これほど世を愛された神

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである」(ヨハネ3:16-19)

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 神は、イエスをこの世にお与えになった。
 肉をまとったイエスは、極刑としての十字架に架かって、死ぬ。
 文字通り、神はイエスをこの世にお与えになったのだ。
 なぜそうなさったのだろうか。
 「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」である。
 イエスを信じる者が「いのち」を得て救われるため、神は十字架のイエスをその人にお与えになられた。
 この十字架のイエスこそ、神の側から差し出した和解の手だ。

 「御子を信じる者はさばかれない」とは、「さばかれない」ということを信じ切っていることと、おおむね同じ。
 それで、御子を信じる者は救われるのである。
 人間には、二種類しかいない。
 信じた人と、信じるに至らない人。
 神と和解した人と、しない人。
 さばかれない人と、さばかれる人。
 さばく/さばかれない、というのは、神がその人に罪を見いだすかどうかということだ。
 神が罪を見いださない人、罪をおおわれている人、言い換えると義とみなされている人の幸いは、さばかれずに救われる、という一点に尽きる。

 では、さばくのさばかれないだのというのは、どういうことだろうか。
 「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである」。
 だから、やみの行いがあっても、ほおっておけばよい。
 その日にはさばかれて滅びるのだ。

 ところが、神は世の全体を愛して、イエスをこの世に下さった。
 やがて滅びるやみの人間にも等しくイエスの光は照らされている。
 神の差し出した十字架をやみの中で握りしめて、それで滅びる前に信じて救われる。
 そのように、「さばかれない」と確信できる救われた人が、今日もどこかで産声を上げていることだろう。

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[付記]
 本日の記事は、2007年11月5日の記事を大幅に書き換えたものです。

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