の思考、イメージそして身体感覚をどこか伴う感情も、
ただ垂れ流しに起こしているということではなく、
その起きていることを「観察」しているということだ。
自分の行為や言動への反省などはその簡単な例である。
「あれっ、余計なこと言ったかな~、まずい、てへへ・・」
単に思っているか、さらにその思いを観えているか、気づいているか・・、
これが運命の分かれ目である。(笑)
これは一体どういうことか?
●観察者はその対象を制御可能
自分の思考、思い、想念を観察しているか、観察していないか?
それはその意識生命体の進化の分かれ目であるといえようか。
人間は言葉を換えれば、誰もみな、「意識ある生命体」なのである。
自己の意識に気付いているか、まったく気づいていないか・・。
あるいは観察する側にあるか、観察される側にあるかの違いであり、
人生を自らの意図を通して表現可能であるか、
外側からいじられるだけの他動的表現に終始しているかの違いともいえる。
量子場における観察者が、未分化の波動を崩壊させて、
現象化を促すことと同じように、思考を観察するものは、
その思考そして行為の発現を制御できるのだ!
●内からの思いが重要
すべての行為にはその背後に「思い」がある。
例えば、行き当たりばったりの夢遊病者はそうではないが、
人には様々な思い、思考、そしてそれらの集合としての信念があり、
それに従って言動を行うものである。
控えめな人は言動が少ないぞ・・というけれど、
それも内面の信念、思いの集合体によって様々な表現を行っているのだ。
●気づきや悟りは内から起きる
自分が、どういう思いを持っているか?
自分自身で観察することで、「あれれっ」と気づくことがあれば、
それはいわゆる「気づき」が起きているということなのである。
それは何も反省だけにとどまらず、意外な新鮮さに気づくことや、
「あー、そうだったのか・・」と腑に落ちること・・気づきが起きるのである。
●外からの思考制御つまり支配
外で起きている様々な事象を、そのまま自分の思いに振り向けることは、
実際全く逆方向の話であって、
それは外側からのプログラムを、無意識に取り入れていることを示す。
つまり環境がそうだから、自分もそれに従うべきだということになり、
本来、主体性のある自意識を、他者意識で塗り替えてしまっているということだ。
●今までの支配という揺りかご
そういうあなただよりの、幼い意識の段階の人というか、いや魂たちが、
自己に生起する思考を、そしてその行為によって起こる現象を、
ある意味、身体的、精神的な快、不快感によってまざまざと経験すること、
それが今までの地球というカテゴリーの生命場なのである。
●魂の発現密度(エネルギー波動)の上昇
スピリチュアルで言われる、第3密度の世界、あるいはエゴの世界といわれるものは、
意識の進化のそういうカテゴリー世界を示しているだろう。
第3番目の密度?・・
バシャールとか宇宙情報とかで言われるそれ、
これは波動の振動数の大きさ、密度と考えてもよい。
振動数、周波数が高いということは、別の言葉で言えば「密度が高い」という意味にもなる。
周波数が高いということは、その波動に乗った情報量も多いということなのである。
情報量が多ければ、様々なことが分かるということであるし、
例えば他者のことや、世界のことに関する知的理解も深まることでもあり、
多くの人への理解度も増大するという意味にもなる。
相手のことが分かるという以心伝心、テレパシー現象なども、
知ること、情報量の増大と相関している。
現在のインターネットは、サイバー系ではあるがその方向のものだ。
●人生は意識の進化の賜物
人がこの世で、赤ん坊から大人になってゆくということは、
最初は、何もわからず、何も知らず、相手も理解できず、
その集合体である世界のことも、ほとんど全く理解できていないことから始まって、
次第にその魂の発現たる・・「意識」が、詳細多岐にわたるようになることを示しており、
つまり、
根本にある、その本質の魂の発現過程を明確に示しているのである。
成長とは体だけが大きくなることだと思うのだろうか?
いいや全くそんなことなどありはしない。
自分の成長の過程を見てみるだけで、それがわかるはずである。
●全ては内面にある
外の世界で起きていることを、見ているのは誰だろうか?
周囲の世界を聞いているのは誰だろうか?
人は皆、外の世界の一員で完全に組み込まれているという、
そういう話を信じていたかもしれないが、
「自分の世界のすべて」を観察しているのは、
わたししかいない・・と気づいているだろうか?
●すべては神の分け御霊
よく人は皆、神の分霊というが、それは全くの事実。
ところが、何かの宗教やら組織やら、
神を外側にしつらえ、拝み奉るという儀式や伝統などで、
いつの間にか、神とは巨大な力とパワーと知恵を持っている、
外側の何者かだと、そういうイメージがあるかもしれないが、
それは全く、
鏡の向こう側にある自分自身を、真実だと思い込むようなものだ。
物量だとか体積だとか、大きいとか・・そういう物質的な巨大さが、
何かすごいものだという、そういう観念が世界にはびこっていたのだ。
それらすべて、
根本的には、魂レベルの話ではなく、
一時に過ぎない、物質肉体の安楽と安堵のためのものだったといえよう。
●波動の上昇
そう、今まで、観念、定着した思考の束、信念・・、
低いエネルギー振動としての思考波動の渦中にあったといえようか。
思考や想念、それを、観察できているか?
自らの思考、思い、想念、観念を・・よくよく観察しているだろうか。
大切なのは、山のあなたのどこか遠くではなく、
今ここに在ること、それを識ること、知ることにある。
これは古いカテゴリーからの卒業テーマともいえようか。
暗くて重い想念系からの上昇は、
それをしっかりと観察し、対象化することで行われる。
自己の思いを観察できる、あるいは気づいていることで、
思いは、それ、観察対象であって、わたし自身ではないことが自然にわかる。
これは頭の理解ではなく、今・・<在る>ことの・・体験だ。
人が何かを考える・・いや目が覚めている間は常に何かを考えているものだ。
そうではないか?
そして、それ自体を意識的に自覚している、
あるいは自分の思考に気づいている瞬間がある人は、
その人は思考を見えている、いや観えている・・ということだ。
●自分の思考を見えるか?
自分の思考、イメージそして身体感覚をどこか伴う感情も、
ただ垂れ流しに起こしているということではなく、
その起きていることを「観察」しているということだ。
自分の行為や言動への反省などはその簡単な例である。
「あれっ、余計なこと言ったかな~、まずい、てへへ・・」
単に思っているか、さらにその思いを観えているか、気づいているか・・、
これが運命の分かれ目である。(笑)
これは一体どういうことか?
●観察者はその対象を制御可能
自分の思考、思い、想念を観察しているか、観察していないか?
それはその意識生命体の進化の分かれ目であるといえようか。
人間は言葉を換えれば、誰もみな、「意識ある生命体」なのである。
自己の意識に気付いているか、まったく気づいていないか・・。
あるいは観察する側にあるか、観察される側にあるかの違いであり、
人生を自らの意図を通して表現可能であるか、
外側からいじられるだけの他動的表現に終始しているかの違いともいえる。
量子場における観察者が、未分化の波動を崩壊させて、
現象化を促すことと同じように、思考を観察するものは、
その思考そして行為の発現を制御できるのだ!
●内からの思いが重要
すべての行為にはその背後に「思い」がある。
例えば、行き当たりばったりの夢遊病者はそうではないが、
人には様々な思い、思考、そしてそれらの集合としての信念があり、
それに従って言動を行うものである。
控えめな人は言動が少ないぞ・・というけれど、
それも内面の信念、思いの集合体によって様々な表現を行っているのだ。
●気づきや悟りは内から起きる
自分が、どういう思いを持っているか?
自分自身で観察することで、「あれれっ」と気づくことがあれば、
それはいわゆる「気づき」が起きているということなのである。
それは何も反省だけにとどまらず、意外な新鮮さに気づくことや、
「あー、そうだったのか・・」と腑に落ちること・・気づきが起きるのである。
●外からの思考制御つまり支配
外で起きている様々な事象を、そのまま自分の思いに振り向けることは、
実際全く逆方向の話であって、
それは外側からのプログラムを、無意識に取り入れていることを示す。
つまり環境がそうだから、自分もそれに従うべきだということになり、
本来、主体性のある自意識を、他者意識で塗り替えてしまっているということだ。
●今までの支配という揺りかご
そういうあなただよりの、幼い意識の段階の人というか、いや魂たちが、
自己に生起する思考を、そしてその行為によって起こる現象を、
ある意味、身体的、精神的な快、不快感によってまざまざと経験すること、
それが今までの地球というカテゴリーの生命場なのである。
●魂の発現密度(エネルギー波動)の上昇
スピリチュアルで言われる、第3密度の世界、あるいはエゴの世界といわれるものは、
意識の進化のそういうカテゴリー世界を示しているだろう。
第3番目の密度?・・
バシャールとか宇宙情報とかで言われるそれ、
これは波動の振動数の大きさ、密度と考えてもよい。
振動数、周波数が高いということは、別の言葉で言えば「密度が高い」という意味にもなる。
周波数が高いということは、その波動に乗った情報量も多いということなのである。
情報量が多ければ、様々なことが分かるということであるし、
例えば他者のことや、世界のことに関する知的理解も深まることでもあり、
多くの人への理解度も増大するという意味にもなる。
相手のことが分かるという以心伝心、テレパシー現象なども、
知ること、情報量の増大と相関している。
現在のインターネットは、サイバー系ではあるがその方向のものだ。
●人生は意識の進化の賜物
人がこの世で、赤ん坊から大人になってゆくということは、
最初は、何もわからず、何も知らず、相手も理解できず、
その集合体である世界のことも、ほとんど全く理解できていないことから始まって、
次第にその魂の発現たる・・「意識」が、詳細多岐にわたるようになることを示しており、
つまり、
根本にある、その本質の魂の発現過程を明確に示しているのである。
成長とは体だけが大きくなることだと思うのだろうか?
いいや全くそんなことなどありはしない。
自分の成長の過程を見てみるだけで、それがわかるはずである。
●全ては内面にある
外の世界で起きていることを、見ているのは誰だろうか?
周囲の世界を聞いているのは誰だろうか?
人は皆、外の世界の一員で完全に組み込まれているという、
そういう話を信じていたかもしれないが、
「自分の世界のすべて」を観察しているのは、
わたししかいない・・と気づいているだろうか?
●すべては神の分け御霊
よく人は皆、神の分霊というが、それは全くの事実。
ところが、何かの宗教やら組織やら、
神を外側にしつらえ、拝み奉るという儀式や伝統などで、
いつの間にか、神とは巨大な力とパワーと知恵を持っている、
外側の何者かだと、そういうイメージがあるかもしれないが、
それは全く、
鏡の向こう側にある自分自身を、真実だと思い込むようなものだ。
物量だとか体積だとか、大きいとか・・そういう物質的な巨大さが、
何かすごいものだという、そういう観念が世界にはびこっていたのだ。
それらすべて、
根本的には、魂レベルの話ではなく、
一時に過ぎない、物質肉体の安楽と安堵のためのものだったといえよう。
●波動の上昇
そう、今まで、観念、定着した思考の束、信念・・、
低いエネルギー振動としての思考波動の渦中にあったといえようか。
思考や想念、それを、観察できているか?
自らの思考、思い、想念、観念を・・よくよく観察しているだろうか。
大切なのは、山のあなたのどこか遠くではなく、
今ここに在ること、それを識ること、知ることにある。
これは古いカテゴリーからの卒業テーマともいえようか。
暗くて重い想念系からの上昇は、
それをしっかりと観察し、対象化することで行われる。
自己の思いを観察できる、あるいは気づいていることで、
思いは、それ、観察対象であって、わたし自身ではないことが自然にわかる。
これは頭の理解ではなく、今・・<在る>ことの・・体験だ。