イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
主を畏れる人
「主よ。御名のために、
私の咎をお赦しください。大きな咎を。
主を恐れる人は、だれか。
主はその人に選ぶべき道を教えられる。」(詩25:11-12)
---
人はどういう時、神を畏れることを覚えるのだろう。
それは、「私の咎」すなわち肉の罪に否応なく気付かされた時だ。
アダムが善悪の知識の実を食べたとき、彼は自らの裸に気付き、そのことを急に恥じて、いちじくの葉を身にまとった。(創3:6-7)
そのように、今まで何とも思っていなかった自らの性質や行いが、急に非常に後ろめたく思うようになるときがある。
それが罪の意識だ。
その罪の意識を抱えて御前に出るとき、何一つとして、この神から隠しおおせるものはない。
神の御前に、全てが白日の下にさらされるのだ。
だから、神の御前に、ただ跪くばかりに畏れかしこまざるをえない。
神から新しい約束を賜ったこの時代、この罪を赦す道が開かれた。
イエス・キリストが、十字架と復活によってその道を開いたのである。
この道を歩むと、どれほど大きな罪の意識であっても、神の御前に義とされて、その意識は解放される。
「選ぶべき道」とは、このキリストの道のことである。
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私の咎をお赦しください。大きな咎を。
主を恐れる人は、だれか。
主はその人に選ぶべき道を教えられる。」(詩25:11-12)
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人はどういう時、神を畏れることを覚えるのだろう。
それは、「私の咎」すなわち肉の罪に否応なく気付かされた時だ。
アダムが善悪の知識の実を食べたとき、彼は自らの裸に気付き、そのことを急に恥じて、いちじくの葉を身にまとった。(創3:6-7)
そのように、今まで何とも思っていなかった自らの性質や行いが、急に非常に後ろめたく思うようになるときがある。
それが罪の意識だ。
その罪の意識を抱えて御前に出るとき、何一つとして、この神から隠しおおせるものはない。
神の御前に、全てが白日の下にさらされるのだ。
だから、神の御前に、ただ跪くばかりに畏れかしこまざるをえない。
神から新しい約束を賜ったこの時代、この罪を赦す道が開かれた。
イエス・キリストが、十字架と復活によってその道を開いたのである。
この道を歩むと、どれほど大きな罪の意識であっても、神の御前に義とされて、その意識は解放される。
「選ぶべき道」とは、このキリストの道のことである。
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