罪赦されるには

 「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、
 私の咎を隠しませんでした。
 私は申しました。
 「私のそむきの罪を主に告白しよう。」
 すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ」(詩32:5)

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 ダビデのマスキール。

 「自分の罪」とは、何だろうか。
 仮にそれが分かったとしても、それは肉の罪のほんの一部にすぎない。
 人間には、罪を自覚する能力は備わっていない。

 人間が主に罪を告白するのではなく、主が恵みによって人間に肉の罪を告げ知らせるのである。
 このときその人は狭き道に入る。
 その道を通り過ぎ、やがてキリストの十字架と復活にあずかるのである。
 すなわち、罪の赦しである。

 告白して罪赦されるのであれば、キリストが来られる必要はない。
 人間がどんなことをしても救われないので、この救世主が来られた。
 その意味で、上の詩は旧約の世界である。

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